五、
「待って。あなたはどうしたいの? 本当はなにをしたいの? 答えて」
まるでかかしのように立っている、月虹姫のなれの果ては、銀子にとっていまだ「敵」のままだ。
くるしそうに呼吸をしている月虹姫のくちびるは、かすかにふるえていた。
「わ、わたしは……愛されたかった。あの人に。ただそれだけだった……。だから、あの人以外は邪魔だった。すべて……。でも、もういい。愛されないって分かっているから」
彼女の――ゆがんだ恋は、最初から那由多に届いていなかった。
那由多を責めることはできない。
それ以外を排除しようとした、月虹姫がすべて悪いのだ。
最初から、知っていたのだろう。那由多は、こうなることを。
悪にしかならないことを、那由多は知っていた。
だから、とどかないと彼女は知っていたのだろう。
「あなたは間違っている。それを知ってなお、どうして全てを排除しようとしたの? 愛されないと知っているのに」
「だからよ。ふたりだけになれば、私だけを見てくれる。そう思った。でもあの人はそうなっても、わたしを見てくれない。分かったから、止められなかった」
すっと、彼女の目から涙がこぼれた。
これが、月虹姫のほんとうの心。涙を流すほど、痛々しい心。
「そうだったんだね。私はあなたの心を受け入れる。許されないことをしたあなただけど、受け入れるよ。那由多には言わない。それがあなたへの私からの罰だよ」
彼女は、すこしだけ笑った気がした。
力ない笑みだった。
「あなたの心は、孤独。でも、私が受け入れるから、孤独じゃないよ。許されないけど、許さないけど、孤独じゃない」
「あぁ……」
かすかな、感嘆の声。
ゆっくりと顔をあげた月虹姫の表情は、銀子は決して忘れないだろう。
まるで恋さえしらないような、幼い、まだ幼い少女の、笑みを。
「お前は、やっぱり好きになれない。お人好しすぎる。私の敵。……でも、敵になってくれてよかったかもしれない……」
「そうね」
「ねえ、くるしいの。そろそろ、終わりにしてくれない? これが私が与える、お前への最後の……嫌がらせ」
「……」
銀子は、そっと龍の体をなでた。
それが合図だったように、龍は月虹姫を――哀れな少女を――恋を知らなかった少女を――その牙でもって、噛み砕いた――。
しずかな終わりだった。
噛み砕かれた少女は湖に落ち、やがて――乳白色の湖に溶けて消えた。
「……」
静かだ。
主のいなくなった心の湖は。
両方のてのひらと、貫かれた片腕が今になって再び痛んでくる。
どうやって帰るのかなんて、考えなかった。
悪い癖だな、と失笑する。
それでも、ひとりじゃない。炎の龍は、いまだ存在していた。
心配そうに目を細めている。
「平気。だいじょうぶだよ」
顔をよせてくる彼を撫でる。
血がついてしまっても、龍は構わないようだった。
「月虹姫を……ちゃんと根の国に送れたかな……」
実際は銀子の手で送ったわけではないけれど、それを望んだのは銀子であり、彼はそれを受け入れたに過ぎない。
殺せ、と思わなければ、彼も殺さなかっただろう。
意識が混濁する。
こちらがわで血が流れすぎたようだ。
ずる、と湖の底で足を滑らせてしまった。
そのまま銀子は――湖の奥に沈んでいった。
「銀子!!」
目を閉じて立っていたはずの彼女が、急に倒れた。
月虹姫の体はすでに地にあり、今度こそ動きそうにない。それに、月虹姫の体から黒い煙が吐き出されている。
銀子の細い体を抱き起こし、肩をゆさぶっても彼女は目を開かない。
くちびるに耳をあてがうが、呼吸はかすかに――ほんとうにかすかにしていた。
「……月虹姫は……根の国に送られたようだね」
「那由多!」
青ざめた顔をした那由多は、今にも倒れそうだった。おそらく、まだ鴉たちは式神と戦っているのだろう。
「おまえが倒れても、私は二人も運べないからな」
精一杯の嫌味を言ってやると、彼は、ふっとほほえんだ。
「こんなところで倒れないよ。月虹姫の体は藤が見張っていよう。銀子を、こちらへ」
那由多がヒトガタの札に息をふきかけると、藤が現れた。
「那由多どの。私などを召喚するまでもありませぬ。あなた様のお体が……」
「大丈夫だよ、藤。これくらい、どうということもない。それよりも、銀子を安全な場所に」
あきらかに無理をしているが、たしかに、いつ鴉が襲ってくるか分からない場所にいるわけにもいかない。
たとえ、月虹姫がもう死んでいるとしても。
月虹姫が操っている鴉たちは、いまだ忠実に「それ」を実行しているだろう。
「おそらく彼女は、月虹姫の心の奥底にもぐったのだろう。誰も手が触れられない場所だ。いや――月虹姫自身も触れることが出来なかった場所……っ」
ふいに、那由多の声が途切れる。
咳き込んだのだ。口に手をあてがっていたが、そこから血が流れた。
吐血をするまで術式を使いこんでいたのか――。
「那由多……おまえ、そこまで」
「……銀子が見ていなくてよかった……」
「おまえな……。また寝込んじまうほうが銀子も心配するだろ」
「はは、そうだね」
憎まれ口を言っているが、占部の胸のうちは嫌な予感がする。
那由多の体がどうなっているのか、占部はなんとなくだが――分かった気がした。
もう、限界なのだ。
月江からの情報だけを頼りに結界を張り、その結界から戻ることが出来ないようにし、そこから転移させ、さらに式神をも扱っている。
そんな芸当が出きるのは、おそらく鵺の森で那由多だけだろう。
その那由多も、吐血するほどだ。
ふつうの術使いならば、命が5つあってようやくできる術式という代物だろう。




