三、
(わたしには夢があった。)
(だれかに愛される夢を。)
(でも、それは叶わないことだったから、もうどうでもいい。)
(どうでもいい。)
(わたしはわたしのために、この世界をめちゃくちゃにしてやる。)
(そうすればきっと満たされる。)
(うつろな、この心が。)
残った氷の槍は、すでに跡形もなくなくなっていた。
残ったのは、腹に穴を開けた月虹姫だけだった。
「ちっ、生きてやがったか」
「……わたしはわたしはわたしはわたしはわたしは」
壊れたラジオのように月虹姫のくちびるからはき出されるのは、まるで呪詛のようだった。
うつむいている彼女が、ばっと、こちらを向く。
そこは、黒かった。
目も口も鼻もない。先ほどは白かったもののわずかな凹凸はあった。
だが今や凹凸もなく、黒いだけの、顔とも呼べないものがそこにある。
「満たして」
黒い髪の毛と同化してしまっている顔から、こいねがうことばが紡がれた。
「え……?」
「聞くな銀子。アレはもう話が通じる相手ではなくなった。今やただの赤子だ」
ずるりと、足を引きずるように前へ出す。そして、銀子は「見た」。月虹姫の――足跡を。
黒ずんでいた。
草花があったはずのそこは、見るも無惨にくすぶり、黒く変色してしまっている。
「どうして……。まるで、あれは……」
占部の血の跡のよう、ということばは飲み込んだ。
それでも占部は知ったのか、忌々しそうに黒い月虹姫を睨む。
「月虹姫の力が、暴走している。おそらく見切りがついたんだろう」
「見切りがついた? もう、どうでもいい、ということ? ヒトの命も、妖たちの命も、自分が――その頂点に上るということも……」
「そうだ。心が暴走している、ってことだ。倫理も、―ーまあ、最も最初からなかったようなものだが――正論も、もう通じない。分かったか、銀子。もう、説得は無理だ。根の国に送るしかない。心も、体も、すべて根に絡ませなければ」
占部は少しずつ近づく月虹姫の前に立ち、札を五枚、取り出す。
彼がほんのすこし――恐れていることが分かった。
銀子は自身の胸に手をあてて、占部に任せっぱなしの自分を叱咤する。
(占部だけを戦わせるわけにはいかない。私も、この、お母さんから受け継いだ力と、つぐみから受け継いだ力がある。鵺の森のために、ヒトの世界のために、私は今こそ、戦うべきなのだろう。)
「月虹姫。あなたが満ち足りていないことは分かるよ。でも、それでは多くの人が犠牲になってしまう」
「銀子!」
「あなたの心は永遠に満ち足りないままでしょう? なら、もう沈まなければ、ほんとうの意味で安らぎは訪れない」
そっと、麻の浴衣の裾をゆらす。足を一歩踏み出す。
銀子はもう、月虹姫を恐れなかった。
哀れな少女だと、そう思う。
それがたとえ、傲慢でも。
「前に出るな、銀子」
「大丈夫。私も、もう守られてばかりじゃない。根の国に送ろう? 占部。この、ちいさな少女を」
「銀子……?」
ふわ、と、風が、やわらかな風がふいた。
それは、銀子から発せられている。占部が訝しんだ直後、月虹姫の手が銀子の手を掴んだ。
「満たして」
「かわいそうな子」
万感の、言霊。
月虹姫の手が、びくんとふるえる。
それでも、彼女の手は掴んだままだ。
「銀子!!」
占部が叫ぶのも無理はなかった。
月虹姫が掴んだ手から、黒ずんだ煙が出ている。
あきらかに、異常をきたしているその腕を、占部は振り払おうとする――が、銀子がきつくそれを制した。
「待って。占部。大丈夫だから……」
そう言って無理にわらう少女のこめかみから、脂汗がにじみ出ている。
「だめだ、銀子! それ以上触れられていると、腐り落ちるぞ!!」
「それだったらそれでいい。今は彼女の心のなかを見ることが先」
「心の中をみる? そんなこと」
「夢見の力。お母さんから受け継いだ力があれば、きっと……」
目をとじる。
腕の焼け付くような痛みの先。
ほんとうは、ひとのこころの中なんか見てはいけない、なんて分かっていた。
それでも今は、このかわいそうな子を送らなければ。
月虹姫が銀子の手を掴んでいるときがチャンスだ。
だから、今しかない――。
徐々に、銀子の意識と月虹姫の意識が重なり合う。
海に片足をひたすように。
深く。
ずっと深く。
もっと、もっと深く。
痛みもなにもない。
あるのは、乳白色の湖。
つぐみの湖のように、周りに草木もない。
ただ、まるい湖だけだ。
ずっ、と音がする。
振りかえると、「彼女」がいた。
黒い髪の毛が水に乱れ、張り付き、重たげに体に巻き付いている。
「よく……ここまでこれたね。こんな深いところにきたら、戻れなくなるかもしれないのに。ここはわたしのこころの中。死んでしまっている、こころの奥」
「私はあなたを許さない。だから、敵。そして、あなたの敵。だから、私はあなたを根の国に送る」
「そうね。わたしはあなたの敵。あなたはわたしの敵。いいわね、敵がいるっていうのは。まっすぐ見つめることができたのは、あなただけだよ、銀子」
幼い体に張り付いた千早と緋袴は濡れて湖のなかに浮いている。
銀子の体も、浅い湖に立っているせいか、体が重たかった。水色の浴衣も、彼女と同じように浮いている。
「で、このわたしを根の国に送るのでしょう? どうやって送るの? あなた、自分の手を血で汚すことができるの? 今までぬくぬくと占部に守られていただけの子が? 笑える」
くすっとほほえみ、「赤い瞳」が銀子を睨んだ。
「そういうの、すごくむかつく。いい子ぶって、自分の心を隠してる」
「そうだね。むき出しの心をさらけ出すのはすごく勇気がいる。だから私は嫌われないようにしてきた。それに苛立つあなたは正しいよ」
一歩。
足を踏み出す。
「だけど、あなたの正義を、私は否定しなくちゃいけない。あなたにとっての悪にならなくちゃいけない。それが私の正義。ほんとうの心よ」