四、
「狸が……」
人の姿になった狸が、にこりとほほえんだ。
唐茶色の着流しと、派手な深緋色の羽織を肩に羽織っていて、どこかつかめない表情で笑っている。
「どうもこんにちは。人間の嬢ちゃん。俺は暁暗。この通り、化け狸のたぐいさ」
袖をひろげて、飄々とくちもとをゆるめた。
髪の毛は茶色にも似た紅鳶色で、頬は雪のように白い。それでも男なのに、くちびるは自然な朱色になっている。
「私、銀子。……どうしてこの家にいたの?」
「ああ、噂には聞いている。でも、いたわけじゃないよ。ちょっと通らせてもらっただけ。那由多どのも占部どのも通っていいって言ってるからね。時々通らせてもらってるのさ」
「ふうん。どうして?」
「嬢ちゃんは質問ばかりだねぇ」
けらけらと笑う暁暗は、やはりつかめない。ほんとうにそう思っているのか、思っていないのか銀子の目には分からない。彼にはそれが分かるのか、奇妙な笑いかたをして銀子に目線を合わせた。
「このあたりは道がなくてね。どうしても通らなきゃいけないとき、通らせてもらっているんだよ」
「そうなんだ」
「俺もきみにすこし聞きたいことがあるんだ」
「なに?」
赤茶色の目を細めて銀子と目を合わせたまま、こう問うた。
「どうしてきみは、鵺の森なんかに来たんだい?」
「それは……」
家族に捨てられた、などと言えやない。うつむいて口をつぐんでいると、暁暗は銀子の肩を軽くたたいた。
「まあ、人間が鵺の森に来て、伊予姫に見定められたこと自体希有だからね。おかしなことを言った。忘れてくれ」
「――私、家族に捨てられたんだ。妖怪たちが見えるからって」
逃げてはいけないと思ったのだ。
家族に捨てられたのはほんとうのことで、変えられないことなのだから。それでも、妖たちが見えることを嘆いたりしない。いつだって、やさしかったから。
「そうか……。ああ、そうだ。これから、飴屋にいくんだ。きみも一緒に行くかい?」
「あめや……?飴を売っているの」
「ああ。俺の大好物でね。切らしてしまったから、買いに行こうと思ったんだ」
「いいの? じゃあ、那由多に聞いてみる」
「ああ、そうするといい。俺はここで待ってるから」
玄関から那由多がいる部屋までは、なんとなくだが覚えている。しかし、この屋敷はなぜこんなにも広くて、曲がりくねっているのだろう。銀子以外の客を見たことがないし、お手伝いのひとも、藤以外見たことがない。
なのに、どうしてこんなに広いのだろうか。
「那由多……」
「どうした、銀子」
文机に目を落としていた彼は、銀子に気づいたのか顔を上げた。
「暁暗ってひと、知ってる?」
那由多の前にすわって問うと、彼は目をかすかに見開いて「暁暗?」と問い返す。
「うん。飴屋さんに連れて行ってくれるって。行ってもいい?」
「暁暗か……。彼なら信頼できる。いいよ、行ってきなさい」
「那由多。暁暗って、やさしいひとだね」
「そうか。きみがそう思うのなら、きっとやさしいのだろうね。わたしは、あの男のことはよく知らないんだ。神出鬼没、見たと思ったらすぐに消えてしまうからね」
「そうなんだ……」
「行っておいで。銀子。すこし歩いてくるといい。暇だっただろう?」
「……暇ってわけじゃなかったけど……行ってきます」
実際は暇だったのだが、暇だと豪語することはできなかった。それさえ那由多には分かってしまっていたのか、「行ってらっしゃい」とかすかにほほえんだ。
こうして見送られることがなくなったのは、いつからだろう。
いつから、母や父、祖母が「行ってらっしゃい」と言わなくなったのは。
だから、うれしかった。
那由多が笑って「行ってらっしゃい」と言ってくれたことが。
「暁暗!」
「ああ、どうだった?」
「行ってきてもいいって!」
「そう。じゃあ、行こうか」
嬉しそうに笑う銀子にうなずき、長い石畳を歩いていく。
空はとても晴れており、白藍の色がどこまでも広がっていてきれいだ。前はきっと、空がきれいだなんて、当たり前すぎて分からなかった。
鵺の森にきてからはじめて思うこの「空がきれい」という思いは、きっとこれから大事なものになるのだと思う。なぜならここにはきっと、人間がいないからだ。人間と妖はちがうと聞く。だから思うこともちがうだろう。
「すごい!」
「そうかい? 俺は、そうは思わないけどね」
さまざまな野菜や果物、そして着物や日用品を売っている露店がずらりと並んでいる。視界のなかにやっとおさまるほどだ。
「ここは、アソウギ通りと言ってね。鵺の森のなかで露店が一番多い通りなんだよ」
「そうなんだ……。飴屋さんって、どこにあるの?」
「ずっとむこうだよ。ついておいで」
「うん」
人通りも多いが、暁暗の派手な羽織を目印にすれば、きっとはぐれることはないだろう。それに、彼は足取りもそれほど速くない。銀子を気遣ってなのかもしれないが。
「銀子」
「なに?」
5分ほど歩いただろうか。暁暗はいきなり立ち止まり、銀子の名を呼んだ。それでも立ち止まったまま、何も喋ろうとしない彼を不審がった銀子は、後ろをむこうとした。
「振り向くな」
しかし、暁暗に鋭く止められておもわず体がこわばる。
「鴉どもだ」




