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月を眺めるノラ猫

作者: 原田実

月を眺めるノラ猫


野良猫が四匹の子供を産んだのは、桜の花が散ってしばらく経った頃だった。

アパートの脇に屋根付きの自転車置き場があった。その片隅にあった木枠で作られた犬小屋のような箱に産んだのだった。

子猫の鳴き声は4部屋あるアパートの住人全員に、昼となく夜となく聞こえていた。それでも誰も鬱陶しいがらずに可愛がっていた。特に僕の隣りの部屋の中年の女性である浅井さんは、自分の部屋に入れてあげたり、泊めたりしていた。


産後二ヶ月ほどすると、突如母猫と三匹の子猫たちは姿をくらました。

一番小さい子猫が置き去りにされたのだった。

幸いにもその子猫はすでに離乳食を食べることができていた。浅井さんが毎日残りご飯をあげていた。浅井さんは一人住まいで、働いている様子もなく、影のように静かで妖艶な美人だった。浅井さんには古普請の木造二階建てアパートは全く似つかわしくなかった。時々年配の男が来て泊まっていくこともあった。

僕はその子猫をチビと名づけて、事あるごとにアパートの前の駐車場で戯れた。

チビは名前の通り痩せていてなかなか大きくならなかった。ネズミみたいだった。いつも眼やにがついていた。内臓に疾患があるのかもしれなかった。

夏のある夜駐車場に行くと、チビが跳ねるように動き回っていた。何をしているのかと見ていたら虫を追いかけていたのだった。捕まえると、ムシャムシャ音を立てて食べていた。甲虫の類いでも食べていたのだろう。そんなチビを見ていたら、いじらしくて愛おしくなった。


残暑も終わり涼しい秋風が吹き始めた頃、浅井さんが亡くなった。


…それは早朝のことだった。

僕はいつも6時15分前に携帯電話に目覚ましをセットしていた。それが鳴る前だったから、夜が明けてまだ間もない時刻だった。

ドアを叩く音がした。

深く眠っていたのと弱い音だったのとで、直ぐには気づかなかった。夢の中で何かの音を聞いていたような感覚だった。

ふと、現実の音だと気づき布団から起き上がりドアに向かった。

「どなたですか?」

「…隣りの浅井です」

息苦しそうなかすれ声だった。僕はただ事ではないような気がして、直ぐにドアを開けた。

すると、浅井さんはドアの横の壁に寄り掛かり苦しそうに顔を歪めていた。

「救急車を呼んで下さい…」

視線を落とすと、下腹部に出刃庖丁が垂直に突き刺さっていた。浅井さんは左手で出刃庖丁の柄を支えていた。手が震えていた。下腹部の衣服は真赤に染まっていた。

浅井さんはしばらく入院していたが、容体が急変してそのまま息を引き取ったと、時々泊りに来ていた浅井さんと知り合いだという男は淡々と言った。

浅井さんは自分で腹を刺したのだった。

浅井さんには身寄りらしい身寄りは誰もいないということだった。しかし、男と浅井さんがどういう関係ったのか、僕は知らない。


そんなある深夜のことだった。僕は遅く帰宅して駐車場に車を止めた。アパートの部屋に向かおうとすると、駐車場の片隅に小さな黒い翳を認めた。チビだった。チビは姿勢正しく前脚を揃え地面に尻を落として座っていた。そして漆黒の夜空に気球のようにぽっかりと浮かんでいた丸い月を身じろぎもせずにじっと眺めていた。

月は透明感のある青白い光を煌々と放っていた。

僕もチビの脇に座りこんで一緒に月を眺めた。

「綺麗だなぁ…」

僕は月の光の余りの美しさに思わずそう呟やいた。

「でも、哀しいよ。淋しい…」

男とも女ともわからない全く聞き覚えのない声だった。

その声に驚いて周囲を見回したが誰もいなかった。幻聴だったのか…

徐にチビに視線を落とすと、チビは何事もなかったかのようにただ一途に月を眺めているだけだった。最近のチビは大きくなるどころか痩せ細っていた。眼やにも鼻水も酷くなっていた。その小さなか細い姿態は孤独そのものだった。

そんなチビを見ていたら、僕も急に哀しくなった。

月の光はそんな感情とは裏腹に益々美しく眩しいくらいに輝いて見えた。

「高瀬さん」

先ほどと同じ声が僕の名前を呼んだ。

その声には方向性がなかった。僕の頭の中で聞こえているのだった。

「僕のそばにいてくれてありがとう。おやすみなさい」

チビは口こそ開いてはいなかったが、僕を優しい眼差しで見つめて言うと、歩き出した。途中寂しそうに振り返ったが、何も言わずそのまま闇の中に消えた。

僕がチビを見たのはそれが最後だった。


今夜もあの時と同じ丸い月が漆黒の闇に青白い光を放っている…




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