第5話 幻のキッス
昨夜の騒動から目覚めた今朝方のこと。
「誠ぉー早く起きて、これ見てよぉ」
何時もより弾んだ声で真夏が部屋に飛び込んで来た。
「後五十二分、寝かせろ」
俺は寝返りを打ち真夏に背を向けた後、ベッドが激しく軋みんだ。
何時もの如く真夏がベッドに飛び乗ったからなのだが……。
今日は様子がおかしい。
通常なら俺を目掛け圧し掛かってダイビングして来るはずなのに、今日は真夏のなにやら背後で、もぞもぞ蠢いている。
「まーこーとぉー、早く起きて、ねっ!」
真夏が甘い声で喋る度、なんだか耳元がくすぐったい。
俺は再び寝返りを打ち眠い目を擦り重たい目蓋をこじ開ける。
「うおっっ! なにしてんだお前は人のベッドに潜り込んでっ」
真夏の顔が鼻の先が触れそうな程、近くにあった。
「誠、これ見てよ!」
部屋の中はまだ薄暗い。
「な、いったいなにをだよ」
「分かってるくせにぃー」
「お、俺も男だから正直見てみたい気もある。でも……本当にいいのか?」
「いいよぉー。誠だもん」
カーテンの隙間から日の出前の紫色の空が覗いている。
真夏も、まだパジャマ姿のままだ。
これは夢なのか? いや現実だ。
俺は真夏の胸ボタンに手を掛けた。
「なっ、なにしてんのっ! 誠のエッチっ」
「だって、お前がいいって言ったから」
「違うよぉー。見て欲しいのは新聞だよぉ」
俺は普段大して役に立っていない目覚まし時計を見て時間を確かめる。
「よ、四時二十分! おのれ! 真夏なんの嫌がらせだ」
真夏は跳ね起きベッドの上に、ちょこんと正座し新聞を手に持って目の前で広げた。
昨日の観覧車事故が大きく一面に取り上げられ、その写真の中に真夏のミルフィーユも写っていた。
幸い真夏と俺らしき人物は写っていなかった。
俺は、ほっと胸を撫で下ろしたが、とんでもない出来事である事には違いないのだが、真夏は能天気に浮かれている。
「凄いでしよぉー私のミルフィーユ。かっこいいー」
「お前な……昨夜も言ったけど、真夏のミルフィーユは現代科学ではあり得ない異物なんだぞ。そのへん分かってんのか? 不用意に使用すれば様々な騒ぎが巻き起こるんだぞ。だから俺は言ったんだ。絶対に使うなって、それにお前にとっても禁止事項なんだろ?」
「ま、誠のばかぁー! あの時、ミルフィーユを使わなかったら、誠……死んでたんだよ? 周りの心配してないで自分の事も考えなよぉ……わ、私の事も」
真夏は目を吊り上げながら、その目蓋から涙を零れ落としていた。
「お、お前の事を考えて、俺は言ってんだぞ」
「ばか、ばか、ばかぁー、誠はなにも分かってないよぉ……真夏は禁止事項を破ってでも、誠との約束を破ってでも……誠に死んで欲しくなかったんだよぉー!」
真夏は俺の胸に飛び込み何度も叩きながら泣いる。
「……ごめんな、ありがと真夏」
俺は胸で泣いている真夏の両肩に手を添え、ゆっくり押し戻した。
真夏が少し顔を上げ、鳶色の瞳を閉じた。
薄い桃色の唇は薄っすら開いていて細い吐息が漏らした。
「うっっぅん。誠……」
「真夏」
俺は徐々に真夏の唇に己のそれを近づけた。
「眠いよぉ」
「はい?」
言うなり真夏の首が、がくりと落ちた。
起床時間までには、まだ時間がある。
昨夜エスプリ(力)を使い過ぎたせいか、泣き疲れたのか真夏を横にしてやると寝息を立て始めた。
俺は真夏の栗色の髪の毛を撫でてやった。
可愛らしい寝顔を見ているとキスをしたくなる。
再三、唇を寄せては耐えていた。
湧き上がる衝動に耐えていた俺は、何時の間にか再び眠りの世界へと落ちて行った。
ピッピ、ピッピ、ピッピ。
忌々しい電子音が俺の眠りを妨げ、それを無意識に時計を触り電子音を解除する。
「誠ぉ! 早く起きてっ」
「後六十七分、寝かせてくれ」
「だからぁー〝朝一おはようさんテレビ〟で昨日の事故現場が放映されてるんだよぉ」
当たり前だ! 昨夜も夜中まで放映されてたし新聞の一面を飾っていたからな! ……って、呑気な事を突っ込んでいられるか。
俺は掛け布団を乱暴に剥ぎ取ると部屋を出て階段を駆け下りた。
「う、映ってるな、今日もばっちり」
「映ってるね! 真夏のミルフィーユ」
にこやかに真夏が言った。
「そりゃ、まあなぁ」
「ミルフィーユぅー」
真夏がテレビ画面に張り付いて頬擦りをしている。
ニュースを伝えるキャスターの隣には、事故調査評論家とUFO評論家が座っていた。
真夏のミルフィーユを見てUFO評論家が「これは間違いなくUFOです等とお気軽発言を口走った。
その事が真夏の勘に触ったらしい。
真夏は、プリプリと口を尖らせ文句をつけている。
「UFOなんかじゃないもん! セール・ヴォランはサンタクロースの必須アイテムだもん」
いや十分に未確認飛行物体だぞ真夏。
「やべぇもうこんな時間だ。真夏、学校に行くぞ」
「あっ! 待ってよぉー誠」
と慌ただしい朝を迎えたのだった。
「おい真夏、そんなに怒んなってUFOなんて誰も信じやしないから気にするな」
「誠、真夏は怒ってないよぉ? 別に怒ってないもん!」
真夏は頬を膨らませ唇を尖らせている。
「怒ってんじゃん。じゃあなんで不機嫌なんだよ」
「怒ってないもん……ちょっと……ね。まぁいいや、あはっ」
真夏の笑顔が寂しそうに感じた。
学校では案の定、昼休みの格好のネタとなり、昨晩の観覧車事故の話題が持ち上がっていた。
どちらかと言うと男どもの間では真夏のミルフィーユ、つまりは未確認飛行物体の方が中心になっている。
「昨夜のニュース見た?」
「見た見た、救助されていく人達の様子を見てハラハラしてた。ありゃレスキューまるっと二十四時間の特番に絶対使われるな」
「あほ。その前にUFO特番組まれるって」
「あの浮遊物って、いったいなんだろうな」
「だからUFOだろ?」
「お前、本気でそう思ってんの? UFOなんてどっから来るんだよ」
「やっぱ、どっかの惑星から来んじゃねぇの」
やっぱりか! そりゃ噂になるはなぁ。
生徒達のいいネタになっている。
俺は真夏の様子を窺った。
真夏は特に気にした風も無く女子と会話を楽しんでいる様に見えた。
真夏の奴が、おかしな事を言ってないか、ひじょーに気になる。
俺は真夏の傍に行き会話に聞き耳を立てた。
「昨日、わたしも隣町のショッピングモールに買い物に出掛けてたんだけど、観覧車乗らなくて良かったよ。あと二、三組ってところで運行停止だってさぁ、運がいいのか悪いのかだったよ」
間違いなく運がいいって。俺なんか宙ぶらりんになったんだからな!
「へぇー? 優子ショッピングモール行ってたんだ……誰と観覧車に乗ろうとしたのよ?」
「べ、別に……誰だっていいじゃん」
「彼氏かぁ! 何時の間にっ」
「愛美も彼氏、作ればいいじゃん。愛美は面食いだからって選び過ぎなのよ」
「そうでもないんだけどねぇ……」
ちらりと真夏を見て言った様に見えた。
「あっ! 真夏ねぇー昨夜――」
「そう言えば真夏、誠くんとショッピングモールにいたでしょ? 昨日見掛けたよ。声掛け様と思ったけど、なんだか誠くんと喧嘩してるみたいだったから止めたけどさぁ。真夏はあのあと観覧車乗ったの?」
「乗ったよぉ」
「デュヒヒヒ。で、仲直りに誠くんとイチャイチャしてたんだ? 喧嘩の後の仲直りにキスとか、他にもいろいろと」
「愛美、あんたにはちょっと酷な話ね。彼氏いないから好きな人とかいないの?」
「好きな人はいるけど……その人には彼女以上の人がいるから……」
「それって……まさか! 誠くん? あんたも意外にチャレンジャーね。競争率激しいわよ。誠くんてさぁ、それなりに整ってるよね。同じクラスになった女子の大半は誠くんに好意を抱くみたいだけど。あんたもその一人だったのね」
「あのねっ! 誠は真夏の――」
真夏の頬が膨れ始めている。
「優子だって真夏がこの学校に編入して来るまでは誠くん一筋だったじゃない! ……だけどあれなんだろうね。ほら、テレビに映っていた昨夜のSF映画に登場するみたいな浮遊物は」
「結構まじかで見てたけど、サーチライトに照らされた銀色のシルエットは、まさにあれよ! もうSF映画に出てくる乗り物みたいだったわね。もしかするとショッピングモールの新しいアトラクションかしら?」
「あれはねっ! 真夏の――」
真夏は自慢げに頬を吊り上げている。
待てつ早まるな! 真夏。
俺は咄嗟に真夏の口元を塞いだ。
「ふごふごふご……」
真夏が俺の手を引き剥がす。
「苦しいよぉー誠!」
「誠くん。本当に観覧車乗ったんだ? 事故前でよかったね。真夏とイチャつけて」
愛美の冷たい視線が突き刺さる。
「乗ってねぇよ」
「真夏は乗ったって言ってたよ?」
俺は苦笑いを浮かべ弁解を試みる。
「真夏は乗りたかったんだよなぁ、俺が嫌がったから結局乗ずに帰ったんだよなぁ、真夏」
「えぇっ! 乗ったよぉー」
「いいからちょっと来い。真夏」
「痛いっっよぉ、誠」
俺は真夏の手を引いて教室を後にして屋上に向かった。
「誠? どうしたのさ」
昼休みの談笑を強制的に打つ切られた真夏の頬が膨らんでいる。
「あのなぁ真夏? ソリの事はお前にとっても禁止事項なんだろ? なに喋りそうになってんだよ」
「違うよぉー! 誠の早とちり! 真夏がUFOを呼んだんだよって冗談言って適当にはぐらかそうとしてたんだよぉ。そんでもって、恋バナやファッションの話に戻そうと考えてたんだよぉー真夏は」
全身全霊を掛けて、言おうとしてただろ! 観覧車での出来事を!
「観覧車に乗ってた事もか?」
「あぅ……それは、言おうとしたかも……」
頬を膨らませたまま、真夏は俯いた。
「だって嬉しかったんだもん! 誠のばかぁ……真夏は心配なんだよぉ、他の女の子に誠をとられちゃうかもって、不安なんだよぉ。誠がはっきりしてくれないからっ」
真夏が上目遣いに俺を睨んだ。
「そりゃ……お前と出会ってまだ間が無いから……」
「キスして」
真夏はそう言って唇を突き出した。
「お、お前なっここは学校だぞ! ……誰かに見られたらどうすんだ」
「真夏は見られてもいいもん! 誠は真夏の大切な人よ、って皆が分かってくれるもん」
真夏の目が潤み出している。
「でもな真夏、やっぱ学校では不味いって」
「今朝……」
「今朝がどうした?」
「寝ている真夏にキスしようとしてたくせにっ」
「お、おまっ……起きてたのか!」
真夏は少しだけ舌を出して微笑んだ。
台風の余波か風が強い。時折、一段と強く吹いている。
「きゃっっ!」
短い制服のスカートの裾を押えていた真夏だったが、強く吹いた風がスカートの中に空気を孕んで持ち上げた。
「誠のエッチっ。さてはこれが目的だったのねっ」
「馬鹿、違う!」
「じゃあキスして……」
「駄々こねてんじゃねぇよ……もっとだなんて言うかシチュエーションてもんがあるだろ……」
「昨夜……観覧車事故が無ければよかったのにねぇ? 案外誠ってロマンチストなんだね」
真夏はそう言って微笑んだ。
きっと、この瞬間、俺は気付いたんだ。
俺にとって真夏が掛け替えの無い大切な存在になりつつある事に。
第6話 近付く別れにつづく