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五月の越野

作者: 直江正義

東京へと越してきたフリーター男の平凡な日常です。

 五月越野へ移る。伽藍の新居を二日の間に整え、すっかり暇になってしまったのでどうしたものかと思案していた。椅子に腰掛けて珈琲を飲むが不味い。安物のインスタントだから不味いのは当然である。我が家には珈琲メーカーが無い。それどころか砂糖もないしミルクも無い。私は何時も珈琲を飲むときは半分ほどミルクを入れる。ミルクは結石を予防するらしい。昨年不養生のために大変痛い思いをしてからは必ず珈琲をミルクで割ることにしている。あんな苦痛はもうこりごりだ。しかし無いものは仕方がないと思ってもう一口飲んでみるがやはり不味い。味に辟易して飲むのは止める。だからといって牛乳を買ってくる気にもならない。近くにコンビニはあるのだが、今しばらくは買いに行く気持ちになれない。軽い溜息をついて椅子に深々腰掛ける。中々座り心地が良い。安くて良い椅子を新調した。机もおそろいで新調したし、本棚も新しいものを買った。だが大きなものばかりが揃って日常雑貨がまるで無い。そうして小物もまるでない。大変ぶっきらぼうな部屋である。部屋に可愛げがないことは家主と変わらぬ。しかし住むには困らぬから構わない。しかしそうは言っても、日常雑貨までないのではやはり不便であるから、スーパーにでも買い物に行くかと思うが腰が重たい。どうにも疲れて気が向かない。家具はどれもお値段以上である。だが組み立てるのには骨が折れた。二人作業の設計物を一人で作ったのだから疲れるのは当然である。安物買いはくたびれて儲けた。だから不満は無い。値段の割には安楽な椅子である。


 そうして不味い珈琲を前にして渋い顔をしていると、そういえば首都大学が近くにあったと思いだす。元来私は大学見物が好きである。富山に帰った際には富山大学を見て回る。特にマルクスが面白い。学生の時分は当然ながら、仕事についてからも大学はよく利用する。だから神戸大学は当然として、広島大学へもよく行った。図書館などは特に利用した。そうしてつい先週、広島大学図書館で近所の母親が子供を連れて図書館を回っていたことを思い出す。子供は赤子であった。母親は本を探していた。そうしてベビーカーを押していた。実に微笑ましかった。話しかけてみようかと思ったが、ちょっと不審なので止めた。昔から犬だとか猫だとか子供だとかを見ると弄ってやりたくなるのは性根である。そんな光景がここでも見られるかも知れぬと思っていたら、首都大学の図書館は学外の人間には利用できぬという。そんな馬鹿な話があるかと思ったが事実である。なんのための図書館や大学なのかがよく分からぬ。地域の役に立たぬのならば閉鎖してしまえばよい。これだから東京者は嫌いであると、東京者を知らぬまに決め付けてしまった。


 そんな勝手なことを考えながら、憮然として学内を見て回る。東京者は悪いが東京の大学は清涼で良い。全体緑がある。そうして規模も程良い。富山大学も神戸大学も広すぎたのがかえって良くない。広島大学は広いには違いないが、全体としてまとまっていたために規模の割には身近だった。そうして学内の利便は良かった。学外の利便は最悪である。だが近所のおば様たちがよく大学へ来ていた。おば様たちは何も勉強をしに大学へ来たのではない。ランチを食べに来たのである。キャンパス内にあるレストランが、安くて美味いと評判であった。私は行ったことがなかったが、一人で行く雰囲気の店ではなかったので仕方のない話である。


 大学の全体を見て回った後、さて帰ろうかと思ったが、サークル棟が開いていたのを見て中に入ってみることにした。時は連休の直中である。学部棟は悉く閉まっていた。その中にあってここは別らしい。むしろ連休には活発にサークル活動を行えるものと見える。きっと学生は喜んでいるに違いない。そういえば道中グラウンドが賑やかであったことに気がつく。サッカーか野球かテニスか知らぬがからかって来ればよかったと思う。人間は太陽の児であるから、運動をする若者は見ていて気持ちが良いものだ。


 そうしてサークル棟を歩き回る。大変乱雑である。サークル棟はどこもそんなものである。そうしておんぼろである。これも常と変わらない。ただサークル棟が案外大規模であったのには驚いた。それにしても部室が多い。広島大学などはもっと学生数の多い大学であったが、サークル棟は大変狭苦しく小さかった。金があるところは何でも豊かだ。もうすこし心も広ければよいのに。


 そうしてぐるぐると見て回っていると驚いたことに文科系のサークルが活発である。サークル紹介の記事が充実している。中には障碍児との交流を行うサークルもあった。児童へ人形劇を見せる活動をするサークルもあった。大変感心させられた。勿論広島大学にも同じような活動をするサークルはあった。だから何処の大学にも、こういった活動があるものだと感心させられたのである。そうしてしみじみとサークル活動に見向きもしなかった学生時代を後悔する。私は小説を趣味としている。文藝部にでも入ればよかった。しかし小説は大学卒業後に出来た趣味である。学生時代は勉強ばかりであった。今更後悔してもやむを得ぬ話である。


 そうして見て回ると文藝部があった。最近は小説をよく読むが、どちらかと言えば同人の小説を好む。広島大学でも文芸部の部誌をよく読んだ。はじめ行ったときは過去一年分くらいを貰って読んだ。中には優れたものもあった。感心して論評を書いて送ったものもあった。何せ意欲盛んな大学生である。定めし喜んで、感謝の言葉もあるだろうと期待した。しかし返信はなかった。期待はずれでがっかりしたが、元来強いて求めるものでもないから、不満には思わなかった。ただ彼らの小説に読み応えがあったのは揺るがぬ事実である。東京でも同じ期待をする。拙くとも熱意の感じられる小説が読みたいものだ。


 そうしておや、とあることに気がつく。何故か文藝部が三つある。微妙に活動内容は違うが、何が違うのかこちらには分からない。同じ文藝部同士、一箇所にまとまって仲良くやれよと思う。そうして中には何をやってるのかよく分からない文藝部もある。サークルの紹介記事が空虚である。実績もなさそうである。部室を廊下から一眼して見るとどうにも覇気が感じられない。なんだか寂しい雰囲気である。


 そうしてはっと私は、彼らは元々一つの文藝部だったのだが、部員各員の熱意の違いから派閥が作られ、遂に袂を分かつに至った歴史があるのではないかと空想した。実にくだらない妄想だが、次第にあたっている気がして来た。となるとこのうちの一つくらいは意欲盛んな文士の卵が集っているに違いない。向学心に溢れる友人を得られるとなれば、サークル活動は大変素晴らしい。しかし袂を分かつ経緯を持つようなサークル関係は反目しあって平穏ではあるまい。そんな殺伐は嫌であるから、大学時代に文藝部に加入しなかったことはかえって良かったのかも知れない。


 そんなことを一人でむにゃむにゃ考えていたら人が通りがかった。だぼだぼの服装でおっさんがぼうっとしていたのだから定めし不審であったろう。何だか気まずくなってしまった。あまり長居はよそうと思い、とりあえずそこにあった部誌を持ち帰る。少なくともこれで図書館代わりにはなったので、私の溜飲も多少は下がった。


 そうして帰路の途中改めて思う。やはり南大沢は素晴らしい町だ。まずこの町は都会である。あらゆる施設が歩いて十五分以内にある。信じられないことである。役場も近くにある。小さい図書館まである。体育館もある。大変驚かされる。居住地としては申し分がない。それどころか最高と評しても良いくらいである。家の近くにはすき屋がある。マクドナルドもある。アイスクリームも食べられる。本屋もあれば、ネットカフェもある。前の居住地は駅まで歩いて二時間であった。すき屋まで歩いて四十五分であった。スーパーに行くのも同様である。大学までは歩いて三十分ほどであった。越野は大学まで歩いて二十五分である。が、図書館は利用できない。そこだけは不便である。


 前居地である広島郷曽は超がつくほど田舎であった。そのためコンビニには毎日お世話になった。最近は野菜もコンビニで売る。コンビニにはもう頭が上がらぬかも知れない。しかし良いところに引っ越したお陰で前ほど利用することもなくなりそうだ。申し訳ない話だが嬉しいことである。


 郷曽には働き口がまるでなかった。コンビニのバイトも募集がないくらいである。元々人口の少ない山の上に、閉じ込められる形で大学生が密集しているのだから仕方ない。そうして広大生はよく自殺する。死霊も漂う。昔は合戦場であった。古墳もある。大学全体が心霊スポットである。それでも夏の夜は暑い。そのくせ冬は寒い。虫が多い。春と秋がない。もう田舎はこりごりである。


 元来私は自然が好きな性質だが、どうにも田舎は車が無くては生きていられないので困る。バスに乗らねばスーパーも遠い。そうしてバスが高い。往復五百円かかる。駅まで行けば往復千円である。故郷の富山を思い出す。駅まで行くのに片道一時間半、バス代は六百五十円である。ちなみにバスは一日四本である。国道に出れば一時間に二本か三本来る。しかし片道二時間になる。万事不自由であるが、それが当たり前であるから不満は無かった。しかし今では耐えられない。それほど時間を無駄にする余裕はない年齢になった。だからこそ都会に出てきたのだが、これは大変正解であった。バスは安い。頻繁に来る。電車も同様である。ここは天国である。


 更に驚いたことは物価の安さである。東京は何でも安い。家賃は多少高い。しかし利便が良い。そうして私のマンションは一月二万九千円である。冷蔵庫も洗濯機も電子レンジもエアコンも新品で付いている。ただ戸口が狭い。日当たりも良くない。湿度も高い。引越しして1週間経たない間に風呂場に黒カビが生えて閉口した。備え付けの洗濯機からは水が漏れる。洗濯の度にタオルが汚れる。しかしまぁ、それが安さの秘訣であろう。気に病めば時間と精神が犠牲になる。それもコストの一つである。万事図太く生きるのが良い。怒りは人類最大の毒である。


 東京の物価が高いというのは嘘である。東京はまず食い物が安い。野菜が安い。茸も安い。肉も安い。ただ魚は不味い。しかし値段は変わらぬ。寿司は値段が高い。そして不味い。魚介類だけはどうにもダメだ。外国の寿司などは到底食えそうに無い。そうして嗜好品は当然のように安い。田舎には所謂ディスカウントショップなどはない。スーパーも少ない。そのため価格競争がない。そうして仕入れの量が少ない。だからどうしても原価が高くなるのに違いない。当たり前の経済理論から、東京の物価が安い理由は説明できる。東京の物価が高かったのは恐らくバブル以前の話であろう。今では地方のほうが高い。ファミレスや牛丼チェーン店もないところでは、冷凍のフライにご飯と味噌汁で八百円取る。東京では五百円だろう。一人暮らしにまことに優しい東京である。田舎に住めばすき屋はご馳走となる。だから田舎者は不味いものでも平気で食う。都会人はグルメである。しかし寿司だけは別である。なんでこんな不味い寿司を並んでまで食うのか理解に苦しむ。全体濃い味に慣れているからかも知れない。


 地方の特産品が東京で高いのは本当である。或いは驚くほど高額で買い取る東京の商社を見て、地方の人は東京の物価は高いと早合点したのかも知れない。事実がまるで異なるのは前述した通りである。東京の食い物は安くて美味い。水も不味くはない。ただ寿司は不味い。これだけは譲れない。


 そんな環境の好転が実に嬉しくて毎日何かに感謝している。何に感謝しているのかは自分でも分からぬが、恐らく東京近郊の農家に感謝しているのだろう。そうして喜びは日常のことである。だから毎日が仕合せである。仕合せは大変安いものである。牛丼一杯の値段でしかない。


 家に帰って大学から取って来た文芸部の部誌を読む。四種類ほどあった。一つは社会批評をやっていた。文章が汚く論が稚拙で読むに値しなかったが、この低俗さがむしろ好かれるのだろう。世にゴシップ誌が絶えぬ所以である。だが低俗の程が際立っているだけ新聞よりマシである。新聞は全く偽善である。嘘を吐かねば何でも許されると思っておる。しかし時には嘘すら吐く。そうして知らぬ振りをする。しかし新聞も社会には必要である。だが私の人生には不要である。私は新聞をまるで読まない。誤った情報は無価値どころかマイナスの価値を持つ。賢い人間は新聞など真面目に読まぬものである。そうして一流の政治学者が書いた評論集を読む。私たちの人生には一流しか必要ないのである。これは久生十蘭の言葉である。


 ゴシップは一つだけであって、他は文藝の雑誌であった。しかしその中の一つは記憶にも残らなかった。他の一つは面白くなかった。ただ『青衿』と言う部誌は中々良かった。純粋に良い小説が載っていた。ただ拙かった。しかし拙さはマイナスではない。畢竟、心に響く作品は、その人の力量の上にたってどれほど創意工夫を働かすことが出来るかによるのである。それでいて物語の価値を損なわないように形式を整える。この絶妙なバランスがあってこそ、作品は品性をおびるのである。私は決して努力を高く評価する人間ではない。何よりも作品の調和を尊ぶのである。田舎者が純朴な歌を詠うからこそ心に響くのであって、似合わぬ雅を誇っても全然感動しないものである。しばしば中学生や高校生の作文にプロの及び難い作があるのはこのためである。漱石が三重吉の『千鳥』を称えたのは若人が故の発想があったからであり、三重吉の写生文が優れていたからではないのだ。学生らしい熱意のある小説は、やはり不器用ながらも自然であるから読んで感動がある。


 彼らの小説はどれも記念ならざるものはなかった。犬の話などはエンターテイメントとして中々面白かった。ただ一番出来が良かったのは霧の話と夏の話である。


 小説を読み終わり、椅子に座ってじっと反芻する。やはり彼らの作は良い。不揃いであることが、むしろ突出した長所を自然に引き立てる形式になっている。伊藤左千夫の『隣の嫁』を思い出す。むしろ欠点の散在が、この小説のためには良かったとするのが私の論である。そうしてそれは、アマチュアの小説に触れる度に強まるのである。


 うん、とひとりごちて再度部誌を読み始める。畢竟人間は、「諸悪莫作・衆善奉行」を守れば良いのである。「中行を得てこれとともにせずんば、必ずや狂狷か。」である。つまり人間は、「悪いことはしない。良いことはする。」これに尽きるのだ。


 私は一人として首都大生の顔を知らぬ。この大学と私とは何の縁もない。たださっきふらりと散歩がてらに訪れただけである。そうして偶々手に取った部誌をさっと読んでみただけである。だがそれで充分ではあるまいか。本当に縁を大事にする心は、むしろ骨肉の情愛よりも一期一会にあるのではないだろうか。もちろん、血縁は大事であるに違いないのだけれども、私はもっと純粋な善意を尊敬する。


 だからと言って、僅かな縁を大事にして、親子の情愛を棄て、家庭のほだしを踏み躙った私自身を正当化するつもりは無いのである。私は自分の罪に関しては、一切これを否定せず、また正当化しないつもりである。人間、自分を正当化することほど醜いことは無いと思う。また、実際のところ、如何にこの決断が私にとって必要であったかは、どれほど論じても理解されぬだろう。


 だからこれ以上の論は必要ないのである。私は私の信念を行き、最善を尽くす。ただそれだけである。もし、何人かを私が納得させられるとすれば、それは結局、私の軌跡によるのであろう。それが行為者の宿命である。


 私はおもむろにペンを取り出し、学生の作に朱を塗りはじめる。そうして文を起こして何度も書き改める。五度、六度、七度と読んでまだ発見がある。そうして遂に発見が無くなった時、ようやく私はペンを置いた。

 後輩の作品は真っ赤である。

 そうして遂に、六月になってしまった。

http://letusgojustin.web.fc2.com/

こちらが直江正義のホームページです。

よかったらお越しください。

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