眼鏡令嬢は恋を知らない。
周りが恋だの愛だのと会話を咲かせている時、私は一人、楽しく勉強と読書に勤しんでいた。
現実の恋なんて面倒くさいわ。それに比べて本の世界はとっても楽しい。だって想像の世界は私を傷つけないもの。知らないことをたくさん学ぶことの方が、恋をするよりもずっと有意義だと思っている。
幼い頃、よく遊びに行った領地で会っていた男の子がいた。
名前すら忘れてしまったけれど、手を繋いで走り回り、仲良く遊んだ記憶がある。
自分の顔が可愛いなんて、もちろん思っていない。本が大好きだったせいか子供の頃から視力が悪く、いつも眼鏡が手放せない女の子だった。
だから、よく男の子たちに揶揄われたものだ。
『眼鏡をかけてる女の子なんて可愛くない!』
『眼鏡外して見せてよ! ブスだから顔を隠してるんだろ?』
『眼鏡っ子、病気が移るからそばに来るな!』
『暗いから仲間に入れたくないんだよ』
領地の子たちにとって眼鏡は珍しかったらしく、格好の標的だった。男の子特有の意地悪だと分かってはいても、それなりに傷つく。
平民の子は素直で、感情を隠さない。王都の貴族の子なら、心でどう思っていても身分の高い私にそんな言葉は吐かないだろう。
残酷だけれど、なぜか腑に落ちて納得してしまった。
――私は可愛くないんだ。眼鏡をかけた女の子は嫌われるんだ。
周りは気を遣って本当のことを言えなかっただけなんだ、と。
そして、あんなに仲良く遊んでいたあの男の子も、気がつけば私の前に姿を見せなくなった。
私と遊ぶのが恥ずかしくなったのかもしれない。避けてどこかへ行ってしまったのだと思った。それ以来、私は避暑地へ行っても屋敷から出なくなった。
屋敷の敷地だけでも十分広いし、働く使用人の子供たちが代わりに遊び相手になってくれた。
お嬢様である私に誰も文句は言わないし、馬鹿にすることもない。
けれど、そんな主従関係の中での遊びは子供ながらに申し訳なく、「遊んでくれてありがとう。いつも迷惑をかけてごめんなさい」と謝りながら付き合ってもらっていた。
大人の心遣いを無下にもできず、かと言って無理やり遊ばされている子供を無視することもできない。あの頃は本当に心が痛かった。だって、私が嫌がれば使用人の子が親に叱られてしまうのだから。
だんだん人と関わるのが億劫になり、「気を遣ってまで遊ぶくらいなら、もう領地に行くのもやめよう」と決めた。
気がつけば子供ながらに立派な引きこもりとなっていたのだ。
* * *
あの頃のことを思えば、今はとても楽だわ。
王都の屋敷の中、一人書庫の中で朝から晩まで過ごす日々。学校? とりあえず卒業できる程度には行っているけれど。
まさに寝食を忘れるくらい毎日本を読み漁っている。
ほんの数ヶ月前、「君との婚約を解消したい」と二年付き合った三歳年上の婚約者にフラれ、私は傷心を理由に屋敷からあまり出ない暮らしを始めた。
それが、とっても楽で! とっても充実しているの!
お母様は「あなたが心配なの」と一人でハラハラしているけれど、お父様は「まっ、お前は我が家で好きなように過ごせばいい」と私と同じようにのんびり構えてくれている。
試験の成績さえ良ければ何の問題もないもの。
それなのに……。
私の16歳の楽しい引きこもり人生が、突然――。
「えっ!?」
私、とうとう耳がおかしくなったのかもしれない。
「すまないイリーン、突然だがお前の嫁ぎ先が決まってしまったんだ」
「……好きに過ごしていいって言ったじゃない!」
お父様に向かって、ついムキになって叫んでいた。
――だってどうせ男の人は外見だけを見て、私を鼻で笑うに決まっているもの。
数日後。私の体はいつも以上に磨き上げられ、白粉をたっぷり頬につけられ、赤い口紅を塗られ、綺麗なドレスを着せられてちょこんと椅子に座らされていた。
自分の顔にも、この状況にもうんざり。
そっと腰を上げると、「どこへ行くのかしら?」とお母様が扇子の下に怖い微笑みを隠して私を見た。
――怖い、怖い!
「あ、あの、ちょっとお花摘みに……ほほほほっ」
ちっ、逃げられない。私の後ろには数人のメイドがピッタリ張り付いている。
仕方なくお手洗いへ行き、また部屋に戻った。
「早かったわね? もうお相手の方は見えているそうよ。この部屋にお通しするから、イリーンは笑顔で迎えるように。わかっているわね?」
お父様はお母様の手前、厳しく言ってくる。
――もう! 逃げられないじゃない! 様子を見て逃がしてやるって約束したくせに!
お父様は私から視線を逸らし、目を合わせようともしない。ったく、お母様に頭が上がらないんだから!
「失礼いたします。お待たせして申し訳ありません」
笑顔という仮面を被って挨拶をした。
「やあ、久しぶりだね」
――久しぶり?
あなたなんて知らないわ。顔を上げると、どこかで見たような……見覚えのある顔?
キョトンとしていると、「忘れたの?」と訊かれた。
「…………はっ!」
「領地にいた子?」
「酷いな、僕の名前、覚えていないの?」
「……名前なんて呼んだことあったかしら?」
思わず呟いてしまった。
「えっ? それは酷くない?」
「……そうかしら……」
酷いのはあなたでしょう? そう言いたかった。
友達だと思っていたのに、みんなに馬鹿にされたら私に会いに来なくなったじゃない!
「では、遠慮なく言わせていただきますね?」
満面の笑みで彼を見た。
「このお話はなかったということで、お願いいたしますわ。私、好きな人と愛し合って結婚するのが夢なんですの。名も知らないお方と結婚なんてできかねますわ、おほほほほっ」
「イ、イリーン! 何を言い出すの!」
お母様の顔は真っ赤。お父様は青ざめている。
彼の隣にいる男性――たぶんお父様は、口元に手を置いてなぜか笑いを堪えている。
当の彼は呆然としていた。
「だって私、薄情な男って嫌いですの。眼鏡をかけた女なんかと結婚したらあなたが恥をかくだけだと思いますわ。ね? 私、お祖母様の残した屋敷をもらうことになっていますの。そこでのんびり暮らすのが夢なんです。お母様はご存じですよね? 最近婚約解消されたばかりの傷心の私に、すぐにまた婚約なんて絶対無理ですもの。明日にでも向こうに移り住みますわ。こんな娘、もういないものとお考えくださいまし」
目には……涙なんて溜まっていないけれど、とりあえずウルウルさせてみた。
――冗談じゃないわ、思い出しても腹が立つ! こんな奴と結婚なんて絶対に無理、あり得ない! さっさとお祖母様の屋敷に引きこもろう。
周りの農地ももらっているから少しの収入はある。贅沢しなければ暮らしていけるわ。婚約解消の違約金ももらったしね。
私はみんなにペコリと頭を下げると、部屋に戻ってすぐに荷造りを始めた。
こんなところにいたら、また別の誰かと婚約させられる。冗談じゃないわ!
眼鏡女なんて馬鹿にされるだけ。女主人になっても侮られて馬鹿にされて、ずっと辛い日々を過ごすはずだもの(小説にそう書いてあったわ)。
「何をしているの?」
お母様が部屋にやってきた。
「さっき言ったとおり、この家を出て行くつもりです」
「だ、ダメよ! イリーンは眼鏡をかけてはいるけれど、本当はとても可愛らしい子よ? 聡明で優しくて……それに本当は誰よりも恋する乙女じゃない!」
「はああ? 私が? どこが!?」
思わず叫んでしまった。お母様ったら何を言い出すの?
「だって、本当はエイリック君が大好きだったじゃない。だからお母様、エイリック君となら結婚してくれると思って……」
「エイリック……君って、さっきの彼?」
「もう! イリーンったら! 本当に名前も忘れているの!?」
「…………まったく、覚えていません」
――本当に名前なんて忘れてしまっていた。たぶん記憶の中から無理やり消し去ったんだと思う。
なのに目の前に現れるから……嫌な記憶だけがどんどん蘇ってくるじゃない! もう!!
「本当は二人を将来婚約させるために、領地で会わせていたのよ?」
「へぇーーー、そうですか」
「もう! 何その言い方!」
「お母様……『今更』という言葉をご存じですか?」
「当たり前じゃない、知っているわよ」
「そうですか。ではまさしく『今更』なんです。彼のことは全て忘れました。結婚なんてあり得ません。向こうだって嫌だと思います」
「イリーン……あの頃のこと、説明しなかった私たちが悪いの。エイリック君はお母様を亡くされて、お父様と離れて別の場所で暮らすことになったのよ。だけどあなたが何も言わないし聞こうとしないから……私たちも言わない方が思い出さなくて寂しくないだろうと思って、伝えなかったの……」
「……眼鏡っ子の私といるのが恥ずかしくて逃げたんじゃなくて?」
「誰がそんなことを言ったの!?」
「領地で近所の子達が……」
「まあ! 女の子に向かってそんなことを?酷いわ」
「あ、あの……それはたぶん、あの子達はエイリック様とばかり遊ぶイリーン様に嫉妬して意地悪を言ったのだと思います」
私とよく一緒に領地に行っていたメイドが、困った顔をして言った。
「嫉妬……?」
「はい。イリーン様がエイリック様ばかりと遊ばれるので、周りの男の子たちは面白くなかったんだと思います。うちの子たちもイリーン様と遊べるのを楽しみにしておりましたのに、イリーン様はいつもエイリック様とご一緒でしたから……」
「……眼鏡のことを馬鹿にしていたわよ?」
「それは……わざと意地悪をして気を惹きたかったのだと思います」
「私、結構傷ついたんだけど!?」
「申し訳ありません。子供のことだからと、ついそのまま見逃しておりました……」
――子供のことだからこそ傷つくのよ!
お母様が必死な顔で畳みかけてくる。
「イリーンはエイリック君のこと、もう好きではなさそうだったし……あの元婚約者のアレ! アレならイリーンを幸せにしてくれると思ったのよ。だけどアレは浮気して恋人を孕ませるような奴で、私たちは見る目がなかったと後悔したわ。だから今度こそ、やっぱり昔好きだったエイリック君ならと思ったの。向こうもまだ婚約者がいなかったし、ちょうどいいと思って……ね?」
「……私、ちゃんと恋をして好きになった人としか結婚はできません」
もう一度、強くそう言った。これで諦めて!
「素敵だわ! もう一度エイリック君と恋をして結婚するのね!?」
「いやいや、違います!!」
「もう、私母親なんですもの! イリーンの気持ちは分かっているわ!」
「ち・が・うーー!」
私の声なんて聞こえていない!
母親のパワーに押し切られ、私はなぜかエイリックと婚約させられてしまった。
* * *
「ねぇエイリック。私は好きにならないと結婚はしないわ」
「わかってる。絶対好きにさせるから。イリーンが他の奴と婚約したと聞いた時はショックだったけど、諦めきれなかった。解消したと聞いて、イリーンには悪いけどチャンスだと思ったんだ。まさか名前すら忘れられているとは思わなかったけど……俺、絶対に好きになってもらえるように努力するよ。……ちなみに俺、ずっと隣国で暮らしていたから、珍しい本をたくさん持っているんだけど?」
「珍しい本……? どんな本かしら?」
「今から僕の屋敷に遊びにおいでよ」
恋を知らない私は、完全に『本』に釣られてしまった気がするわ。
初恋は実らないと言うけれど……。




