第1話 透明なフィルターと、屋根裏の深呼吸
大丈夫。今日も私は、うまく笑えている。
教室の窓から差し込む春の光は、少しだけ暴力的に明るくて、私の輪郭まで透かしてしまいそうだった。
「ねえ真白、これどう思う? 絶対ありえないよねー!」
「うん、そうだね。それはちょっとびっくりしちゃうかも」
相槌のトーンは少しだけ高めに。共感はするけれど、決して誰かを強く否定する言葉は選ばない。相手の瞳の奥にある「同意してほしい」という小さな欲求を瞬時に掬い上げ、一番角が立たない、真綿のような言葉で包んで返す。
それが、私、小鳥遊真白の生きる術だ。
「やっぱ真白は分かってくれるよねー! ほんと優しい!」
嬉しそうに笑う友人の顔を見つめながら、私は唇の端を綺麗に引き上げて微笑み返す。胸の奥底に、また一つ、冷たくて重い小石がぽちゃん、と落ちた気がした。
優しいんじゃない。ただ、波風を立てるのが怖いだけ。嫌われるのが怖いから、透明なフィルターを何重にも被って、「無害ないい子」のふりをしているだけなんだ。
——あぁ、なんだか今日は、いつもより息がしづらい。
4時間目の終わりのチャイムが鳴り、教室が昼食の熱気で満ちていく。グループの子たちが机をくっつけ始めるその刹那、「ごめん、今日ちょっと図書委員の仕事があって」と、私はあらかじめ用意していた嘘を滑らかに口にした。
「えー、大変! わかった、じゃあまた後でね」と手を振る彼女たちに笑顔を返し、私は逃げるように教室を後にした。
廊下に出ると、少しだけ肺が広がった気がしたけれど、すれ違う生徒たちの視線や笑い声さえも、今は肌にチクチクと刺さる。
(どこか、誰もいないところ……)
無意識に向かっていたのは、今はほとんど使われていない旧校舎の図書室だった。
カビの匂いと、古い紙の匂い。静寂だけが詰まったその場所の重い扉を、私は祈るような気持ちで押し開けた。
「……ん?」
そこは、完全な無人ではなかった。
窓際の、一番日当たりのいい特等席。埃がキラキラと舞う光の帯の中で、一人の男子生徒が机に突っ伏していた。
凪代 朔くん。
同じクラスの男の子。寝癖のついた柔らかそうな黒髪と、いつもどこかぼんやりとしている横顔。クラスの空気を一切読まず、グループにも属さず、ただ自分のペースだけで生きている、私とは対極にいる人。
(どうしよう、引き返そうかな)
そう思った瞬間、彼がゆっくりと顔を上げた。眠たげな、色素の薄い瞳とバッチリ目が合ってしまう。
「……あ」
「……」
気まずい沈黙。いつもの私なら、ここで「ごめんね、起こしちゃった? じゃあ私、行くね」と100点の愛想笑いを作って立ち去るはずだった。けれど、限界まで張り詰めていた心の糸が、この静かな空間で不意に緩んでしまったのか、私は一歩も動くことができなかった。
凪代くんはじっと私を見つめた後、ぽつりと口を開いた。
「小鳥遊さん、顔、死んでるけど」
「……え?」
予想外のストレートな言葉に、私は間抜けな声を漏らした。
「顔色が悪いとかじゃなくて?」
「いや。死んでる。なんか、息止めてるみたいな顔してる」
ドクン、と心臓が大きく鳴った。
見透かされた。そんなわけないのに。彼は私のことなんて何も知らないはずなのに。
「……っ、そんなこと、ないよ。私、いつも通りだし」
慌てて笑おうとしたけれど、頬の筋肉がうまく動かない。ピクピクと引きつる私の顔を見て、凪代くんは短く「ふうん」とだけ言い、再び机に突っ伏してしまった。
「……なに、それ」
思わずこぼれた声には、自分でも驚くほどトゲがあった。
「……別に。無理して笑うと、余計苦しそうだなって思っただけ」
腕に顔を埋めたまま、くぐもった声が返ってくる。
その無防備な背中を見つめながら、私はなぜか、泣きたくなるような、怒りたくなるような、不思議な感情に包まれていた。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
私に貼られた「優しくていい子」というラベルを、こんなにも軽々と剥がして、ただの不格好な私を見てくれたことが。
「……ねえ、凪代くん」
「んー」
「ここ、私の秘密基地にしてもいい?」
私がそう尋ねると、彼は顔を上げないまま、「勝手にすれば」とだけ呟いた。
冷たいようで、確かな温度のあるその声に、私はほうっと小さく息を吐き出す。
窓から吹き込んだ春風が、古いページをパラパラと捲る。
透明なフィルターを通してしか呼吸ができなかった私が、水面から顔を出して、初めて本物の空気を吸い込めたような、そんな気がした。




