8
***
──その身長差に、ふとミリーは思い出していた。
「なんだっけ。極東のお話の、ほら」
同じことを考えていたのか、同僚のカスパルが即座に返してくる。
「ムラサキノウエ……か?」
「そうそうそれ。あれみたいよね」
横にも縦にも広い。教会内の、壮麗で厳粛な雰囲気の中。
護衛のため壁際に並んだミリーたち精鋭班は、政略の犠牲になってしまった自分たちのリーダーを、哀れみを以って見送っていた。
「あーあ。少佐ってば損な役回りばっかりでかわいそうだね」
「おれたちまで押し付けられて、その上、だもんな。──でも、これで大佐に上がれるって話だぜ」
「嘘、本当?」
驚き、思わずカスパルを見上げる。
が、カスパルは参列者を監視したまま微動さえしない。
妙な動きをする者がいたら、すぐに取り押さえるのが彼らの今日の役目だからだ。
「馬鹿。前見ろって。後で少佐にどやされるぞ」
彼は見ていないようで、しっかりと見ているから。
ミリーは渋々顔を戻しつつ、そうか、と唸った。
あのお姫さまのお守りをする代わりに、昇進するのか。
上に上がれば、それだけ権力と責任が増す、出来ることも、しなければならないことも増える。
……つまりは、私たちの仕事も、増える。ああ。
──まあ、それはそれとして。
「……少佐は、あの子といて平気なのかしら」
隣から、小馬鹿にしたようなため息。
「別に。あの子が直接何かしたってわけじゃないんだろ。そもそもが傀儡だったって話だし、どうでもいいんじゃねえか?」
「そっか……そうね」
仕事と割り切っているのかもしれない。
でも。とミリーは思う。
あの子の祖国は、カイドの部下を何十人も殺している。
彼の大切な人だって。ミリーの友人だって──命を奪われた。
いくらお互い様だとは言っても、それって、昨日今日で割り切れるものなのだろうか。
「少佐は大人だなあ」
たった二つしか違わないのに。少し悔しい。なんでも顔に出てしまう自分には到底真似出来ることではなかった。
本心を隠し通すなんて。
「……」
いや、でも、しかし。
ある意味で彼は──本気であのお姫さま自身には、関心がないのかもしれなかった。
カイドの最優先はこの国、いや、アーノルドそのものだから。
***
不満、嫉妬、憐憫、焦燥。
様々な思枠が交錯していても、慣例通りに儀式は進む。
決まり文句と宣誓、それから指輪の交換の後──。
「では、誓いの口づけを」
司祭に促されたカイドが、向かいあったリシアの顔を覆う、純白のヴェールを掴んだ。
リシアは思わず息を呑み、後退りそうになる。
覚悟を決めたはずなのに大勢の人の前で口付けるなんてやっぱり怖くて恥ずかしい。
早く終わって欲しいと願いながら、鮮明になった視界の先、カイドを見上げる。
悔しいことに、彼の方はこの数週間ですっかり覚悟を決めてしまったのか、それとも年の功なのか。その顔は落ち着きに満ちていた。
平時とは異なる式典用の、白絹の手袋を嵌めたカイドの両手が、そっとリシアの両肩に添えられた。
──フィリツアの権威を知らしめるためだろう。
リシアが着せられた婚礼衣装は、急ぎ用意しただろう品にも関わらず、至極繊細でうつくしい、寸法も完璧な仕上がりになっていた。
雪結晶を模した緻密なレースの縁飾りに、薄布を重ねた花びらのようにやさしげなデザイン。
リシアの銀糸のような艶やかな髪は、それを得意とする侍女たちの手によって丁寧に編み込まれ。
頭上には大粒の金剛石を配されたティアラが飾られていた。
誰もが羨むようなきららかな結婚式。
けれど、その実態は。
普段はおろしている前髪を上げたカイドの、端正な顔が近づいて、リシアはきつく両目を瞑った。
これは外交。
ふたりを守るため。
毅然としていなきゃ。
あれこれと考え怯えるリシアの唇の端を、一瞬、すっとなにかがかすめた。
それだけだった。
──え?
思わず目を開ける。
そこにはカイドの、やはり落ち着きを払った眼差しだけがあって。リシアを安心させるように、わずかに細められた。
困惑する頭のまま、リシアは、隣に腰掛けるカイドを見上げた。
「あ……──あの、さっき」
「え? ああ」
無事に式が終わり。教会を出た新郎と新婦は、衣装もそのまま、皇帝旗──吠える獅子が描かれた馬車の中に詰め込まれていた。
揺れるそれが向かうのは宮殿だ。
これから、賓客をもてなすパーティーが催されるらしい。
「大丈夫ですよ」
リシアが言わんとしていることを察して、カイドは頷いた。
「あの角度と距離です、司祭さまだって気づいていませんよ」
「でも」
「ああいうことは、本当に心を許した相手とするべきです。そうは思いませんか?」
リシアは驚き、それから肩の力を抜く。
やはり、故意だったのだ。
唇を外してくれたのは。
リシアは納得しそうになって、けれどやっぱり混乱した。
カイドはどうしてそんなにもリシアを気遣ってくれるのだろう。護送の時にくれた菓子もそうだし、キスのこともそうだ。
思い、考え、結論に至る。
そうか。
出会ってまだ少ししか経っていない。けれど、リシアにはその理由がわかった。
彼はきっと──やさしい人なのだ。
リシアの大切な親友たちと同じように。
そこに理由はない。彼は〝そんな人〟なのだろう。
きっと、そうなのだ。
そんな人たちがいることを、リシアは知っていた。だから納得できた。
「……あの、カイドさま」
「はい」
「ありがとうございます。色々と」
言葉少なに言ったリシアに、少し身じろいで、カイドが身体をこちらに向けてきた。
「殿下」
「はい」
「これから私たちは、長い付き合いになります。リシアとお呼びしても?」
「ええ」
「では私のことも、敬称は不要です」
「それは」
「不要です。リシアが私たちの仲間になったと、皆にわかってもらうためです。いいですね」
諭すように言われて、リシアはおずおずと頷いた。
カイドの相好がわずかに崩れ、穏やかな声がした。
「卑屈になられず、どうぞ御身を大切になさってください。嫌なことは嫌と言ってくださって構いませんし、口づけだって、投げやりに許してはいけません。あなたが、本当にそうしたいと思った相手を見つけてください」
「でも、わたしはカイドさま……カイド、と、もう結婚して」
それは不貞に当たるのでは。
しかしカイドは違うと断言する。
「私たちは夫婦という名の協力者です。そうですね……兄とでも思ってください。リシアに大切な人が出来たら、その時は僭越ながら、兄さまが見極めて差し上げます」
リシアはほうける。
終戦の後始末や婚礼準備やらと忙しくなく、ここに来るまでリシアは、ほとんど彼と会話する機会も持てなかった。
不安で仕方がなかった。でも。
──嫌なことは嫌だと、言っていい?
その自由のなんと、遠かったことか。
カイドの言葉をゆっくりと飲み込み、理解して、リシアは顔をあげた。
「考えていることを言ってもいいのですか」
「もちろんです」
祖国では誰も聞いてくれなかった言葉を、彼は聞いてくれるという。
リシアはとたん、嬉しくなった。
「……わかりました」
「……」
──多分それはフィリツアに来て、リシアが初めて見せてくれた、笑顔とも呼べぬ笑顔だった。
ほっとしたように小さな口元を緩めた少女に、カイドは視線を外せなくなる。
やっと、少しだけ、心を許してくれたらしい。
そう、安堵する。
彼女は諸外国を黙らせるための大切な駒。
アーノルドのためにも絶対に手放すわけにはいかない。
壊すわけにも。
カイドは決意し、視線を窓の外へと向けた。
見慣れた宮殿が近づいている。
彼女を囲い、守り、捉えておくための。豪奢な檻にも、見えていた。