52
ようやく東の空が白み始めていた。
──騒がしい一日だった。
自室のバルコニーから、アーノルドは、柵に寄り掛かるようにして自国を見下ろしていた。
新聞屋が忙しくなく街を歩き、どこかの家で鶏が鳴いている、朝。
ひんやりとした、それでいてどこか湿ったような空気を腹一杯に吸い込み、アーノルドは隣に並んだミリーとカスパルを見やる。
ふたりは盛大に泣き腫らしていた。
「おれは悪魔ではないぞ」
困ったように笑い、言えば、ミリーが傷だらけの顔を向けてくる。昨晩だけでついた傷ではない。幼い頃から戦場で暮らしてきたが故の、歴戦の傷跡だ。アーノルドの身体に似たようなそれが、あちこち隠れている。もう誰の目に触れることもないのだろうけれど。
「でも、あたしみたいなのを許したら、示しがつかないでしょう」
だから相応の罰をと、ミリーは望む。
──カイドを慕っていたのだろう。
アーノルドは同情し、少女を見下ろす。
あの鈍感な男は未だ、部下の想いに気付いていなかった。
「……伝えてみたらどうだ? リシアとの結婚は形だけなのだし」
「形だけ? そんなことを言っているのは大佐だけです」
あんな抱擁を見せつけられたあとで、誰が割って入ろうなどと思えるだろうか。
アーノルドは深く息をつく。そうして表情を改めた。
「……ミリー・クルーゼン少尉。並びにカスパル・エッテル少尉。お前たちには国防基地への異動を命ずる」
「…………国防基地?」
国防基地は、西の戦線を守るための部隊だった。
とは言っても、名ばかりの。
ミリーは不服そうに眉を寄せる。
「陛下、大佐の甘いのが移っちゃったんじゃないですか」
「そうか? それは問題だな」
アーノルドは言いながら、雲間から覗く朝日に目を向け、細めた。
「だがお前たちもおれの大切な〝駒〟の一つだからな。早々無駄にはできんのだ」
皇帝になる前も、なってからも、アーノルドはたくさんの仲間を失ってきた。
恋人すらも。
だから彼の国には后がいない。
血は継がない。
この先がどうなるかはわからないけれど。アーノルドの治世は、それでいいと思っていた。
「よかったな、ミリー、国防基地っつったら、敵は遠いし、結構栄え出したって話だし。遊べるぜ」
「その前に、どうしてカスパルまでついてくるの」
「なに言ってんだよ。おれがいないと寂しいくせに」
「寂しいのはそっちでしょ」
強国フィリツアの皇帝の前で、こんなにも素を出して小突き合えるのは彼らくらいのものだった。
アーノルドは仕方なさそうに微笑む。
「おい。そろそろ行くぞ。腹が減った」
踵を返しながら、アーノルドは軍神の姫君はどうなっただろうと、首をひねった。
レイルたちの暴走を止めることは出来たが、リシアは、自分が王族でないことを知ってしまった。
ただでさえ自尊心の低い少女は果たして、持ち直せるだろうか。
「陛下。食事って、大佐たちも一緒じゃダメですか?」
アーノルドに並んだカスパルが、しどろもどろに言った。
「なぜだ?」
「……姫さんにひどいこといっぱい言っちゃったんで。謝っときたいなって」
「なら、夕食時にしてやれ」
アーノルドは言いながら自室を出る。
あのお姫さまもまだ、目が腫れているに違いないだろうから。
***
ほんとうは王族ではないと知らされた瞬間。
リシアは、たった一つの武器、あるいは盾を取り上げられたような気がしていた。
けれどそんなものこそお飾りでしかなかったのだと、今はわかる。
目を覚ましたリシアは、ゆっくりと瞬く。
薄暗い室内に、見覚えのない調度品。知らない部屋。いいや違う。一度だけ入ったことがある──カイドの寝室だ。
「おはようございます、リシア」
豪奢なベッドの端で眠っていたリシアを、自分はベッドには入らず、頭と腕を乗せるようにしていたカイドは、リシアに微笑みかけた。
「……おはようございます」
いつ眠ってしまったのだろう。
リシアはまだ朧げな頭で、カイドの夜色の瞳を見つめた。
昨日はたくさん泣いてしまった。
だけどそのおかげで、胸はすっきりしている。
「喉は平気ですか」
問われて、リシアは自分の首筋に手をあてがった。包帯の手触りに、手当てされたのだと知る。
「はい……平気、みたいです」
「よかった」
カイドがほっとしたように表情をやわらげる。やさしいひと。
降ろされたカーテンの隙間から、朝日が射し込み、リシアは昨晩のことを思い出した。
騒動のあと。
リシアを抱え連れ出たカイドは、そのままこの部屋に移動した。
──正式決定は後ほどだと言われたけれど。
レイルは労働刑。ルドとエマは、モンシェルリエテ領へ移送され、しばらくは幽閉になるだろうという話だった。その後もふたりは、モンシェルリエテ領から出ることは許されない。──リシアの秘密を知る者はすべて、フィリツアの厳重な監視下におかれることとなるのだそうだった。
本来なら命を取られてもおかしくはないのだけれど。
アーノルドの最大の譲歩だった。
リシアはベッドから身を起こした。
「……ふたりに、挨拶はできますか」
「ええ」
「でも、ルドもエマも……特にエマは、会ってくれるでしょうか。エマは、わたしがグローデン家の人間だと思っていたから、あんなに守ってくれていたのに」
そうではなかったと知ったときのエマを思い出して、リシアは怖くなった。もしも彼女に冷たくされたら。
「会ってくれると思いますよ。昨日、あなたを抱え上げたとき、ものすごく睨まれましたから」
「……エマが?」
困惑に揺れたリシアの手を、カイドがシーツの上で握りしめる。
「ええ。姫さまに触れるなと言われてるみたいでした。あの子も結局、血なんて関係なく、リシアが好きだったのではないでしょうか。それにルドくんも、とても後悔していましたよ」
「……また、前みたいに話せるかしら」
「そうしたいとあなたが思い、行動するなら」
「そうね」
昨晩、あんなに泣いたばかりだと言うのに、リシアの両目からはまた涙があふれてきた。
リシアは、カイドの節くれだった手を片手で握り返して、もう一方の手で、目元をぬぐう。
「カイド、ありがとうございます。見捨てないでくれて」
唇を噛み締めながら、想いを打ち明ける。
「あなたが結婚相手で、ほんとうによかった。あなたを幸せにしたい」
「──光栄です」
「好きです」
「…………」
「わたしは、あなたが大好きです」
ぼろぼろと泣きながら、リシアは好意を繰り返し口にした。
「わたしは王族などではありませんでしたし、これからも、なんの役にも立たないかもしれません。でも、橋渡しになって、フィリツアとモンシェルリエテを平和にして、必ずあなたを幸せにしてみせます」
かつてのモンシェルリエテは強国だった。
そうして今は、フィリツアの傘下に入ることが出来た。
だからアーノルドたちの目指す平定もそう遠くない未来、きっと叶う。
リシアはその歯車になる。
「王族を演じきってみせます。だから、これからもおそばにおいてください」
「リシア」
ふいにカイドの手が伸ばされ、やさしくリシアの髪をすいた。
「はじめてお会いした時から、私は立場とは関係なく、あなたを守りたいと思っていました。それを私は、あなたに宿るといわれている不思議な血のせいかと思ったこともありました」
笑わないでくださいね。
とカイドは少し恥ずかしそうに付け足した。
「でも、違いました」
レイルの話を聞いても、リシアを手放そうなんて気は少しも起きなかったと、彼は囁くように言った。
カイドの指の間を、リシアの長い髪がたどり、さらさらと滑り落ちる。
「一生懸命なリシアが、私も大好きですよ」
友人を守ろうとしたリシアの勇敢に、彼はあの時、心打たれたのかもしれなかった。
「これからもよろしくお願いします。末永く──」
「……はい」
カイドが誓うようにリシアの額に唇を寄せる。驚きに、一瞬だけ震えたリシアを見て、カイドが声を上げて笑った。
はじめて聞いた笑い声だった。
そんなはじめてがこれからも増えていけばいいと、暴れる心臓をおさえて、リシアははにかんだ。
*****
時は流れて。
リシアがふたりの親友──ルドとエマに再会出来たのは、それから三年後のことだった。それぞれ引き離されていた三人は、フィリツアの宮殿で会合するなり、涙を流して無事を喜びあった。
「ああ姫さま、こんなに大きくなられて」
「聞きましたよ。立派にお仕事もなされているのですね」
「ええ」
号泣するエマを抱きとめ、リシアは、すっかり背の伸びたルドを見上げた。
アーノルドの許しを得たふたりは、これからリシア付きとなるのだった。
「──リシア」
呼ばれて、リシアは振り返る。
陽光射す回廊を歩んでくるのは、今もリシアの伴侶であってくれるカイドだった。祭礼用の裾の長い軍服を邪魔そうに払い、近づいてくる。リシアは思わず顔を綻ばせた。今朝、別れたばかりなのに。
「カイド」
「お久しぶりです、オルトナ大佐」
「──え、きみ、ルドくんか? ……見違えたな」
「フィリツアの方々に鍛えられましたから」
目線の高さが同じになったルドを見て、カイドは感嘆したようだった。
リシアは少しだけ不満を燻らせる。
十六になったリシアだって背も伸び、成人の儀も終えて、少しは成長していると思うのに。
彼はいまだにリシアを子供扱いしてくる。
「カイド、ご用事があったのでは?」
「ああ。式典の最終確認をしたくて」
「わかりました」
現在リシアは、宮廷行事の補佐役として職務についている。
カイドを陰日向から支えることが出来る、大事な仕事だった。
「ルド、エマ。またあとで」
ふたりと別れて、リシアはカイドと共に教会へ向かった。三年前の春、彼と永遠を誓いあった場所でもある。
帝国創立式典を前に、飾り付けはほとんど完璧だった。
点検とは名ばかりの散策を、オルトナ夫妻はゆっくりと楽しむ。
リシアは、カイドを見上げて言った。
「そういえば、あれから全く昇進しなくなりましたね」
「活躍できる場所が少なくなりましたからね」
そう嬉しそうに言ったカイドに、リシアもそうですね、と微笑う。
力をつけ続けるフィリツアに対抗しようとする国は、今やほとんどなくなっていた。
今日の式典には、久方ぶりにミリーとカスパルも出席する。
カイドはだからか、ここずっと上機嫌だった。
「少し休憩しましょうか」
カイドに手を引かれたまま、リシアは教会の裏手にある東屋に連れられた。
人気が遠ざかって、ふたりして力を抜く。
「平和ですね」
「幸せですね」
ぽつり。
重なった声に、いつかのように声をあげて笑い合う。
と、そんなリシアの視界がふいに翳って、目元に唇を押し当てられた。この頃の、カイドの癖だ。
リシアは顔を真っ赤にしながら、カイドが唇を頬に耳にと滑らせるのを我慢する。
「リシア」
熱を帯びた声に、リシアはいつの間にか閉じていた目を開いた。
夜色のやさしい瞳がこちらを覗いていた。心臓が鳴る。
「──愛しています。この世界の誰よりも」
結婚式の日、彼は口づけはほんとうに好きな人とすべきだと教えてくれた。
リシアは高鳴る鼓動を堪えて、カイドを見つめる。
「わ、わたしも。この世界の誰より、あなたを愛しています」
こんなに恥ずかしいこともない。
誰が考え出したのだろう。
そばで、正午の鐘が鳴った。
カイドの口づけを受け入れながら、リシアは、これからも続くだろう幸せに、胸をいっぱいにしていた。
読んでくださってありがとうございました!