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喉が渇く。
レイルの話を聞き終えたカイドは、唾を飲み込み、聞き返した。
「……それは、事実なのか」
「さぁ。おれも死ぬ間際の父から聞かされただけなので。……まぁでも、納得はしましたけどね。『あぁ、道理で』と」
肩をすくめ、戯け言ったレイルに酷薄な笑顔を向けられる。
「オルトナ大佐殿は、それでも殿下を助けに向かわれるおつもりですか。まったく、おやさしいことです」
この男が突如全てを打ち明ける気になったのは命を諦めたからなのだろう。リシアの逃走後、アーノルドは真っ先にレイルたちを拘束、尋問した。その末路など分かりきっている。
そして恐ろしいことに、弟のルドはそこまで計算していたのかもしれなかった。リシアを手にし、ついでに目障りな兄を消すため。
カイドは歯噛みした。
「……このこと。お前の弟は知っているのか」
「知っているわけがないでしょう。だからあんなものに執着しているんです。うまく使えばいいだけの人形を、無駄に崇めて──」
「黙れ」
それ以上は無理だった。気付けば握り締めた拳はレイルの頬を殴り飛ばしていた。嫌な感触が直に伝わり、呻きとともに奴の口からなにかが飛び出す。汚い──目もくれず、カイドは部屋を飛び出す。
リシア──。
あの子ときたら、一体どこまで運が悪いのだろう。
幼少期は誰にも頼ることが出来ず、やっと出来た友とは離れ、異国では散々な目にばかり遭って。
『わたしはもう、誰にも騙されませんから』
傷つき果て摩耗した、震えた声が痛かった。
カイドの胸をぎりと締め付ける。まるで茨。
もういい。
もう解放してやるべきだ。カイドは、涙を拭い、道を急いだ。
***
「ずっと生きた心地がしませんでした」
エマはしっかりとした足取りで、半ば駆けるようにリシアに歩み寄った。怪我をしている様子は、微塵もない。
「ほんとうに、ご無事でよかった」
エマは両手で握ったリシアの右手を、涙の伝自分の頬に擦り寄せた。そうして、その感触を確かめるように両目を閉じる。
「エマ、どうしてこんなところにいるの?」
リシアは混乱したまま立ち竦む。
エマは、相変わらずのうつくしい顔立ちをしていた。いつも綺麗にまとめていた金色の髪は今はほどかれ、小さな顔と首筋をふわふわと覆っている。ともすればだらしなくさえ見える風貌が、なぜか魅力的に見えて、不思議だった。
これはほんとうに、リシアの知っているエマなのだろうか。
ルドにもエマにも、違和感を拭えず、リシアは、うかがうように尋ねていた。
「エマ。怪我をしたんじゃなかったの? ……もう足はいいの?」
言ったリシアを、エマは罰が悪そうに見つめ返した。そうして、そばでうずくまっているルドを見下ろす。
「ルド」
ルドが観念したように息を吐いた。
「……申し訳ございません、姫さま。エマは最初から怪我などしておりませんでした」
「? ……どうして、そんな嘘を」
「──エマが怪我をしたと知ったら、姫さまは無条件についてきてくださると思ったからです」
ルドは初めから、リシアをフィリツアから連れ出すつもりだったと白状した。エマを城外で待機させていたのもそのためで、このまま三人で逃亡するつもりだったと。
「なのに」
と、ルドは顔をあげた。
「姫さまはおれたちより、この国をお選びになった」
「……ルド」
「お願いです、おれたちと来てください。おれたちにだって姫さまは必要なのです」
「そうです」
エマが、リシアの手をことさら強く掴んだ。
「嘘をついていたことは謝ります。ですがどうか、わたしたちと共に来てくださいませんか。わたしは、姫さまが大切なのです。……あの時、お城で姫さまと離れてどれだけ後悔したか──姫さまがフィリツア兵と結婚させられたと聞いた時は、心臓が止まりそうなほどでした」
「エマ……」
あの孤独な城の中で、リシアの頼りは、ルドとエマだけだった。
そうして今もふたりはリシアのために、危険を冒してここまで来てくれた。
だとしたらリシアは、彼らにこそ報いるべきではないのだろうか。
でも。
このままふたりを選べば、間違いなく再び戦争が始まってしまう。それこそ今度は、きっと、一方的な。蹂躙まがいの。
──投降か。死か。
モンシェルリエテの王城で、カイドから投げられた二択は、すぐに答えが見つかったのに。
「姫さま……」
背後。
左右。
それとも前方。
あらゆるところから、少しずつ、人の差し迫る気配が近づいてきた。フィリツア軍だ。カイドが率いているのだろうか。
熟考する暇などない。そうとわかって、リシアはエマの手を握り返した。
ふたりは、逃す。
リシアは、戻る。
それこそが正解だとリシアは決めた。
「ごめんなさい。やっぱり行けない。……ごめんなさい」
「そんな」
「姫さま」
「このままあの男のものになるおつもりですか」
「姫さまは王族なのですよ」
「いけません」
「まだ間に合います」
ふたりは、口々にリシアを引き止めようとした。それがだんだんと狂気を帯びてきたのは、リシアの気のせいではなかった。
「あんな下賤な血と」
「尊い血筋ですのに」
「絶対にダメです」
森は深すぎて、馬の入る余裕はなかった。
だからだろう。訓練された軍犬が吠えていた。「こっちだ!」と誰かが叫ぶ。音が近づいてくる。
──間に合わなくなってしまう。
「ルド、エマ。お願いわかって」
焦るリシアは、樹々の間から松明が揺れるのを見た。それはしだいに四方から集まり、たちまちリシアらを取り囲んでしまう。遅かった。
「リシア!」
叫びながら現れたカイドの髪が乱れていた。息は上がり、血相を変えている。
「ふたりを捕らえろ」
息も絶え絶えの命令に、ルドとエマはリシアから引き離され、兵士たちに縛られはじめた。
「やめてっ」
しかし、言いかけたリシアは、カイドに引き寄せられてしまった。
「──やっ……」
抵抗しようとした、瞬間。目の前に屈んだカイドの黒い瞳に貫かれて、リシアは言葉を無くした。
「大丈夫。ふたりに乱暴はしない……顔を見せてくれ」
そうしてカイドは、汗ばんだ自身もそのままに、リシアの顔や首、胸、腹──腕、身体中を見て、触れて、やっと息をこぼした。
どれだけの距離を走ってきたのだろう。
カイドの息はずっとあがりっぱなしだった。指揮官として、格好がつかないくらいに。
「カイド……?」
「心配しました」
言い終わらないうちに、きつく抱きしめられていた。かたい軍服超し、はじめての抱擁。心臓の音が速い。
リシアは目を見開く。カイドの胸は広くて、とてもあたたかかった。