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──リシアに、手をかける。
その物騒で生々しい表現に、カイドは眉間の皺を深くした。
そうだ。その通りだった。カイドは、彼女を手にかけることだけは避けたいのだった。だから昨夜も、嘘とわかっていて、なのにあれ以上追及することが出来なかった。わざと逃した。彼女の不審を確信するのが、怖かったからだ。
けれど。
レイルたちが暗躍していると知ってしまった以上、見過ごすことは出来ない。
カイドはリシアへの同情を振り払い、忠実な部下に視線を送る。
「ミリー。リシアに気づかれないよう、ルドくんに近づけるか?」
「もちろんです」
「頼む。……くれぐれも気をつけて」
「はい」
短く答えたミリーが、足早に部屋を去っていく。その背を見送って、残されたカスパルがカイドに向き直った。
「ほんとにいいんですか。大佐が直接聞けば、姫さん、答えてくれるんじゃ」
「聞いたよ。で、ごまかされたんだ。昨日な」
「…………あー」
なるほど。と、カスパルが居た堪れなさそうに頷く。
「それで大佐、朝から元気がなかったんですね。そりゃショックですよね」
「……ショックって」
確かに、落ち込むには落ち込んだが。
これまでにも戦場や宮殿で、仲間に裏切られたことがないわけでもないのだし。
これは言ってしまえば想定内の事態。〝こんなこともある〟だろうと予測はしていたから、深く傷つくことはなかった。──昔のようには。
なのに、カスパルもしつこいもので。
「大佐、姫さんのこと随分可愛がってましたもんね。お気持ちはわかります。──でも、線引きだけは忘れないでくださいよ。おれたちの命も関わることなんで」
カスパルだってリシアとの仲を深めていたくせに。
自分は平気だと言わんばかりに、飄々と言い切ったカスパルを、カイドはそっと睨め付けた。
「言っておくが、まだリシアが向こうについたと決まったわけじゃないぞ。……護衛は怠るな。リシアに、傷一つでもついたら」
「わかってますって」
今、モンシェルリエテの統治が大きな抵抗もなく進んでいるのは、カイドたちが〝王女を大切にしているから〟だ。もしもリシアがないがしろにされていると知ったら──モンシェルリエテの民たちからの反発は免ないだろう。
だからリシアには、かすり傷一つ負わせるわけにはいかなかった。彼女にはフィリツアで幸せに、健やかにいてもらわなければいけなかったのだ。
なのに。
(……火傷させてしまった)
リシアの赤くなっていた指先を思い出して、カイドは頭を悩ませた。
ルドの手紙には何が書いてあった?
やはり問いただすべきだったのか?
たとえこの数ヶ月で築き上げた信頼を失うことになったとしても。
「……くそ」
強硬手段にはなってしまうが、レイルを問い詰めるしかないか。
迷う余裕はない。
カイドは決断し、その前にアーノルドに会おうと、苛立ちを堪えながら立ち上がる。
〝どうにか、穏便に。〟
モンシェルリエテの王城で捕らえたリシアが、あまりにも幼かったから。だから。そればかりを念頭に動いてきたけれど、そもそもそんな考えが間違いだったのかもしれない。
──フィリツアは本来、暴力でのしあがってきた国だ。歯向かう者は力でねじ伏せて、ようやくここまで来た。
執務室を出たカイドは、追いかけてくるカスパルを横目に、長い回廊を無言で突っ切る。
いつになく無表情の軍神に、すれ違う兵士たちが青ざめるのも気づかなかった。
カイドは強く拳を握りしめる。
この国だけは、絶対に守る。
亡くなった戦友たちのためにも。
最愛の恋人をなくした、アーノルドのためにも。
モンシェルリエテが反抗するつもりなら、それまでのことだ。
そう、冷徹に思考を切り替える。
線引きを忘れたりはしない。
そもそもカイドは、口先での外交は、専門外なのだから。
*
その頃。
「怪我をされたんですか?」
怒ったように言われて。リシアは包帯の巻かれた手を、無事な片方の手で隠すように胸に抱き締めた。それでも、ルドの憤る眼差しから逃れることは出来なかった。
「違うの、これは、わたしの不注意で」
誤解を解きたくてルドに会いに来たのに、これでは全くの逆効果だった。
彼と落ち合ったのは、宮殿の一室。
リシアは今日もついてきた〝護衛〟の位置を確認しつつ、懐に忍ばせた手紙を、いつルドに渡そうかとうかがった。機会が掴めず、焦りだけが募っていく。もうすぐ今日の勉強会が始まる時間で、そう悠長にもしていられないというのに。
「そんなに心配しないで。少し火傷をしただけなの。お医者様にも診ていただいたし、もう平気よ」
「痛みは?」
「ないわ」
けれどルドは少しも納得していない様子で眉を寄せたままだった。
その上、小声で囁かれる。
「……オルトナ大佐は、このことはご存知なのですか」
「ええ。夜中だったのにわざわざお医者様を呼んでくれたのも彼なのよ。やさしいの」
「……そうなんでしょうね」
良好な関係だとわかってほしかったのだが。やはり難しいようだ。
と──項垂れるリシアの耳に、凛とした、それでいてどこか冷めたような女性の声がかかる。
「ルドルフ・アルガンさま」
ミリーだった。
開いた扉のそばに立つ軍服姿の彼女に、護衛交代の時間だったろうか、とリシアは時計を見やる。その横をつかつかと通り過ぎたミリーは、リシアには一瞥もくれることはなく、真っ直ぐにルドを向いた。
「ご歓談中に申し訳ございません。オルトナ大佐がお呼びです。少々、お時間をよろしいですか」
愛想もなく言うミリーには、有無とは言わせない威圧があった。
そもそもルドには断る権利もなかったのだが。
「はい。構いません」
ルドは表面的には穏やかな、けれど緊張していることがひしひしと伝わる声音で、ミリーに従った。
「では、姫さま。お勉強を頑張ってくださいませ。夕食でお会いしましょう」
「ええ……」
そうして、ミリーに連れられ去っていく親友の背を見送る。
(話って、なんだろう)
遠ざかるふたりに、リシアはふと、寒気を覚えた。
なぜだろうと考えて、窓が開いているからだと気づく。
秋が深まり、冬が近づいているからだ。
ああでも。それだけじゃない。
足元が崩れていくようなこの不安は。
リシアは恐怖にも似た感情に、立ちすくむ。
カイド。
やっぱり彼に相談しよう。
昨夜嘘をついたことも謝って、全てを打ち明けよう。
ミリーの話も、聞いてみよう。
リシアは思い立ち、護衛についていた兵士に、カイドの居場所を尋ねた。
「大佐なら、この時間はたしか訓練かと──」
間違った決断をしても、謝れば、誠意を込めて相対すれば、やり直せると信じていた。
リシアは子供で、無知だったから。
自国の。滅亡した宰相が嘲笑っていた通りに。何も知らなかったからだ。
カイドへの恋を自覚したのは、その瞬間だった。
「リシアが、あの少年と?」
「はい。秘密裏に手紙を交わしていました。昨晩も、私に嘘を」
「お前に?」
「ええ。手紙を燃やしていたのですが……隠されました」
「それは問題だな──で、その姫君はどうしている? 拘束しているのか」
「いえ。まずは少年の方から聞き取りを」
「……取り逃すなよ」
「は」
よく知った男性ふたりの会話を聞きながら。
リシアは、硬直していた。
息すらも忘れてしまったみたいだった。
この声は、ほんとうにカイドなの?
この時間、いつもは屋外の訓練場にいるはずのカイドは、なぜかつい先ほど、アーノルドと共に部屋に入ってきた。そうして続き間にリシアがいることも知らないで、会話を続けた。
聞いていたくはないのに、耳はボソボソとした音をどうしても拾ってしまう。
訓練場に行こうとしたリシアが。途中で進路を変え、私室に立ち寄ったのは、燃え残ったルドの手紙を取りに戻ったからだった。カイドに真実を告げるためだった。
けれどつい数分前、机の引き出しにしまっていたそれを手にした瞬間。続き間から静かな物音が響いて、カイドとアーノルドの話し声が聞こえてきた。
どこのお城にも、秘密の通路というものはあるらしい。
ふたりは今、そこを通ってきたのだろう。
だから、廊下で待機していた護衛の存在にも気づかず、リシアがそばにいることも知らず────ほんとうのことを話し始めたのだ。
(どうして今なのかしら……)
リシアは大きく息を吸った。笑ってしまいたかった。
どうやら。どこまでも自分は、利用される立場にあるらしいとわかって。
知っていたのに──それでも、こんなにも〝いつも〟と違う声色で話されたら、心は崩れてしまいそうだった。やさしさも、くれた笑顔も、すべてがすべてまやかしだったのだとわかって。
リシアはカイドが好きだったけれど、カイドはやっぱり、そうではなかったのだ。
その立場と義務で、接してくれていただけだった。
ものをあまり知らないリシアも知っている。
これは、失恋だ。
「まあ。殿下は、お前に心を許し始めていたからな。ルド少年とやらをどうにかこちらに引き込むか、或いは姫から引き離すかをすれば、問題はなかろうよ」
「……はい。ですが、レイルは放置しておけません」
「わかった。この件はすべてお前に任せる」
頼りにしているぞ、とアーノルドが鷹揚に笑う気配がした。
リシアは声を殺して泣いていた。
好きという気持ちは、どうやったら消えてくれるのだろう。
アーノルドとカイドの声が、しだいに遠ざかる。
「カイド。おれはな、哀れな殿下にもなるべくなら幸せに過ごしてほしいんだ。だからお前を選んだ。──リシアはいい娘だと思う。不本意かもしれないが、もしもの時は、守ってやってくれ」
「……はい。命に代えても、お守りします」
──フィリツアのために。
リシアは、スカートに落ちた涙が、そこだけ色を変えるのを見つめていた。




