35
リシアは、終始楽しそうに、あのルドという少年に話しかけていた。
カイドは物憂げに眉を寄せる。
──もしもあれが本当のリシアなのだとしたら……今まで見せてくれていた嬉しそうな表情や姿は、すべてが紛い物ということになる。
少しは、近づけたと思っていたが。
(やっぱり無理をさせていたんだろう)
人の心を掴むのはこんなにも難しい。カイドは思いつつ、しかしすぐに思考を切り替える。
あの少年の滞在を許すことで、リシアが抵抗なくフィリツア側についてくれるなら、自分たちに見せる姿が偽りだろうとそうでなかろうとどちらでも構わないと──。要は友好関係さえ成り立っていれば、それで目的は果たされているのだからと。
カイドは重い軍服の上衣を袖から引き抜くと、そばの長椅子に放った。
「あっちにいた頃、ルドくんがずっと助けてくれていたんだそうだ。そりゃ喜ぶだろ」
「あっちって……モンシェルリエテっすか?」
「ああ」
「…………あ、あー……なるほど」
カスパルは心得たという風に頷いた。
「愛妾の子なんでしたっけ。姫さん、あっちじゃ相当虐められてたみたいですからね。そんなとこで助けてくれてたってんなら、そりゃあ懐きますよね。なんか、距離近いなって思ってたんですけど、納得です」
「……そうか」
「いやぁでも。だったら、ほんとにまずいんじゃないですか」
カイドも感じていた懸念を、胸の前で腕を組みつつ、声をひそめたカスパルが口にする。
「あの小僧が兄貴側について、姫さんを懐柔しようとしたら……たぶん簡単に出来ちまいますよ。────あんまり近寄らせない方がいいんじゃないですかね。姫さんには、悪いですけど」
「……」
ふたりを引き離す。それは、カイドも一瞬は考えたことだった。けれど。
数時間前。正午の会談の終わり──レイルが、ルドを連れてきたあの瞬間。
『……ルド?』
現れた少年の姿に、目を丸くしたリシアを見て──カイドは〝やられた〟と思った。そんな手を隠し持っていたのかと、音もなく唸った。〝理解ある夫〟あるいは〝協力者〟を演じてきた手前、ルドに駆け寄るリシアを止めることなど出来るわけもなく、ふたりの抱擁に、カイドはただ、耐えた。
『ルド、ルド。ごめんなさい』
『会いたかった』
カイドの見ている前で。リシアはくしゃりと顔を歪めた。いく筋もの涙を流し、少年の頬に手を伸ばして、撫で、安堵の笑顔を浮かべた。口づけさえ許しそうな距離だった。
そんなリシアに、カイドは焦りを感じると共に、なぜか虚しさも覚えていた。所詮自分たちの関係は計略上のものでしかないのだと、改めて思い知らされたような気がして。
事実、ただの計略上の関係でしかないはずなのに。
思い──気付く。
どうやら自分は、この数ヶ月で、彼女を心底可愛いと、愛しいと思っていたのだと。それは男女の恋情とは程遠いけれど、確かな親愛だった。だからこんなにも、紛い物の、上辺だけの関係だという事実に、寂しさを覚えている。
まいったな。
思っていた以上の寂寥に、カイドは嘆息した。
彼女に対するそれは。
初めは、同情だった。
敗戦し、これからすべてを奪われる哀れな王女を、なるべくなら守ってあげたいという、情け。
しかし、慣れない国で日々懸命に生きようとするその健気に、カイドは、自分でも気付かないうちに絆されていた。妹ができたみたいで嬉しくて、仲良くなれたと思ったのに違ったから寂しく感じた。それだけのことだ。──外交には必要のない、余計な感情。
リシアの笑顔を思考から振り払い、カイドは冷静に現状だけを鑑みた。
今考えるべきはカスパルの懸念通り、レイルとルドの動向だ。
視線を、カスパルへと向ける。
「そうだな。ルドくんには注意してくれ」
「注意って、あのふたり、引き剥がさなくていいんですか。おれ全然できますよ」
「いや、いい──逆効果になりそうだしな」
カイドは両目を細めて言った。脳裏に忌々しいレイルの発言を思い返す。
『リシア殿下を開放していただきたいのです』
図々しくもそう求めてきた、あの男の目論み。それは、自分たちはフィリツアの傘下──安全圏に入りつつ、かつ、モンシェルリエテ領の実権を握ることなのだろう。そうしてそのためには、民衆がありがたがるリシアを連れ帰るのが手っ取り早いのだ。
つまり、とカスパルが片目を歪ませた。
「姫さんをまた担ぎ上げて、自分は地方の王を目指そうってわけですか」
「だろうな」
「ちっさ」
「だな。でも、モンシェルリエテの統治に王族の存在が有効なのは確かだ」
リシアの祖国に、ひと月程滞在したカイドにはわかる。
あの土地の民は、他国に比べてずっと信仰が深い。だからこそリシアは渡せない。
フィリツアとモンシェルリエテは終戦し、〝平和〟に統合したのだと知らしめるためにも、この結婚は覆せないのだ。
その上、あの少年がリシアの心を奪う可能性が出てきた以上、安穏とはいられなくなった。
カスパルが顔をしかめる。
「? だったらやっぱり、あのふたりは近づけない方が」
「無理に引き離そうして、リシアの不審を買ったらどうする? それこそあいつらの思う壺だ」
大丈夫。まだ、彼女の心はこちらにもある。
夕刻、わざわざ礼を言いに執務室を訪ねてくれたリシアの律儀を思い出して、カイドは自身を落ち着かせた。そうして冷静に指示を飛ばす。戦場での彼のように。
「その代わり、ふたりきりにするのは絶対に避けろ。必ずお前かミリーか、ほかのやつをつけておけ」
「わかりました」
カスパルがいつになく神妙に頷き、それから、ため息をついた。
「……けど、王女に生まれるってのも災難なんですね。おれは気楽な市民でよかったですよ」
あの子を見ていると心から思います、と呟かれ。だからこそリシアには安らぐ場所や望むものを与えたいのだとカイドは思った。あんなにいい子は、そういないと思うから。どうにか幸せになって欲しいと、願ってしまうのだ。
自分だって彼女を政略に利用している分際のくせして。
ぼくは偽善者だ。
罪悪感に、きつく両目を瞑る。いっそ割り切ることが出来たらいいのだろうけれど。
窓の外では、夜が深くなっていた。