34
ルドと別れたリシアは、その足でカイドの執務室を訪ねた。もう何ヶ月も一緒に暮らしているというのに、彼の仕事部屋に入るのは今日が初めてで、とても緊張していた。
(お礼を言わなくちゃ)
迅る気持ちを抑えて、カスパルに案内された部屋の扉を叩く。と、すぐに中から、仕事中特有の、カイドのかたい声が返ってきた。
「はい」
「っ……わ、わたしです。リシアです。お仕事中にごめんなさい」
「……え? リシア?」
「はい。少しだけお時間いいですか」
一瞬の間の後。足音に続いて、勢いよく扉が開かれた。
ドアノブに手をかけたまま、目を丸くしたカイドがリシアを見下ろしてくる。
「どうしたんです、ルドくんと話をしていたんじゃ……」
「はい。ゆっくり話せました。ありがとうございました」
「……もういいんですか?」
「夕食の時に、また会えますから」
それより、早くカイドに礼を言いたかったのだとリシアは告げた。
「ルドたちの滞在許可を出してくださったの、カイドなんでしょう? ありがとうございます」
「いえ、私は何も。書類にサインをしただけですから──って。もしかして、それを言いにここまで来たんですか」
「はい」
「…………びっくりしました、てっきり、何かあったのかと」
言いながらカイドは、リシアの背後、佇むカスパルを見やった。カスパルは、飄々と応える。
「大佐が心配なさっているようなことは、なんにもないですよ」
「……なら、いいけど」
カイドの執務室は、城の奥──軍の中枢部にあった。
国の要とも言えるその場所には、当然、厳重な警備が敷かれていて。ここに辿り着くまでリシアは、何度も衛兵の集団や、幹部と思わしき厳めしい軍人とすれ違った。その慣れない雰囲気は、少しだけ怖かった。
カイドが困ったように首を傾げる。
「言ってくれたら、私から会いに行ったのに」
「カイドは恩人です。恩人にご足労をかけるわけにはきません」
「恩人なんて」
小さな苦笑ののち、柔らかな笑みへと変わる。
「でも、ルドくんたちが無事で本当に良かったですね」
「はい」
「やさしそうな子でしたね」
「はい、ルドはとてもやさしくて、それに勇気もあるんですよ。お城でもよく助けてもらっていました」
「それは立派な騎士さまですね」
「はい! エマもとっても素敵な子なんです。それにきれいで、かわいくてきっとカイドもびっくりするくらい──」
言いさし、でも、そのエマは今、足を怪我しているのだと思い出す。にわかに顔を曇らせたリシアに、カイドは穏やかな声で言った。
「エマさんの怪我、早く治るといいですね。私も挨拶をしたいですから」
「……はい」
立ち話もなんですから、と、リシアはカイドに、部屋に招きいれられそうになったけれど、彼の時間をこれ以上もらうのは忍びなくて、リシアは、首を横に振って断った。
一歩下がって、彼をもう一度見上げる。
「……カイドにはどんどん恩がたまっていきますね。わたし、ちゃんと全部返せるかしら」
冗談めかして呟けば、「返さなくて結構ですよ」とやさしく微笑まれる。
「私はリシアが無事なら、それでじゅうぶんですから」
だから礼なんていらないと、彼はいつものようにそう言った。
リシアが〝ここにいる〟だけでいいのだと。
「……」
でも。それは。
──それは、政略結婚だからなのよね。
ふとそんな当たり前の答えに至って、リシアはぼんやりと心をしぼませた。
利害を考慮した〝契約〟。
打算まみれの関係。
そんなことはわかってはいた。けど。だとしたら。
ほんとうの意味で彼に近づくことは、叶わないのだろうか。永遠に。
カイドを、部屋の奥から差したオレンジ色の夕日が、あたたかく照らしだす。
リシアは気付けば、口にしていた。
「……次は、ケーキに挑戦しようと思ってるんです」
「ケーキ?」
唐突すぎて、不思議そうに尋ね返された。構わずリシアは続ける。
「はい。果物をたくさんのせようと思っています。……出来たら、また、食べてくださいますか」
「もちろんです。楽しみにしていますね」
リシアは両手を握りしめた。
「……はい。がんばりますね」
勉強も外交も。彼との関係も。もっとより善いものに出来るように。
カイドとアーノルドの絆や、ルドやエマとの信頼みたいに。
──本物になれるように。
リシアは希望を抱いて、カイドを真っ直ぐに見つめ返した。
その晩。夕食の席で、ルドはリシアの真向かいに座っていた。(それもカイドの心配りだったのだろう。)おかげで会話は弾み、食事はいつもよりうんと美味しく感じられた。
慣れない異国料理に驚くルドに、リシアは得意げに説明をして、足りない知識は隣のカイドから補足してもらった。「美味しいですね」とルドがカイドに緊張気味に声をかけ、カイドは「自慢の料理なんです」と返す。
そこには、まだやっぱり溝があったけれど。
リシアは自分が〝橋〟になるのだと意気込んで、積極的に会話に混ざった。
***
まさかこんな手を使われるとは思ってもいなかった。
晩餐を終え、私室で軍服を脱ぎかけていたカイドの背に、カスパルの淡々とした声がかかる。
「大佐。これはちょっとまずいかもしれないですよ。姫さん、めちゃくちゃあいつに懐いてるじゃないですか」
「懐くって……動物じゃないんだから」
呆れ振り返りながらも、リシアの様子を思い出し、確かに懐いていたな、などと思ってしまう。あんなに元気なリシアを見たのは、カイドも初めてだった。