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『なぜおまえがここにいる』『父上にとりいるつもりかあの性悪女のように』『ああ、おれを見るな気味のわるい』『はやく──でもすればいいものを』
────あまりに悲しくて、つらくて、覚えていられない言葉もあった。
モンシェルリエテの王城にいたころ。
いちばんうえの兄と遭遇してしまったリシアは世界から消えたくなるほどのひどい言葉で傷つけられた。なんども、なんじゅうにも。
足がすくみ、凍りついて、おおまたで歩み寄ってきた兄の手が加減なく打ち下ろされるのを見た。
いつもの通り部屋に引きこもっていたらよかったのだろう。
だけど今日はお腹が空きすぎて。厨房に行けば、もしかしたらやさしい料理人が同情してくれるかもしれないと思ったのだ。
城の大人たちはほとんどがリシアの味方ではなかったけれど、年老いた料理人や、庭師は、ごくごくまれに、リシアに手を差し伸べてくれたから。
なのに、厨房に行くとちゅう兄に遭ってしまうなんて。今日は、運が悪かった。
悲嘆し、あきらめ、リシアは両目をきつくつむる。いいつけをやぶった自分がわるいのだと。
けれど──次の瞬間、ばしんと激しい音に続いたのは、高らかな少年の声だった。
『おやめください!』
おそるおそる開いた視界の先には、薄水色の軍服が。正規の騎士ではなく見習いを指すその小柄な背中が、激昂する兄に向かっていた。
兄の罵倒と暴力を代わりに受けてくれた少年──ルドは、泣きじゃくるリシアに、真っ直ぐな瞳を向けた。
ほんとうの名はルドルフと言うのだそうだけれど、腫れた顔のまま、リシアに、愛称で呼んでくださいとわらった。
だからリシアは、彼をルドと呼び続けたのだ。
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「ルド……!」
「姫さま!」
互いに駆け寄り、手を取り合う。数ヶ月ぶりに再会したルドは、記憶の彼より痩せてしまっていた。目の下は青白く、唇はかさついて。いったいどんな生活を送っていたのだろう。リシアはそのこけた頬に手を伸ばした。
「ルド、ごめんなさい……」
唇がゆがむ。
「会いたかった」
「おれもです。ああほんとうに、ご無事でよかった」
その存在を確かめるかのように、ルドはリシアの額に額をすり寄せた。そうして怒ったように声をしぼりだす。
「あんな無茶、二度となさらないでください。どれだけ心配したか」
王城で隠し通路に突き飛ばした時のことだろう。リシアは繰り返しあやまった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
──でも、生きていてくれた。
そのぬくもりに、リシアは喜びの涙を流した。鼻のさきがこすれそうな距離のまま、尋ねる。
「エマは? エマはどこ? エマも無事なの?」
「……エマは、すこし怪我をしてしまって。ああでも、命に関わるようなものではありません。今はモンシェルリエテで療養中ですから、どうか、ご安心を」
城から脱したあと。ルドとエマのふたりは、市街へ抜け、そこで悪漢に襲われてしまったのだそうだ。乱闘の末、エマは足を骨折し、今はベッドから降りられないから、フィリツアへは来られなかったと。
「エマも、姫さまに会いたがっていましたよ。まいにち、うるさいくらいに」
足の骨を折るなんて。どんなに痛かっただろう。もっとはやく再会出来ていれば。もっと自分に力があったらそんなことにはならなかったかもしれないのに。無力が悔しくてたまらず、リシアは唇を噛み締めた。
「エマにも会いたい……会ってあやまりたい」
「会いに行きましょう。おれが責任を持ってお連れしますから」
手を強く握られ、至近距離で見つめられて、リシアはこくこくと頷いた。
ほっとしたからか。場にはレイルやその一団のほか、カイドたちまでいたのに。リシアは、こどもみたいに泣き続けてしまった。
レイルの弟だから、特別に随従をゆるされた、とルドはいった。でなければ、騎士見習いの分際でこんな大切な旅の参加はみとめられませんよ、と。