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助けに来たはずの自国の姫にこうまで言われて、一家臣でしかないレイルに、返す言葉などありはしなかった。
卓の向こうから、不安げに見つめられる。
「……殿下が、そのようにおっしゃられるのでしたら」
本心では少しも納得していないのだろう。不信の残る表情をしていた。
それでも、当人であるリシア自身から解放は必要ないと断言されてしまった以上、レイルは引き下がる他なかった。
──数秒の沈黙ののち、アーノルドの明朗な声が陰鬱を打ち破る。
「では、これで終わりとしてよいな」
最高位の彼に誰が否と言えただろう。
モンシェルリエテ側の代表であるレイルが了承して、その場は解散となった。
しかしそれから、数分後のこと。
「殿下」
自室に下がるため、カイドと共に廊下を歩んでいたリシアの背に、切羽詰まったようなレイルの声が届いた。慌てて追いかけて来たらしい。
「なにか?」
立ち止まり、そう応えたのはカイドだった。振り返った姿勢のまま、リシアの視界を塞ぐようにレイルの前に立ちはだかる。
「……大佐殿」
先程までの殊勝さはどこへ行ったのか。
レイルは不満を隠そうともせず、カイドを半眼で睨みつけた。
背丈が同じくらいだからか、そうして軍属のふたりが対峙していると、妙な迫力があった。
「失礼。私は、リシア殿下にお話があるのですが」
「話なら済んだはずだ」
カイドらしくもない。
突き放すような、その冷ややかな言い方に、リシアは驚き、目を丸くする。
(カイド……?)
どうしたのだろう。そっと見上げるが、後ろ姿からはどんな顔をしているのかはわからない。けれど。
リシアは、以前にも二度ほど、それと近しいカイドの声を聞いたことがあった。最初に捕らえられた時と、帝都で拐かされそうになった夜、謝罪ばかりする自分を叱咤された時のことだ。
正直を言えば、そのどちらも怖かったけれど。
今しがたカイドが発したそれは、それとは比べられないほどの冷たさを帯びていて。
なぜ、とリシアが戸惑う隙に、噛み付くようにレイルが言った。
「リシア殿下は我々の王女殿下です。少し昔話をするくらい、構わないでしょう」
「昔話?」
カイドが怪訝そうに繰り返す。
「おかしいな。リシアは貴殿のことなど知らないと言っていたが。一体、なにを話そうと言うんだ?」
「貴様、殿下に敬称もなく……っ」
「わ、わたしがなくてもいいと言ったんです」
不穏すぎる空気に、リシアは咄嗟に口を挟んでいた。事情はわからないけれど、会談が終わったばかりなのに、こんなところで仲違いさせるわけにはいかない。
「和平協定の為にも、早く打ち解けた方がいいと思って」
実際はカイドからの申し出だったが、ここは自分からと言っておいた方が平穏に済むだろうと、リシアは事実を少しだけ捻じ曲げた。
と、リシアを見下ろしたレイルが、今度は心配そうな表情を作る。
「……殿下。本当に、無理はされていらっしゃらないのですか」
次いで出た、小さくて低い、窺うような声色。彼は、リシアがカイドたちに無理強いされているのではないかと疑っているのだ。会談での発言も、アーノルドにそう言うように強制されたのではないかと──。
カイドもアーノルドも、ほんとうにやさしい人たちなのに。
彼の誤解を解くには今しかないと、リシアは顔を上げた。
「レイル様。アーノルド陛下は、善い方でしたでしょう? わたしも、この通り怪我もなく元気ですから、そう過分にご心配なさらないでください。一緒に、協力していきましょう?」
「…………殿下は、覚えていらっしゃらないようですが」
切迫詰まったように、レイルは言った。
「私と貴女は、王城では何度かお会いしておりますし、話をさせて頂いたこともあるんですよ」
「だから、それをリシアは覚えていないと──」
「貴方には関係ないでしょう」
黙っていてくださいと強く言われて、カイドは噛み付くように返した。
「関係なくなどない」
「ご結婚されたからですか」
レイルは憤るように言った。それだって貴方がたの策略でしょうと批判するように──。
しかし、これ以上はまずいと気づいたのか、すぐに謝罪をする。
「申し訳ありません。殿下のご無事が嬉しいあまりに、感情が昂りすぎたようです……無礼の数々をお許しください」
それでも、カイドの警戒は解かれなかった。構わず、レイルはリシアに向けてかたい笑顔を作る。
「本日決定した事項の詳細を詰める仕事が残っていますから、しばらくこちらに滞在する予定です。──また、お話をさせてくださいね」
それから付け加えた。
「弟の、ルドのことも」
え?
リシアは瞬いた。
聞き間違い、だろうか。
吸い寄せられるみたいに、尋ねる。
「ルド? ルドを知っているの? 無事なの」
レイルはしっかりと頷いた。
「はい。殿下のことを、誰よりも心配していましたよ」