30
(わたしを?)
突然出た自分の名前にリシアが目を瞬かせる隣で、カイドが警戒を露わにする。
「……あいつ、何を」
低く呟いて、相対するレイルを睨み据える。それに気づいた様子のない──まるで正義を主張するかのように胸を張ったレイルの、男性にしては高めの声が広い室内に響く。
「リシア殿下はまだ幼い。ですから、これ以上政局に巻き込むのはお止めいただきたいのです」
それまで、一切の不平も不満も見せなかったレイルの、突然の豹変ぶりに、アーノルドは両眼を細めて微笑した。背を椅子に預けながら、ゆったりという。
「生憎だが、それは出来ない」
反論は即座に飛んできた。
「何故です。我々は陛下のお望みのものを全て差し出し、条件も受け入れました。それでも、こちらの要望はただの一点もお許し頂けないのですか」
「まあそうだな」
「……そのような心持ちでは今に誰からも見放されますよ」
「忠告痛み入る。だが、無用だ」
言ったアーノルドの視線が、一瞬だけこちらを向いた。黄金色の瞳に射られて、リシアは身をすくめる。けれどすぐに気づく、その眼差しはカイドに向けられたものだと。
レイルへと顔を戻した皇帝の唇は、やはり余裕の弧を描いていた。
「彼女は解放しない。おれたちは和解したんだ。リシア殿下も賛同くださっている」
「……陛下」
レイルは短く息を吐いた。そうして、少しだけ口調を和らげる。
「無謀に、帝国への戦を仕掛けたのは我々です。……父たちが身の程も弁えず、大変なことをしたと、今は思っています。どうして止めることが出来なかったのかと。悔やんでも悔やみきれません。無論私は、意見できるような立場でないことも、自覚しています」
「そうは見えないが」
「陛下のご温情には感謝しております。本来なら私などいつ首を刎ねられてもおかしくない身。ですが陛下はこうして、場を設け、耳を傾けてくださっている」
「それで?」
「僭越ながら、帝都を散策させていただきました。市民は皆、陛下をお慕いしていた……『善き皇帝』だと。陛下は、民に寄り添えるお心のある方なのでしょう。私はそう感じました」
唇を噛み締めるようにしながら、レイルはアーノルドを見つめ続けた。
「ですからこそ、陛下ならご理解くださると思い、お願い申し上げました。どうかリシア様を解放ください。このような見知らぬ土地で暮らすなど、あまりにもお可哀想です」
待っていましたと言わんばかりに、アーノルドが微笑む。
「それならば心配無用だ。殿下には健やかにお過ごしい頂けるよう配慮しているし、将来有望な伴侶もあてがっている。仲も良好だぞ。むしろこれを引き離す方が哀れだと、そうは思わないか」
見てみろ、と言うように、アーノルドは目線でリシアとカイドを指した。とたん、レイルの鋭い眼差しがこちらに向けられて、ああ、自分はこの為に出席を促されたのだとリシアは理解した。フィリツアとの友好関係を示さなければ。
リシアは身をすくませながらも、紅い唇を開く。ようやく、必要とされた。
「レイル・アルガン様。ご心配くださってありがとうございます。ですがわたしは、フィリツアへ連れられてからずっと、アーノルド陛下に庇護されておりました。帝都を散策されたレイルさまもご存知の通り、陛下はほんとうに心のお広い、おやさしい方です。酷いことなど一切ございませんでした。それどころか陛下も、伴侶となってくださったカイドも、わたしの希望をお尋ねくださるばかりで。今は教育も受けさせていただいているほどです」
「……教育?」
レイルが唸るように言葉を繰り返した。リシアは頷く。
「はい。お恥ずかしい話ですが、こちらへ来たばかりの頃は……わたしは、教本を読み解く程度の知識しかございませんでしたから、ですから陛下に、勉強の機会をいただけないかとお願いしたのです。それを陛下がご了承くださって……ですので、これからはわたしも、陛下のお役に立ちたいと思っています。もちろん、モンシェルリエテの復興にも尽力させていただければと」
ほんとうの目的は、行方不明となっている親友たちを探し出すことだけれど。それは伏せて、リシアは言葉を続けた。
「ですから、わたしの解放は必要ございません。どうかアーノルド陛下をご信用くださいませ」




