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それから数週間の月日が流れた。
とある午後のこと。
「姫さーん。そろそろ休憩なさったらどうです」
「はい……あと、もう少し──ここまで、終わったら」
カリカリと羽ペンを動かしながら。リシアは上の空で返事をした。その視線は自身の手元、書き付けと指南書を行き来したまま。
だから、すぐそばのカスパルがため息をこぼしたことにも気づかない。
「姫さん姫さん」
(どうせ聞こえてないだろうけど……)
心の中でそうごちたカスパルは、居室の中央、長椅子に腰を落ち着け、上官の妻を見やる。
「すみません。限界なんで先にいただきますね」
返答は、やはりない。まあいいやとカスパルは、先ほどメイドが用意していった菓子と紅茶に手を伸ばした。カイドがいれば、首根っこを掴まれるだろうその場面も。リシアはやはり無心に、机に向かっていた。
短い夏が終わり、朝晩は涼しい風が吹くようになったその季節。
リシアはアーノルドが手配した三名の文官から、熱心な教育を受ける日々を送っていた。
カイドの話によると、教師役を引き受けてくれたその三名の御仁は、いずれも名のある国の学者だったとかで。彼らは変わる変わる、時間の許すかぎりその多分な知識をリシアに授けてくれていた。
周辺国との情勢や貿易。
大きな戦の時系列。
複雑に変動する国境線。
それから、属国とした国々のさまざまな統治方法。
(武力だけではないのね……)
リシアは、先刻聞いたばかりの外交状況を、簡素な挿絵を描いて理解し直した。
そうして、ゆっくりと頭に入れていく。
フィリツアは戦で勝利を繰り返しのしあがった国だ。だからてっきりリシアは、軍部がそのまま力で制圧統治しているのだとばかり思っていたけれど──案外そのような国は少なくて驚いてしまった。
リシアは忘れないうちにと、教師陣が製作してくれた簡易の指南書を読み返す。
そこに記載されている内容でもやはり、現在の属国のほとんどは各地での自治権を認められていた。
その国名はあくまで『フィリツア』で、実際の統治者もアーノルドの息がかかった者らしいのだけれど──それでもその世界は、リシアが考えていたよりもはるかに穏便で、平和なものだった。
戦禍の及ばない地域。海域。村や街。それによって得られる特産物や食糧──『アーノルド陛下の政治的手腕は素晴らしいものなのです』と今日の指南役を引き受けてくれた老年の教師が、誇らしげに語っていた理由も頷ける。
モンシェルリエテでは入手することの出来なかった、たくさんの情報。
(今からでは遅いのかもしれないけど)
焦燥に駆られながらも、リシアは、カリカリと羽ペンを動かし続ける。今はこんなことからしか、始められないから。
「おい」
と、勉強に集中していたリシアの耳に、低い声が届く。同時にぱしんという、空気を切るような軽い音も。
「なにをやってるんだ、お前は」
「いって。叩くことないじゃないですか」
「それは、リシアに買った菓子だ」
「だってお姫様がいいって」
「だとしても食べ過ぎだ」
上官と部下にしては、軽快すぎるやり取り。
気づけば室内には、カスパルと控えていたメイドの他──アーノルドの近衛についているはずの、カイドの姿があった。
どうして、とリシアが思っているうち、カイドが歩み寄ってくる。
「リシア。頑張ってくださるのは嬉しいですが、根を詰めすぎるのはよくないですよ」
休憩してください。と、握っていた羽ペンを奪われる。
「……あの、キリのいいところまで」
「駄目です。聞きましたよ、昼からずっとかじりついているのでしょう」
言われて時計を見れば、時刻は、いつの間にか夕方近くになっている。
こんなに経っていたなんて。
瞬きするリシアに、カイドが穏やかな声で言った。
「私もちょうど交代を申しつかったので、一緒に食べましょう」
「……はい」
しぶしぶ立ち上がったリシアを、カイドはエスコートするみたいに長椅子へと導く。そのまま隣同士で腰掛けると、壁際にいた二人のメイドが、カイドの分もカップを用意して、温かな紅茶を注いだ。
肩の触れ合いそうな距離で、カイドが言う。
「今日はどんな授業だったんですか?」
「……ええと、内政と階級についてを、少し」