21
カイド。怪我がなくてほんとうに良かった。
少し離れた場所に移ってカスパルと話をする端正な横顔を見やり、リシアはほっと胸を撫で下ろす。
彼が赴いていた異国──モンシェルリエテにはまだ、反乱を企む者たちが残っている。だから万が一にでも大怪我をしないかと、リシアはこのひと月ずっと不安でたまらなかったのだ。カイドの直属の部下であるカスパルは「大丈夫ですって。あの人なら」と半ば呆れたようにぼやいていたけれど。いくら彼が軍神と崇められていたって、強くたって、大勢で襲われたら一溜まりもないに違いないのだから。
しかし。今目の前にいるカイドにはかすり傷の一つもなさそうで、安堵する。
欲を言えば、ほんとうは、リシアも同行したかったのだけれど。
『すみません、それは──』
今はあまりにも危険が多すぎると、その懇願はひと月前、カイドにはっきりと断られていた。
リシアはそっと顔を俯ける。モンシェルリエテの臙脂色のそれとは違う、フィリツア製の、蔦模様の描かれた緑の絨毯が目に入った。
──ルドとエマを探しに行きたい
その思いは今も変わってはいない。どころか、日に日に増していく一方だった。
けれど、カイドの懸念もよく分かったから、それ以上願い出るのをリシアは堪えた。
リシアはまだ狙われ続けている身だ。ふらふらと出歩いて、また襲われでもしたら今度はリシアだけではなく、周囲の人々にも危害が及んでしまうかもしれない。カイドはもちろん、交代で護衛についてくれているカスパルたちだって危ない目に遭わせてしまうかもしれないのだ。それは駄目だとリシアは思った。──よその国の人たちを不用意に巻き込むなんて、出来ないし、してはいけない。
リシアはリシアで戦わねばならない。
「良い匂いですね」
言われて、はっとした。
気づけばすぐそこにカイドが立っている。カスパルとの話は終えたのだろう。興味深そうにリシアの手にしている焼き菓子を覗き込んでくる。
「これは?」
「カイドに頂いた本に作り方が載っていたので、練習をしていました」
「ああ」
あれか、という風にカイドは頷いて、ちらとこちらを向いた。
「私も、もらっても?」
「……はい」
少し迷ったのは、まだ自信が持てないからだった。
何度目かの挑戦。
最初に比べれば卵を割るのも上手くなったと思うし、焼き目も綺麗になったと思う。
それに、試食をしてくれたカスパルだって美味しいと言ってくれた。
でも。
カイドにはまだもう少し、上達してから食べて欲しかったような気もして──。
そんなリシアの胸中など知るはずもなく、カイドは一つつまむと、あっさりと口に入れてしまう。
大きな手と口だな、とリシアは思った。
「ん、美味いですよ」
数口で食べ終え。疲れた身体に沁みます。とカイドは僅かに微笑んだ。
「……カイドは、甘いものがお好きなんですね」
リシアが言えば、カイドは「バレましたか」と両目を細める。
また少し彼を知ることが出来たと、リシアははにかんだ。
けれど、そのすぐ後。
陰鬱に表情を改めたカイドから、ルドとエマを見つけることは出来なかったと告げられ、リシアは思いがけず消沈してしまった。そううまく行くはずがないと分かってはいても、心のどこかで会えることを期待してしまっていたらしい。
「必ず見つけますから」
誓うように言われて、リシアは頷き返す。
このまま、守られてばかりではいけないことは理解していた。
リシアはカイドの伴侶であり、且つ今はアーノルドの家臣でもあるのだから。