19
その騒動からひと月が経った。
ある昼下がりのこと。
「戻ったか」
任務を終え帰国したばかりのカイドを、アーノルドは深い笑みで迎えた。
皇帝の政務室。
人払いを済ませた、さして広くもないその部屋には、ダークブラウンの執務机と揃いの椅子、それから中央にローテーブルを挟んだ一対の長椅子があるだけだった。
アーノルドは自身の見てくれには気を配る男だが、調度品やインテリアの類にはそれほど興味がないらしく。
だから今の宮殿は、フィリツアが帝国を名乗る以前──アーノルドが君臨する前──この地を治めていた王族たちが建てたものを、内装もそのままに利用していた。
王族共の嗜好は華美過ぎたが悪趣味というほどではなく、一流の職人たちが手掛けた品々を無駄にすることもないだろうと、アーノルドが判断したためでもあった。
さすがに、歴代の王の肖像画は邪魔だと外したが──。
身じろぐと、ぎっと軋む音のする椅子に腰掛けたまま、アーノルドは、眼前に立つ近臣をゆるりと見上げた。
「それで。モンシェルリエテはどうだった? 想定より時間がかかったようだが」
「ええ。想定より抵抗されました」
モンシェルリエテに残っていた、あの女装男の仲間の話だ。
捉え、軍の監獄へ移送した後。カイド自ら尋問した男は、最初こそ沈黙を貫いていたものの、武具店で見かけたそれ専用の道具の仕様をほのめかせば、あっけなく情報を吐いてくれた。
そうして、帝都に潜んでいた残党を一掃するまでは簡単な仕事だったのだが。
これを機にと、カイドは、モンシェルリエテにも繋がっているはずの情報網を洗い出し、彼の国へもう一度渡った。
問題は、そこからだった。
モンシェルリエテは今やフィリツアの一部と化していて、だから数日もあれば解決する仕事だと思い込んでいたのだが。しかし。
「姫君を返せ? か?」
堪えきれないとばかりにニヤついたアーノルドに、カイドは重いため息で返す。
「笑い事ではありません。異常ですよ、あの国」
血統を有難がるにもほどがある。
王族や、城の人間はリシアを蔑ろにしていたくせに。
カイドの声は自然、不機嫌に低くなる。赴任中、あの国では〝色々〟とありすぎた──そのうちの一つを口にする。
「農家の、ご年配の女性にも石を投げられました」
「はは。市民は特にそう刷り込まれてきたのだろうからな。なにしろ、神から受け継いだ血だ」
大仰に言ったアーノルドに、カイドは眉間の皺を深くする。
数百年続いたグレーデン王家の、にわかには信じがたい(と言うかカイドたちは信じていない)建国神話だ。
その人物。
初代のモンシェルリエテ王は、なんでも神と言葉を交わせる異能を持っていたらしく、皆から好かれ、国を興し、豊かにした英傑だったそうで────それこそアーノルドのような実力者だったのかもしれないが。
だからといってその子、孫、血族の全てが有能だなどと、そんなことがあるはずもなく。
事実こうして崩壊してしまったというのに、それでもまだ彼の国には、王族を尊ぶ民が残っていた。
カイドは憂鬱に視線を落とす。
抵抗した残党、かつての宮仕えたちは、王族をありがたがってなどいなかった。王族を、民を上手く操る道具としか認識しておらず、だからひたすらに『姫を返せ』と繰り返していた。
(特に〝あの男〟──。)
残党を率いていた若者を思い起こし、不快な気分になった。
リシアを取り戻したがるのは理解できる。それは政略的には賢く、頷ける判断。実際にカイドやアーノルドだって同じようなことをしているのだ。
けれどあれは、あまりにも。
「──しかし、まさかお前がひと月もかかるとはな」
アーノルドの声に、カイドは顔を上げた。
かちあった主君の金の双眸は、珍しくからかいを含まずに緩められている。
「姫君が寂しがっておいでだ。報告はまた呼び出す。今は、会いに行ってやれ」