18
*
目を覚ますと、暖かなベッドの中だった。
見覚えのある薄紗の幕に、与えられている私室だと気づく。
「気がつきましたか」
呼びかけられて首を向けた、そのかたわら。椅子に掛けていたカイドを、リシアは、ぼんやりと見つめた。
ああ、やっぱり綺麗な男だなと思った。
そして、謙遜ばかりする人。
軍神と呼ばれていて、強くないなんてことはなかった。だってあの時の白刃は、リシアを救った剣は、とてもうつくしい煌めきを放っていたから。
それこそ神様のような、死神のような。
「どこか……痛いところは」
短く、静かに問われて、リシアは顔を横に振る。
ほんとうは喉が痛かったけれど、それよりもずっと苦しそうなカイドのことが心配だった。
なにがあったかは覚えている。老婦人のフリをしたあの男性に、拐かされそうになったのだ。
リシアは男性をまったく知らなかったけれど、男性の方はリシアを見知っていたのだろう。祖国では武人のひとりだったのかもしれない。──彼は、リシアをモンシェルリエテに連れ戻そうとしていた。リシアを再び人形にでも祀りあげようとしていたのだろう。怖かった。
けれど。今はそんなことよりも。
「ごめんなさい」
カイドや、カイドの部下の人たちに迷惑をかけてしまったことが気がかりだった。あと少しで無事に外出は終わるはずだったのに。
気落ちするリシアに、カイドが、聞いたこともない低い声音で言う。
「……どうしてあなたが謝るんです」
初めて会った時だって、こんなに冷淡ではなかった。リシアはわずかに目を見開く。
「あなたはなにも悪くないでしょう。被害者だ」
「……でも、心配をかけました、迷惑も」
「心配くらいいくらだってします。こんなの、迷惑でもなんでもありません。それに言ったでしょう、あなたを守ると。なのに、私はその約束を果たせませんでした。だからあなたは怒ったっていいんです。ちゃんとしろって。謝ることなんてなにもない」
「……怒るなんて、出来ません。助けてもらったのに」
「怒ってください、少しでもいいから。我慢するのは、もう……止めなさい」
膝上に置かれていたカイドの手が、拳を作った。
「こんな理不尽、許されていいはずがないのですから」
「────」
……理不尽。
それは不思議と、リシアの胸にすとんと落ちた。
たしかに、生まれてからずっとリシアは、王女だから、愛妾の娘だからと、それだけの理由でたくさんの理不尽に遭ってきた。遭いすぎて、いつの間にかそれが当たり前になっていて、不満に思うことすらなくなっていた。
でもきっと他国の人間──カイドからすればリシアの境遇は理不尽そのものだったのだろう。
リシア自身がなにかをしでかしたわけでもないのに、敗戦の後処理を負わされ、今日はこうして拐かされそうになって。
リシアはそれを全て、自分は王族だからと、責任を取らなければいけない運命だからと受け入れてきたけれど。
よく考えればリシアは権限を持っていたわけでも、贅沢を許されていたわけでもなかった。
どころか、勇気を振り絞った発言は笑い飛ばされ、自国では傀儡とされ。
なのに、後始末だけ利用されるなんて。
そうか。言われてみれば。
わたしは、理不尽な目に遭っていたんだ──。
枕に頭を半分埋めたまま、リシアは、ほうっと息を吐いた。
声を荒げたことを後悔しているのか、カイドは一つ咳払いをした。
「……あなたを襲った男は、こちらで捕縛しました。二度と近づけさせませんから、安心してください」
「……はい」
「それと……今日は時間が足りませんでしたが、次は一緒に包丁を買いに行きましょう。料理長に選び方を聞いておきますから」
──次は。
「……はい…………ありがとう、ございます」
その時、なぜか鼻の奥がツンとして。
かと思えば、じわりと視界が緩んだのは、カイドがやさしすぎるせいだった。
胸がたまらなくいっぱいになって、鼻を、両目を、顔中をくしゃりとゆがめて堪えようとしたのに、止まらない。
涙がいっきにあふれ出す。
カイドはその涙を、自分がきつく言い過ぎたからだと思ったらしい。
少し慌てたように言う。
「リシア、すみません。声が大きかったですね、怒ってるわけじゃありませんから……泣き止んでください」
そんな弱ったようなカイドの声を聞くのも、初めてだった。リシアはあふれるそれを止めようと、両手で顔を覆う。
「これは、違うんです……うれしなみだです。だから気にしないでください」
「そんな嘘」
「いえ。ほんとうに。包丁もありがとうございます。それから他のことも。ありがとうございます。わたし、大人の人にこんなにやさしくしてもらったことがなくて……ほんとうに、なくて……」
鼻を啜る。
「お城の人は、お父さまも兄さまも誰も、わたしの話なんて聞いてくれなくて…………だから」
だから、ありがとうと言うべきだと思った。ごめんなさい、ではなくて。熱い雫が、両目いっぱいにじんと広がる。
耳に心地いい、カイドのやさしい声がした。
「……もう大丈夫ですよ。これからはリシアの話は私が聞きます。したいことも、思っていることも言ってください──それと」
リシアより、いくらか体温の高い、大きな手にそっと両手首を掴まれ。
「そろそろ目を擦るのは止めましょうか」
両目を押さえてい手を引き剥がされる。
こちらを覗き込む黒曜石色の双眸は、柔らかく緩められていた。
「腫れてしまいます」
そのまま身を起こされ、皺のよったシーツの上で、両手を両手で握り締められる。
「リシア。朝でも夜でももちろん昼でも。夢見が悪かったり寂しくなったりしたら、遠慮なく私を呼んでください。せっかく部屋がつながっているんですから」
「……はい」
「約束しましたね。もう夜中にひとりで泣くのはなしですよ」
「…………知って」
「ええ。これでも軍人ですから、音には敏感で。……ところでルドとエマとは? いつも呼んでいるでしょう」
それも聞こえていたのか。
リシアはもう一度鼻を啜って、それから、ふたりの親友のことを打ち明けた。
真面目で少し血の気の多い騎士見習いの少年ルドと。
いろんなことを知っていてお姉さんみたいだった侍女のエマのことを。
ふたりが、リシアに様々を教えてくれたことを。
そして。
カイドが城に攻め込む寸前。
隠し通路から逃したことも──……。
聞き終えたカイドが、短い息をつく。
「……事情は、わかりました」
「どうしても。ルドたちだけには生きていて欲しくて」
リシアは唇を噛み締めた。
不安に、カイドの手を知らず強く握りしめる。
「ふたりは無事でしょうか、わたし、ずっと心配で」
「……条約通り、我々は市民に手出しはしていません。反抗する者は無傷とはいきませんが、子供ならきっと無事です」
「…………会いにいきたいんです」
「……」
たまらず言い募れば、カイドはさすがに黙ってしまう。
あの国にはまだ、リシアを担ぎ上げようとする者が残っているだろう。今日の、あの男性のように。
だからこれが無理な願いだとは重々承知している。
それでも。
「世情が落ち着いた後で構いません。一日でも、数時間でもいい。ふたりを探しに行かせてはくださいませんか」
喉の痛みが増していた。
カイドは眉間に皺を寄せたまま、沈黙を続ける。
やさしさに寄りかかり過ぎたかと。
リシアが前言を撤回しようとした、瞬間。
「わかりました」
はっとするリシアの瞳を、カイドは真っ直ぐに見つめ返してくる。
「いつとは約束できませんが、手は尽くしましょう」
「…………ほんとに?」
「ええ」
真摯に頷かれて。
「友人が心配な気持ちは、私にもわかりますから」
言われて。リシアは、いよいよ泣き崩れた。
このやさしさが、たとえ和平条約の上に成り立っている情だとしても。
うれしいことに、変わりはなかった。
「あり……がとうございます」
ほろほろと涙がまたあふれてきて、目をつむった。
雫は、ぽたりとカイドの手に落ちる。
結婚をした相手が、この人でほんとうに良かったと思った。
仮初めの旦那様だとしても。
この人で良かったと、思っていた。




