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──なにか。お返しが出来たらいいのに。
往来の一角、カイドに手を引かれて店に入りながら。
リシアはふと、そう思った。
結婚する前もしてからも。こうしてリシアを気にかけ、なにくれとなく世話を焼いてくれるカイドに、なにか──なにか感謝を示したい。言葉だけではなく。強く、そう思った。
けれど、関係の浅いせいで、リシアにはカイドがなにを好きでなにを喜ぶかが分からない。
それなら。
(聞いても、いいのかしら)
店員に誘導された奥の席、ふたりがけの丸いテーブルについたリシアは、向かいで上着を脱いでいるカイドを見上げた。と、黒曜石色の瞳とかちあい、やさしく言われる。
「ここなら帽子がなくても大丈夫ですよ」
「え、えっと……はい」
頷き、リシアは顎下で結んでいた絹のリボンをほどきにかかる。
彼と目があった瞬間から、なぜか鼓動が早くなっていた。
落ち着きたくて、視線を逸らす。
結婚式の日。これからは好きにしていいと、自分の気持ちを言っていいと、そう言ってもらえたのは嬉しかった。変わっていこうと思った。でも──。
──人形は人形らしく。
自分でも知らないうち、無碍に、残酷に、宰相たちにかけられた言葉がまだ、リシアの喉をきつくきつく締め上げていた。ここはもうモンシェルリエテではないはずなのに。
「好きなのを頼んでいいですよ」
勇気を出さなければ。
思い惑ううち、タイミングを逃してしまう。
リシアは「どうぞ」と渡された、葉緑色の小洒落たカードのようなメニューを読みながらも、よく分からなくて、一つ一つ説明してもらう。それでもどんな味かうまくイメージできなくて、結局、注文はカイドに任せてしまった。カイドは面倒がる様子もなく、店員に果汁水を二つ頼む。
店員が去った後。情けなさに、リシアは「すみません」と縮こまった。
向かいのカイドは、心底不思議そうにきょとんとした。
「なにがですか?」
「…………その、全部、お任せしてしまって」
店選びも、食べる物すら……。
俯き加減のリシアに、しかしカイドは「そんなの」と穏やかに眉を寄せる。
「まだリシアはなにも知らないんですから、当たり前ですよ」
──〝まだ〟
未来を示唆する言葉に、リシアはそっと希望を抱く。カイドが続けた。
「私も協力しますから、ゆっくり慣れていきましょう」
「……はい」
思わず綻ぶ。まただ。またやさしい兄のように、そう言われて。リシアは肩の力を抜く。
同時に、先ほどよりも強く、やっぱりなにか、彼に報いたいと思ってしまった。
なにが出来るだろう。
行動も制限されて、最低限の知識しか与えられなかった自分なんかに、なにが。
こんなにも素敵な人に。
と、リシアはアーノルドが冗談のように口にしていた彼の呼び名を思い出して、言った。
「……そう、言えば」
「はい?」
「カイドは、お強いのですよね。軍神と呼ばれているのだとか。アーノルド陛下が教えてくださいました。とっても鼻が高そうでしたよ」
「…………そうですか」
軍神なんて呼び名。従軍する身としては、栄誉な称号なのだろうと思っていたのに。しかしカイドは──珍しくあからさまに、嫌そうに顔をしかめた。
まずい話題だったのだろうかと、リシアはひやりとする。
「ごめんなさい。呼ばれるの好きじゃなかったですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが。……こそばゆいというか、受け止めきれないというか……特に陛下のそれは、ほとんどからかい半分ですから」
言って、気を取り直すように表情を改められる。
「私は、十の頃から戦場に立っていますから。その分、武功が多くて──だから皆そう呼んでくれているだけですよ」
「十……?」
今のリシアより、三つも下だ。
そんな頃から彼は銃弾と剣戟の中にいたのかと、驚き声を上げたリシアに、カイドは苦笑する。
「陛下が帝国をまとめあげる前は、それこそ小国の小競り合いが凄まじくて。この辺りの戦場では、子供でも戦っているのなんて珍しくもなかったんですよ」
「そんな……」
歴史の勉強で領土戦争や継承戦争のあらましを学びはしたけれど──。現実では、そんな小さな子供まで駆り出されていたなんて、知らなかった。
リシアはきゅっと唇を噛み締める。
怖くない、はずがない。
けれど、対峙するカイドはしかし、なんてことないように続ける。きっと、雰囲気を軽くしようとしてくれていた。
「気候が良くて広い土地は、その分欲しがる人が多い。自然、争いの種になります。何千年も前から繰り返されてきた私たち人間の本能、縄張り争いですね。──だから、それは今更、仕方のないことなんでしょう」
言われて、リシアは納得する。
戦い続きの土地。それは、モンシェルリエテだって同じだった。長い歴史の中で国土を奪い奪われ、だんだんと消耗し、とうとう滅亡してしまったけれど。
透明の果樹水が二つ運ばれて来て、喉を潤したあと、リシアは言った。
「でも、陛下はほんとうにカイドに感謝していましたよ。今も帝国を維持出来ているのは、あなたがいるからだって」
カイドは「うーん」と迷うように、照れ臭いのを隠すみたいに微笑む。
「……だと、いいんですが」
その顔は、いつもの生真面目なそれではなくて、リシアは胸が締め付けられたように嬉しくなる。少しだけ、かわいいなんて思ってしまった。もっと知りたい。会話を続けたくて、言った。
「でも、従軍が十歳からなら色んなことを──……」
言いかけて、あれ? と思った。
フィリツアが立国を宣言したのは、今から七年前だ。その頃にアーノルドと知り合ったというのなら。カイドは、今。
リシアは混乱して尋ねる。
「カイドっておいくつですか?」
「? 来月で十八ですが。そう言えば、お伝えしていませんでしたね」
すみません、と穏やかに謝られる。リシアは、目を瞬かせることしか出来なかった。