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「投降を」
声は、ひどく静かに場に響いた。
一面に敷き詰められた、深い臙脂の床の上。
座りこんだリシアは、向けられたつるぎの切先があごに触れるのも構わず、眼前に立ち塞がる敵国の将を見上げ続けた。
漆黒の髪に同じ色の瞳──およそ軍人とは思えぬ白い肌と整った面立ちをしたその男は、纏う黒い軍服とも相まって、まるで死神のようだった。
「貴国軍は全軍、白旗を挙げました。あなたに勝機はありません。……どうかこのまま、ご投降を」
なにも言わないリシアに、わずかに戸惑ったそぶりを見せ、けれど死神は決然と告げた。
──退路は絶たれ。護衛の騎士も、あんなにいたはずの家臣たちも、リシアを置いて我先にと逃げだしてしまっていた。
落胆はしなかった。所詮、王族なんて飾りにすぎなかったのだと、どこか他人事のように確信しただけだった。
王城の最深部。血族にのみ伝承されてきたこの隠し部屋も、今や無残に暴かれリシアに残された道はふたつだけとなっている。
すなわち死神の勧める投降か、誇り高き死か。
物知らずのリシアでも、後者の方が楽だなんてことはわかっていた。痛いだろうけれど一瞬で済む。
でも。
リシアは、自身のきんいろの瞳を迷うように揺らめかせた。
──姫さま!
先に逃した騎士見習いの少年と、心やさしい侍女の姿を思い浮かべる。
──薄汚い妾の子。
愛妾の胎から、その命と引き換えに生まれたリシアは、正妃からは当然、実父である王からも疎まれ、ないがしろにされて生きてきた。形だけの姫だった。与えられる物は姉妹姫からのお下がりで、食事も最低限。公務でも話かけられることはなく、家臣たちすら軽んじる始末で。
そのくせ。自分たちが仕掛けた戦争で追い詰められ、残る王族がリシアひとりとなるやいなや、家臣らは、手のひらを返したようにリシアを祀りあげてきた。この地を治める正当な後継者は、もはやあなたただひとりだと言って。
勝手すぎる。
孤独だった生活の中、リシアの拠り所は同い年の騎士見習いの少年と心やさしい侍女のふたりだけだった。だからリシアに、王族としての誇りなんて物はない。でも、大切なふたりにだけは、どうしても生き延びてほしかった。だから、そのためには──。
リシアは心を決めて、目の前の死神を見据えた。
両親も、兄弟たちも殺されてしまった今、リシアはこの国に残された最後の王族だ。
そしてだからこそ、出来ることがある。
「これ以上」
リシアの発した、細く凛とした声に、死神は耳を傾けた。
若さで侮られないよう、リシアは、せめてと背筋を伸ばす。
「民に刃を向けないとお約束くださるなら、わたしはあなたに従います」
王族の役目など知らない。
民を守りたいなんて思ったこともない。
ただひたすらに、大切なふたりのことだけを考えていた。
果たして、対峙した死神は──リシアの答えに、そうとはわからぬほどかすかに肩の力を抜いた。
リシアに差し向けていた剣をゆっくりとおろし、静かに口を開く。
「約束いたしましょう。貴国の捕虜も民も、抵抗しなければ決して傷つけません」
厳かに誓った死神は、リシアの前に片膝をついた。
(……きれい)
黒曜石のように澄んだ瞳が同じ高さになって、リシアを覗きこんでくる。──思っていたより、若い。まだ少しだけ少年ぽさを残した死神は、神殿に並ぶ彫刻のような、うつくしい顔立ちをしていた。
そのきれいな顔をした死神の口から、冷淡な声がこぼれでる。
「我が国へお連れいたします。リシア殿下──無礼をお許しください」
言った死神はリシアに両の手首を差しださせると、周囲にいた部下のひとりから受け取った紐で緩く縛り、首にもその残りを輪のように結んで拘束した。
まるで、処刑場に突き出される罪人のようだった。
「……痛くはありませんか」
問われ、リシアは首を横に振った。結び目は硬いけれど、肌に食い込むほどではない。リシアが無理に外そうとしないかぎりは、痕すら残らないだろう。
リシアは、依然無表情の死神を見つめた。その視線を受け、死神は少しだけ眉を動かす。
「ご不快でしょうが、我が国へ着くまではご辛抱ください」
リシアは頷いた。
「……わかりました」
*
大人しく従うリシアに、死神は────カイドは、小さく嘆息した。とは言っても、表情に乏しい彼の機微に気づいた者は場に皆無だったが。
立ち上がらせた敵国の姫は、齢十三。
「……」
背に流れる絹糸のような銀髪に、憂いを帯びた金色の瞳。幼いながらも整った顔の、小さな紅い唇は、なにかを堪えるように引き結ばれていた。
(まいったな)
カイドは内心、困惑していた。
敵国の王女が、こんなにも幼いなんて聞いていなかったからだ。
平静を装ってはいるが、本当は怖くて仕方がないのだろう。無理もない。自国の城は攻め落とされ、周囲には争いの後が色濃く残り、挙句こうして見知らぬ軍人たちに敵国へ連行されようとしているのだから。
少女の気を緩めてやりたいとは思っても、戦場しか知らないカイドはかける言葉をみつけられない。
さらには、この年端もいかぬ少女がこれから領土争いの交渉材料にされるのだと思うと自然気は滅入った。
──陛下は、この子をどうなさるおつもりなのだろう。
味方には寛容。けれど一度敵と見做した相手には冷酷無慈悲になれる、二面を併せ持つ主君を思い浮かべ、カイドは、憂鬱に眉を寄せた。
カイドの唯一の主君──皇帝アーノルドは、普段から突拍子もないことを言いだす暴君ではあったが。
まさかこの幼い姫君と婚姻を結べと言われるなどとは、この時のカイドは露ほどにも考えていなかった。