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別れた彼女の噛んだ跡

作者: 日暮 記

 目が覚めて鏡の前に立つと、別れた彼女の噛み跡が、はっきりと首元に残っていた。

 といっても、昨日今日でつけられたものであるはずはない。彼女と別れたのは、もう1ヶ月も前の話だ。


 きっかけは些細なことで、でもきっとずっとため込んでいたことなのだろう。二人の休日、私はいつものように彼女にコーヒーをやった。するとミルクと砂糖を入れるようせがまれ、そんなの自分でやりなよと断った。いつもならはいはいと席を立つのだが、今日は強情でやたらその仕事を強いてきた。結局押し負けた私は彼女のために立ち上がろうとしたのだが、その時聞こえた「いつもそう」が引っ掛かってしまった。私も虫の居所が悪かったのか、それについて問い詰めるようなことを言い――あとはお察しのとおりである。

 

 あれから月日がたち、そもそも少なかった彼女の物はすべて部屋から片付けた。ようやく、一人になってしまったなぁという鬱々とした気分から解放されようというときに、首元に違和感を覚えた。改めてよく見直しても、米粒ほどの皮膚の凹みが、喉仏から右側頸動脈までにわたり、円を描くように並んでいる。

 最初はなにが何だかわからなかったが、すぐにそれが別れた彼女のものだと認識できた。おそらく下の歯に当たる箇所、一つの歯形が少し規律を乱す位置にある。彼女は歯並びが特徴的で、下の歯が一つ手前に飛び出していたのを覚えていた。

 それに、消えない噛み跡の位置は、昔彼女が自宅に泊まった際に、実際につけたそれと一致していた。


 こんなもの、顔についた布団のカタのように、家を出るまでには消えるだろうと思っていた。しかしそれは一向に薄くなる兆候がなく、なおさら深くはっきり見えるようになっていた。食い込むような痛みがないのが不思議なくらいだ。仕方がないので首が隠れる服を選んで過ごすことにしたが、梅雨入り寸前という今の時期にこのような服装はいささか苦しいものがあった。暑い。いつもならこんな気温が一年中続けばよいと思うが、今日に限ってはもう少し涼しくあれと思わざるを得なかった。なぜこんな時期にタートルネックなど着なくてはならないのだ。せめて熱を逃がしやすいように、白いものをタンスの奥から引っ張り出した。


 今日は授業が2限からなので、電車も混まない時間に家を出る。授業に必要なものはルーズリーフとペンケース、ノートパソコンくらいなので、それほど多くない荷物をリュックに背負い、普段かかないような量の汗で駅へと向かった。

 首の噛み跡のせいか、ふと彼女のことを考えてしまう。以前なら同じ電車で学校へ通っていたのに、あの日からぱったり会わなくなってしまった。

 もしかして私の時間に合わせて、自分の生活リズムを変えていたのか。彼女は学部も違えば学年も違うので、同じ授業を受けるということはまずなかった。理解できたかもしれないのに、あまりにも遅すぎた。彼女がいたことを当たり前に考えていたことを思い知らされる。情けなくて、電車の中で座るのも申し訳なくなって、人もいない車内でドアの横に突っ立っていた。


 あれから大学構内で彼女とすれ違うことも、まずない。学部の校舎も離れていて、お互いが働きかけなければ学内で会うようなことはなかった。

 お互い――ほとんど彼女の方を動かしてしまっていたことに気づいた。学食は私の学部の校舎の近くで、そこで昼食をとろうと言ったのは私だった。放課後はいつも彼女が私を迎えに来てくれて、二人で同じ電車で帰った。

 幸せなようで、様々なことを押し付けてしまっていたことを、今になって気が付いた。


 授業の内容などほとんど頭に入らず、私はただ出席点を獲得する抜け殻となっていた。ぼぅっとしながら一日を終え、しかしなんだかまっすぐ帰る気にならず、気が付けば家からはだいぶ離れた公園へ足が向かっていた。

 バイトはしていたものの、私と彼女は当初あまりお金をかけない遊びをしていた。例えば、この公園で二人で散歩したり、街の高台で夕焼けを眺めたり、という具合に。初めて二人で歩いたころはまだ雪が残っていて、休める場所を探していたのに、どのベンチも濡れていてとても座れる状況じゃなかった。サークル飲みの帰り道のことだった。

 お互いに酒が回っていて、二人支えあうように歩いていた。ふと横顔を見たとき、きれいだと思った。口元は緩んでいて、「好きだ」と声が漏れていた。彼女は聞こえないふりをしていた。

 もう一度、今度は目を見て、「好きです」といった。寒さか、あるいは。彼女は顔を真っ赤にして、頷いた。


 かれこれ2回分季節を過ごしてきた。今晩は夕涼みにちょうどいい気温で、ようやく首元が苦しくなくなっていた。木は青々と葉を茂らせ、足元は常夜灯が道を照らしていた。

 歩きながら、始まりから最後まで、すべてを思い出してしまった。どの場面にも、明るい笑顔が移りこんでいて、その都度僕も笑っていた。

 結局、愛していたのだ。ただ、その形が伝わらなかったのだ。

 きっと、形のない愛なんて意味はない。ただの自己満足になっても仕方ない。

 それは一つの感謝だったり、思いやりだったり、優しさだったり。どれが正解かなんて今もわからないけど、少なくともあの頃の私にはそれがなかった。


 噛み跡のことを思い出す。こんな自分でも、独占欲の対象になれたことが、今になってうれしく思った。

 あの時はきっと、彼女のための私だった。彼女だけの私だった。

 でも私は、あなたは私のものだと、はっきり伝えたことがあったろうか。

 狂気じみているくらいの、精いっぱいの愛を、面と向かって伝えただろうか。

 あんなくだらない喧嘩で終わってしまったのが、本当に悔しい。もし、もう一度、もう一度会えるなら――。


 そう思って灯りにそって歩いていた。すると、道の先にいたのは――彼女だった。

 間違いない。背丈も、立ち方も、髪の長さも。あれから一度も会えてなかった、彼女の後姿だった。

 これは偶然なのか、それとも彼女の噛み跡が現れたことによって引き寄せられたのか。

 ぐっと気持ちが昂るのを感じる。様々な感情が胸から押し上げてきて、気を緩めればすべて吐き出してしまいそうなほどに。

 まだこちらには気づいていない様子だった。少し早足になれば追いつける速度で、少し前を歩いていた。

 今なら、もう一度話ができるかもしれない。ちゃんとあの日のことを謝りたい。もう一度、声が聴きたい。

 もう一度だけ、愛していると伝えたい。

 私は歩くスピードを速め、彼女に声を――

 ――かけなかった。


 背中合わせに、もと来た道を歩いていく。振り返れば目が合うような気がしながら、そうなりたくない一心で歩き続ける。

 また私は、自分勝手に彼女に迷惑をかけようというのか。

 自分がもう一度話がしたいから、彼女の生活を邪魔しようというのか。

 もう一度顔を見たかった。しかし、それ以上に彼女に見せる顔がなかった。

 声を聴きたかったが、どうせ何も話せずに終わるのがわかっていた。

 理性に相対する欲望を抑え込むように、足取りを早くしていった。

 頭がくらくらする。

 首元の違和感が大きくなったので触れてみると、どろりとした液体が確認できた。何色かは見えなかったが、鉄のようなにおいがした。噛み跡はさらに深く食い込み、ついに出血したらしい。

 もういっそ、このまま喉を掻っ切るように、深く、深く抉りだしてはくれないか。きっと、その方が楽になる。

 これからずっと、あなたを想うことも、会うことも無いように。



 家の玄関で目を覚ました。家に帰って鍵をかけたところまでは覚えている。出血が止まらなかったのと精神的な疲労のせいで、気を失ったようだ。

 ふらつきながら鏡の前に立つと、首にはもう何も残っていなかった。それどころか、昨日着ていた服には血の跡など一つもついていない。触れたはずの手を見ても、きれいなものであった。

 抱いたのは、安堵だった。これで本当に、彼女のものは何もない。物がないなら、思い出す回数も時期に減って、ようやく次に進めるだろうか。

 かさぶたの一つでもないかと確認してしまうのを腹立たしく思いながら、今日の授業のために身支度を進めるのだった。

付き合った人の記憶というものはそうそう消えてくれるものではなく、なんなら日を追うごとに鮮明になってきます。

それが幸せであればあるほど、まとわりつく呪いのように、離してくれません。

たとえそれで自分が傷つけられても、過去を懐かしんでいるうちは、それもよいものだな、などと考えてしまいます。愚かなものです。

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