南十字星(後編)
からだは朽ち果てても、きっと探し出す。運命の恋人!!!
迷わず会長室へ向かうと、入り口の秘書に入室を停められたが、それさえも振っ切って、会長室のドアを激しく押し開いた。
「やあ、無礼な訪問だね。星南さん。」
会長室には、会長は不在で、佐原が椅子に腰掛けていた。
「佐原さん、いったいこれはどういうことですか?約束が違うじゃありませんか」
星南は、佐原に詰め寄る。
「返してください。父から取り上げた株券を返してください。あなた、今井を助けるって言ったでしょう?早く返して。」
佐原は、「くくくっ。」と笑った。
「面白いことを言いますね。私が、今井を助けると言っただって。はははははっ。」
佐原は、腹を抱えて笑い出した。
「佐原さん!」
「いやーすみません。あまりにも星南さんの冗談が面白かったので。」
佐原は、「ひい、ひい」と笑い転げた。
「佐原さん!いい加減にしてください。」
「すみません、すみません。私がいつ今井を助けると言いましたか?」
次の瞬間には、佐原の表情は打って変わって険しいものになっていた。
「酷いじゃありませんか。父まで騙すなんて。約束が違います。今すぐ、父が預けた株券を返してください。」
星南は、ぐっと右手を佐原に差し出した。
「星南さん、確かに私は今井の会社を助けるとは言いましたが、今井を助けるとは一言も言っていませんよ。あなたのお父上にしてもそうです。会長との間を取り持つとは言いましたが、お父上を助けるとは、一言も言っていやしません。何かの勘違いでしょう。」
「そんな……。始めから騙していたんですね。こうなることが分かっていて、私たちを騙したんですね!」
星南は、差し出していた右手を振り上げた。
「おっと。」
佐原は、星南の右手首を掴むと、力を入れた。
「い、痛い。」
そして、そのまま星南の体に密着した。
「返さないと言うのなら、私の手元にある船岡会長の株券を売り払います。」
星南は、苦痛に顔を歪めながら、佐原の目を睨み付けた。
「どうぞ。所詮は、ただの紙切れ同然ですから。」
佐原は、眉一つ動かさずに答えた。
「脅しじゃありません。本気です。」
「だから、どうぞご自由に。その前にその株券をよくご覧なさい。それは、うちの孫会社の船岡コーポレートの株券ですよ。あそこは、今日の役員会で廃業が決まりました。もう、ただの紙切れですよ。」
星南は、肩から掛けていたバッグから株券を取り出すと、もう一度確認した。
「ああっ……。」
「納得していただけましたか?」
星南は、株券を持つ左手で、佐原の右頬を打った。
「気の強いお嬢さんだ。しかし、もう全て後の祭りですよ。観念しなさい。」
「どうして?あなたと今井は親友のはずでしょう。どうして、こんなことが出来るんですか?」
佐原は、もう一度「くくくっ。」と笑った。
「親友?私たちがですか?はははははっ。可笑しなことを言いますね。私は今井のことを一度でも親友だと思ったことはありませんよ。」
そう言うと、星南を会長の広い机に押し倒した。
「ねえ、星南さん。命懸けで愛した女性に振り向いてもらえない辛さって分かりますか?ましてやその女性に、一生振り向いてはもらえない苦痛が、あなたには分かりますか?」
佐原の目は、憎悪で溢れていた。
「雪さんは、今井のことが本当に好きだったんです。それなのに、今井はあなたを選んだ。なんのメリットもない、あなたを。」
ずっと掴まれていた右手首の感覚はもうない。佐原は、星南の左手首も掴み、頭の上で固定し、星南の自由を奪った。
「ゆ、雪さんって、誰なんですか?」
佐原の近付いてくる顔に、自分の顔を背けながら星南は尋ねた。
「会長のたった一人のお孫さんですよ。そして、私にとっては、唯一心から愛した女性です。彼女は、今井を愛していた。今井と結婚することだけが望みだったんだ。それなのに、あいつはあなたを選んだ。」
「……。」
凄い力で締め上げられて、苦痛で顔が歪む。
「雪さんの何処があんたより劣ると言うんだ!雪さんは、ショックのあまりあの日、あんたたちの結婚式の日に、手首を切って自殺を謀った。幸い命は取り留めたが、雪さんは自分の心を閉ざしてしまったんだ。」
「い、痛い。」
「痛いもんか。体の痛みなんか。雪さんの味わった苦しみを思えば、あんたの苦痛など。」
佐原は、もっと力を入れた。
「あんたや今井にも同じ、いやそれ以上の苦しみを味あわせてやりたい。あんたをどうやって甚振ったら、今井をとことん苦しめることが出来るだろうか。」
星南は、殺されるかもしれないという恐怖を感じた。
「ふふふっ。」
佐原は、不敵な笑いを浮かべると、今度は高らかに笑った。
「ははっはははっ。殺しやしないよ。じわじわとあんたを甚振ってやる。その方が、今井のダメージも大きいはずだから。」
佐原は、自分から背けられている星南の顎を持ち、向きを変えた。
そして、星南の唇に自分の唇を荒々しく押し当てた。
「んんんんんっ。」
抵抗するが、身動きが取れない。佐原は、その様子を楽しそうに覗うと、星南の左手を自分の口に近付けた。
「ふふふふっ。」
声とも呼吸とも聞き分けられない微かな息を漏らすと、星南の瞳をじっと凝視したまま、星南の左手小指をガリッと噛んだ。
「いっ!」
体に激痛が走る。佐原の口からつーっと一筋の血が滴り落ち、開放された左手小指は、真っ赤に染まっていた。
そして、佐原は口から何かを吐き出した。
「あんたの小指の先を噛み切った。その指には、もう爪も生えやしないよ。あんたと今井は、その指を見る度に雪さんの苦しみを思い出すんだ。自分たちのしてきた罪を思い知るがいい。」
「く、狂ってる。あんたは狂ってるわ。」
星南は、小指から流れ出る血で自分の顔や机が汚れていくのが分かった。
「ああ、狂っているさ。俺は、今日までお前等に復讐することだけを考えて生きてきたんだ。それだけが、俺の生きる支えだったんだからな。お前等に至上の苦しみを与えられるなら、俺は、地獄へでも喜んで堕ちてやるさ。」
そう言うと、佐原は、星南の首筋に唇を吸いつけ、星南のスカートの中へ左手を忍ばせた。
「や、やめて。」
「……。」
「いやーっ!」
まるで星南の悲鳴を活力にしたかのように、佐原は荒々しく星南の下着を剥ぎ取った。
「初めてだったとはな。」
会長室の隅で、ぼろぼろに破かれた洋服で体を隠しながら、星南は震えていた。
「今井は、あんたに手を出さなかったのか?ははっははっ、これは滑稽だ。あんたが今井を嫌っているとは聞いていたが、今井の奴、よほどあんたのことが大事と見える。そこまで大切にしていたとは。」
星南の太腿を薄っすらと血がつたう。
「ははっはははっ。」
高笑いを続ける佐原を尻目に、星南はバッグを掴むと会長室から走り出た。
ただ、一目散にビルの外へ飛び出し、たまたま居合わせたタクシーに飛び乗った。
タクシーが動き始めて、やっと星南の目から涙が零れ落ち、声を上げずに泣くことが出来た。
家に着くと、星南は急いで風呂場に駆け込み、シャワーを目一杯強くして頭から浴びた。何度も何度も強く体にお湯をかけても、いくら体の隅々まで強く、強くこすってみても、ただ、皮膚が赤くなるだけで、佐原の手の感触が消えることはなかった。星南は、出来ることなら全身の皮膚を取り替えてしまいたいとさえ思っていた。
風呂場から出て、着ていたぼろ布と化した洋服をキッチンのゴミ箱の奥に突っ込むと、また、涙が溢れてきて、自分の穢れた体が許せず、もう一度風呂場に逆戻りしようとした時、自分の名前を呼ぶ聖司の声を耳が認識するのを感じた。
「星南?ここに居たの。ああ、シャワーを浴びてたんだね。」
聖司は、バスタオル姿の星南を見つけて、ホッとしたように微笑んだ。
「玄関の鍵が開いたままになっていたから、何かあったのかと心配したよ。」
聖司の顔をまともに見ることが出来ない。
「すみません。着替えたら、直ぐに、食事の用意をしますから。」
星南がそう言って、自分の部屋に行こうとすると
「ちょっと待って。」
聖司が呼び止めた。
「血が出ている。」
聖司は、星南の顎に手をやり、唇が切れて血が滲んでいるのを見つけた。それは、佐原との行為の間、ぐっと唇を噛み締めていたせいだろう。
「あっ、大丈夫よ。ちょっと切れたみたい。」
それだけ答えると、そそくさと自分の部屋へ行こうと足を動かした。
「星南、ちょっと待って。」
聖司は、ぐるぐる巻かれていた左手のタオルの一部に血が滲んでいるのを見つけた。
「あなた、止めてください。何でもありませんから。」
聖司は、星南の左腕を掴んで、ぐるぐる巻きのタオルを外した。
「これは……。」
星南は、顔を背ける。
「星南、病院行こう。」
聖司は、星南の左手にもう一度タオルを巻くと、車の鍵を手に取った。
「あなた、大丈夫ですから。」
「早く着替えてきて。」
「あなた、大丈夫ですから。私は大丈夫ですから。」
星南は、聖司の腕にしがみついた。
「でも!」
「本当に大丈夫ですから。病院は行かなくても大丈夫ですから。お願い。お願い。」
星南の背中が小刻みに震えているのが分かる。聖司は、そっとテーブルの上に車の鍵を置いた。
「ちゃんと見せて。」
聖司は、星南をダイニングの椅子に座らせると、もう一度左手のタオルを外し、ぽたぽたと落ちる血を拭いながら傷口を確認した。
「これは、酷い。星南、何があった?」
「……。」
顔を背けるだけである。
「僕を見て、ちゃんと答えて。一体、何があったんだ?正直に言って。」
「……。」
星南は、黙ったまま唇を噛み締めた。
「分かった。答えてくれないのなら、医者を呼んで聞くことにするよ。」
聖司は、椅子から立ち上がると携帯を取り出し、電話を掛けようとした。
「あなた、分かりました。言います。言いますから、電話は止めてください。」
星南は、聖司にとりすがった。聖司は、再び星南を椅子に座らせると、もう一度ゆっくり尋ねた。
「今日、一体、何があったんだ。」
「……あなた、最後まで私の話を聞いていただけますか?」
聖司は、こくりと頷いた。
「一昨日、あなたがお仕事に出掛けてから、佐原さんが訪ねて来られました。」
「佐原が?」
「はい。船岡会長が、あのパーティの夜のことを不快に思われていて、あなたとあなたの会社を締め出そうとしているって、教えてくれました。」
「佐原が、ここへ。」
星南は頷いた。
そして、この三日間の一部始終をつぶさに聖司に打ち明けた。
「くそーっ!」
聖司は、話を全て聞き終わると、テーブルの上を撫で散らかし、車の鍵や携帯電話がそこら辺に散乱した。
「あなた……。」
始めて見る聖司の激しい怒りに、星南はまた、身を震わせていた。
「ごめん、星南。君が一番辛いのに。ごめん。」
聖司は、星南の怯えた様子に気が付き、星南を椅子に座らせたまま、そっと抱き締めた。星南の息遣いが、聖司の胸の下辺りで感じられる。聖司は、抱き締めた腕に力を込め、ぐっと抱き寄せた。
「大丈夫だよ。もう心配ない。僕が付いている。僕が守るから。ごめんよ、星南。守ってあげられなくてごめん。もう大丈夫だよ。もう大丈夫だから。」
何度も何度も同じ言葉を繰り返した。星南は、頭の上で囁かれる聖司の言葉と耳元で響く聖司の鼓動にだけ耳を傾けているうちに、声を殺して泣いていた自分が、いつしか大声で泣きじゃくっているのが分かった。
星南は、ひとしきり泣いたら全身にずっしりとした疲労を感じた。
「痛む?」
聖司は、星南が泣き止むのを待って、左手小指の怪我の治療を始めた。
「病院に行くことをあんなに拒んだのは、ことを大きくしたくなかったからなんだろう?」
聖司は、黙々と包帯を替えている。
星南は、こくりと頷いた。
「星南、僕たちは本当の夫婦になろう。僕たちは、ずっと遠回りをしてきたんだ。本当はこんなにも相手を思い遣っているのに。……なんてばかなんだ。」
星南の両手をぐっと握り締めながら、聖司は瞳に力を込めた。星南は、もう一度こくりと深く頷いた。
聖司は、治療を終えると、星南を腕に抱きかかえ寝室へと歩き出した。
ベッドにそっと星南を横たえると、自分も着ていたものを脱ぎ、そっと寄り添った。
「星南、今日までのことは全部忘れよう。今夜から僕たちは夫婦になるんだ。僕が君のなくした全てになる。僕が君の悲しみも全て洗い流すから。」
星南の目から涙が零れ落ち、こめかみを温かくつたった。
「もっと早くこうするべきだったんだ。君の全てを受け入れる覚悟は出来ているのに、僕は意気地なしだった。」
「あなた……。」
星南は、柔らかいサラサラの聖司の髪を撫でながら、自分へと一心に向けられる聖司の温かい瞳に吸い込まれるように目を閉じた。
そして、二人はそのまま本当の夫婦になった。佐原から受けた暴力で、体のそこここに痛みを感じた。聖司が、星南の体の中で小刻みに動く度に、傷口が疼く。
しかし、それ以上に愛で満たされていく幸せを感じて、星南は聖司を深く、深く受け入れるのだった。
ふと目が覚めた。聖司は、暗闇の中で自分の横で眠っているであろう星南の身体を手探りした。
いない。聖司は慌てて飛び起きた。
そして、部屋の明かりを点ける。
「星南?」
星南が眠っていた自分の隣には、微かな温もりが残っているだけである。聖司の頭の中を悪い予感がよぎった。
「星南……まさか。」
聖司は近くに脱ぎ捨ててあった服を着ると、階下に降り、撫で散らかした車のキーを手に取って家を走り出た。
その頃、星南は、船岡の本社ビルの屋上にいた。風が強い。このまま風に身を任せていれば、何処か遠くへ連れて行ってくれそうな気がした。星南の長い髪もワンピースの裾も風で巻き上がる。下界に広がる美しいネオンを見つめながら、どうやってここに来たのかさえ記憶にない自分が、今から全てを精算しようとしていることだけは自覚していた。このまま風に全てを任せて、一瞬だけ足を地面から離したら自由になれる。このまま風にさらってもらえばいい。星南は、ただそれだけを思っていた。
「星南!」
愛しいその声に後ろを振り向くと、聖司が立っていた。
「あなた、何故ここへ?」
聖司は、星南に近付きながら
「君の行き先くらい検討がつくよ。何をしようとしているんだ。僕たちは本当の夫婦になった。そうだろう?なのに何故、僕を置いて逝こうとするんだ。」
今まで見たことのない切ない表情を浮かべていた。
「あなた、私の身体は佐原に汚されてしまいました。その現実は変わりません。あなたが私を愛してくれる度に、私はこの日を思い出し、自分を責め、あなたの愛情を受ける資格のない自分を汚らわしく思い知らされるのです。忘れることなど出来ません。」
「星南、何もなかったんだ、始めから。君が自分を責める必要もない。僕の傍に戻って来て。」
星南は、首を横に振った。
「星南!」
「愛しています、あなた。私はいい奥さんじゃなかった。あなたの私への想いに気づくどころか変な意地やわだかまりに囚われて大事な時間を無駄に費やして来ました。誰かを愛するということは、自分が無償の愛を捧げるということ。そんな簡単なことさえ気づかない子ども染みた私を許してください。あなたを愛すれば愛するほど、あなたを裏切って穢れてしまった自分が許せなくなるのです。どうかこのまま私を自由にしてください。」
そう言うと、星南は、後ろ向きに風に身を任せた。
「星南!」
聖司も迷わず飛んだ。
そして、空中で星南を抱き留めた。
「あなた……何故……。」
「君は僕の運命の恋人。前世でもそのまた前世でも、ずっと前からただ一人の僕の運命の恋人。」
「あっ……。」
星南の頭の中で遠い昔へと記憶が逆戻りして行く。
「私たち、来世ではきっと一緒になろうって誓って、何度も何度も誓って生まれ変わって来たのね。」
聖司は頷いた。
「君は僕のただ一人の運命の人。だから、何があっても放しはしない。僕たちは、そう誓い合って来たんだ。何度も、何度もね。」
そう言った瞬間、聖司の背中から羽根が生えて、落ちていく二人の身体を包み込んだ。
「星南。次の世界でもきっと君を捜しだすから。今度こそ幸せになろう。必ず生まれ変わってきて、今度こそやり直そう。」
筋となって流れる涙は、いつか雨となって二人の屍に降り注ぐだろう。星南は、来世こそは、聖司の魂を覚えたまま生まれ変わろうと思った。
そして先に自分が見つけようと思った。
「愛しています。次の世界でもきっと、あなたを見つけます。」
「愛しているよ。僕もきっと君を捜しだすよ。」
二人はキスをしたまま冷たい下界へと堕ちて行った。
ドスーーーーン!
「誰かビルから落ちたぞ。」
ねえ、あなた、忘れないわ。あなたのこと、今度こそ覚えているから。