南十字星(中編)
その日も朝方に帰宅し、二時間程度の仮眠を取り、聖司は直ぐに仕事に出掛けた。
「あなた、会社が大変なんですか?」
日増しに疲れを見せる聖司の顔を覗き込みながら、星南は心配で溜まらなかった。
「君は何も心配しなくてもいいから。会社は大丈夫だ。心配ないよ。」
いつものように笑顔を見せるものの会社が大変なことになっていることは、星南にも一目で察しが付いた。
聖司を送り出した後、不安で居ても立ってもいられない星南を、佐原が訪ねてきた。
「佐原さん。」
「今井は?会社ですか?」
「はい。今朝方、一旦帰って来ましたが、直ぐに出掛けて行きました。」
「そうですか。」
佐原は応接室のソファに腰を下ろしながら答えた。
「あのぅ、今井は何も言いませんが、会社の方、大変なんでしょうか?」
星南は、佐原にコーヒーを出しながら尋ねた。
「今井から何も聞いていませんか?」
「はい。」
星南は、佐原の前に腰掛けると頷いた。
「あのパーティの夜のことは覚えていますよね。」
「はい。」
佐原は、口ごもりながら続けた。
「……今井の会社が、うちの販売システムを一手に引き受けていることや機器類の納品など全てを請け負っていることはご存知ですか?」
「いいえ。今井は、仕事の話をしませんし、私も聞いたこともありませんから。」
星南は小声で答えた。
「そうですか。……あの夜のことで会長は酷くご立腹で、突然、会社のシステムを全てやりかえると言い出しまして。」
「そんな……。」
「今井にとって、うちの会社が一番の大口ですし、うちが今井の会社と取引を止めると言い出したら、追随する企業も出てくるでしょう。そうなれば、いくら今井がやり手でも、もうあいつの力ではどうすることも出来なくなります。あいつはこうなることを覚悟の上で、あの夜、あそこまで会長に向かって行ったんでしょうが、その代償は大き過ぎました。」
「……。」
星南は、両手で口を押さえ、声にならない声を塞いだ。
「……どうしたら。……佐原さん、どうしたらいいでしょうか?元はと言えば、私の父のせいです。私、父がそこまで今井に迷惑を掛けていたなんて知らずに……。」
星南は、聖司のことで自分がここまで狼狽するとは思っていなかった。
「今井が、自分の人生を掛けて気づき上げた会社を、私や父のせいで潰してしまうことは出来ません。お願いします、佐原さん。私はどうしたらいいでしょうか?どうしたら、今井の会社を助けることが出来るでしょうか?」
星南は、佐原の手を無意識に取っていた。
「酷なようですが、会長の意思は固く、私ではどうすることも出来ません。」
「何でもします。私に出来ることなら何でもします。今井の会社を立て直すためなら、父の会社を犠牲にしても構いません。元々、とっくに無くなっていたはずのものです。今井が救ってくれなければ。佐原さん、私に力を貸していただけませんか?お願いです。お願いします。」
星南は、佐原に懇願していた。自分の何処にこれ程の情熱が残っていたのだろうか。聖司の会社を救うためなら、何でも出来るとさえ思えていた。
佐原は、星南の手をそっと払うと、ゆっくりと答えた。
「星南さん、会長は今、激高されていて、怒りの感情にのみ振り回されています。しかし、会長もあそこまでの立場になられた方ですから、時間が経てば、お考えも落ち着くでしょう。その時を待ちませんか?今はどう足掻いても逆効果ですよ。」
佐原に諭され、星南は頷いた。
「心配要りませんよ。会長は、ああは言っていても、今井の能力は高く評価しています。悪いようにはしませんから。」
「……はい。」
佐原が帰った後、星南は、後悔と自責の念に駆られていた。聖司の自分に対する気持ちの不明さばかりに囚われて、どれだけの時間を無駄にして来たことだろう。聖司に対する子供染みた露骨な対応にさえ、寛容な懐で包みこんでくれていた。度重なる父、寺田の不祥事の後始末を何も言わずに全て抱え込んで、今度は全てを賭けようとさえしている。星南は、聖司が帰って来たら素直に接してみようと思った。もう自分の感情やわだかまりなど、どうでもよかった。
その時、家の電話が鳴り、星南はびくっとした。
「もしもし。」
電話の相手は佐原であった。
「佐原さん、先程は。」
「星南さん、あなた、お父上の会社を犠牲にしても今井の会社を守りたいとおっしゃいましたが、その気持ちに偽りはありませんか?」
佐原は、挨拶もそこそこに話し始めた。声の様子でも切羽詰っているのが分かる。
「はい。それが、何か?」
星南は、佐原の次の句が恐ろしかった。
「会長にあなたの気持ちを伝えましたら、そこまでの覚悟を持っているあなたの心に深く感銘を受けられまして、是非、一度会ってゆっくりと話しがしたいとおっしゃっておられます。会長とお会いになりますか?」
あれほどまでに自分のことを嫌っていた船岡が会いたいと言っている。星南は、二つ返事で答えた。
「はい。お願いします。何処にでも参りますから。」
「では、今からどうですか?ご多忙な会長ですから、ほんの数分しかお時間は取れませんが、こういうことは早いほうがいいと思いますよ。」
「はい、大丈夫です。直ぐに出ます。」
「では、本社の会長室にてお待ちしていますので、お越しください。」
佐原からの電話を切って、星南は急いで支度をし、タクシーを呼び、飛び乗った。
「奥さん?」
その慌てた様子を聖司の会社の部下がたまたま見かけたが、声を掛ける間もなく星南はタクシーに吸い込まれていた。
会長室に着くと、大きなソファに船岡と佐原が腰掛けて、大画面のテレビでゴルフの録画を楽しんでいるところだった。
「星南さん、よくいらっしゃいました。」
佐原は、ソファから立ち上がると、星南を船岡の前に進めた。
「会長、先日は、大変失礼をいたしました。」
緊張でどうにかなりそうな星南に
「やあ、今井くんの奥さん。堅苦しい挨拶は抜きで、まあ座りなさい。」
船岡は、にこやかに応対した。
そして、星南が腰掛けるのを見届けると、フレンドリーに話し始めた。
「佐原から聞いたけれども、あなたは若い女性にしては珍しく、大した心意気を持っているようだね。」
「いえ、あの。」
「そうです、会長。星南さんは、女性の鑑ですよ。夫のために、あそこまで決断出来る方はそうそういませんよ。」
船岡と佐原は頷きあいながら、にやにやと笑っている。
「あのぅ……。」
「奥さん、あなたは本当に今井くんの会社を助けたいと思っているのかね。」
船岡の表情が、急に険しくなった。
「はい、思っています。」
「星南さん、会長は、懐の深い方です。あの程度のことで今井をどうこうしようとは思われていません。」
「じゃあ。」
星南の頬は一辺に高揚した。
「しかし、あれだけ盛大な記念パーティの席上で、大勢のお客様方の前で、今井から侮辱を受けたことに間違いはありません。これは、会長のご意思ではなく、我が社としてのけじめです。そこをご理解いただけますか。」
「はい。でも、あの、そこをなんとか会長さんのお力で、今井を助けてはいただけませんか?」
佐原は、ちらりと船岡の方を見た。船岡は、黙って腕組みをし、目を閉じて動かない。
「では、あなたが我が社の株主の一人になるというのはどうでしょうか?株主になって、発言権を得れば、あなたが今井の会社を助けることが出来る。いかがですか?」
「株券だなんて、私、自由になるお金はありませんし。」
「父上の会社の株をお持ちでしょう。あなたの持っている父上の会社の株券と会長の持っている我が社の株券を同額で交換しませんか?」
「父の会社の……。」
佐原の口から思いがけない言葉が飛び出し、星南は追い込まれていく。
「そうです。母上が亡くなられる際、母上の持分を譲り受けられたでしょう。」
「それでは、会社の格が違い過ぎます。」
「そんなこと、私は拘りませんよ。」
船岡が始めて口を開いた。
「星南さん、今井の会社を助けたいのでしょう。方法は、それしかありません。会長は、あなたの気持ちに応えたいとおしゃっておいでなんですよ。」
星南に深く考える余裕はなかった。
「……分かりました。お願いします。」
ただ、今はこれ以上船岡の機嫌を損ねた上、唯一の味方である佐原の立場を悪くしては、元も子もなくなるとしか考えられなかった。
「では、明後日この時間にここで、もう一度お待ちしています。名義の書き換えなどは心配いりませんよ。全て、うちの方で責任を持って行いますから。」
「……はい……。」
佐原は、星南の肩をポンと叩くと
「これで今井の会社は助かります。あなたのおかげですよ。」
と言って、微笑んだ。
帰り道、突然降り出した雨をタクシーの中から見つめながら、星南は、何故か無性に胸騒ぎを覚えていた。全て順調のはずなのに、何かが引っかかっているのだ。その正体が分からないまま、佐原の最後の微笑が忘れられなかった。
家に着くと、聖司が既に帰宅しており、星南は焦った。
「出掛けていたの?」
普段と変わりない聖司の様子にホッとしながらも、何処か後ろめたい気持ちに襲われていた。
「ええ。大学時代の友人とちょっと。」
「そう。社の者が、君が慌てて出掛けて行くのを見たと言うものだから、気になってね。そういうことなら安心したよ。たまには、君も外でゆっくりして来るといいよ。僕が忙しくて構ってあげられないから、君は家の中に閉じこもっているからね。」
聖司は、グラスに冷たい麦茶を注いで、星南に差し出した。
「あ、ありがとう。」
聖司は、自分の分を飲み干す。
「あっ、あなた。今日は帰りが早いんですね。」
「ああ。明後日は臨時の役員会だから、今からバタバタしても始まらないしね。」
聖司は、そう言いながら、リビングのソファにどっかりと腰を下ろして、テレビのリモコンのスイッチを入れた。
「夕飯の支度をしますね。」
星南は、心臓がドキドキと音を立てて波打つのが分かる。それは、聖司を初めて異性として意識し始めたせいなのだろうか。それとも、聖司に内緒で船岡たちに会って来たことへの罪悪感なのだろうか。とりあえず、その場からは早く逃げ出したかった。
夕食の後、お風呂に入る聖司を追って、星南は脱衣所に入った。
「あなた、バスタオルを置くのを忘れていました。」
そう言ってバスタオルを差し出した星南の目に、上半身裸の聖司の背中が飛び込んできた。
「あっ。」
小さな声が漏れた。
「ありがとう。ああ、これ?」
背中の肩の辺りに、まるで天使の羽根のようなあざがくっきりと浮かび上がっている。
聖司は、バスタオルを受け取りながら
「生まれたときからあるんだ。」
夫婦でありながら、夫の背中をまじまじと見たことはなかった。
「疲れているんですね。あなた、ごめんなさい。」
聖司の背中のあざが、ほんのり赤く血に染まっているように見え、星南は思わず聖司の背中を抱き締めていた。
「星南?」
背中に感じる星南の温もりを確かめながら、聖司は、背中から回された星南の腕をぐっと掴んで抱き寄せた。
「ご、ごめんなさい。」
聖司の胸の中に抱き留められて、星南は慌てて体を離した。
「待って。」
聖司は、もう一度星南を引き寄せると、さっきよりも強い力で抱き締めた。
「どうして僕が疲れていると思った?」
聖司の腕の中で星南は素直に答えた。
「私にも同じようなあざが腰の辺りにあって、疲れてくると赤く血で染まったようになるんです。だから。」
「初めて、星南を身近に感じたような気がする。僕たちは夫婦なのにね。」
星南は、こくりと頷いた。
そして、星南の心が、今まで感じたことのない安心感で満たされていくのが分かった。これが、人を愛するということなのだろうか。星南は、何故か、ずっと昔から聖司を知っていて、こうして温もりを確かめ合っていたような、そんな気がしていた。
約束の日、約束の時間、会長室を訪ねた星南を、船岡と佐原が一昨日と同じように出迎えた。
「星南さん、よく来てくれましたね。もうすぐ臨時の役員会が始まりますから、あまり時間がありません。株券は、持って来てくれましたか?」
佐原の機嫌が妙にいい。
「はい。ここに。」
星南は、バックから紫色の風呂敷に包んだ株券の束を出すと、そのまま佐原に渡した。
佐原は、額面を確認すると
「確かに。」
と言って、代わりに船岡の株券を星南に渡した。
「じゃあ、これで交渉は成立しましたね。後はこちらに任せてください。今井の会社のこと悪いようにはしませんから。」
佐原は、星南から受け取った株券を船岡に渡しながら言った。
「はい。お願いします。」
船岡と佐原に深々と頭を下げると、追い立てられるように会長室を出された。
そして、星南は、船岡の巨大な本社ビルの正面玄関を出て、振り返ってビルを見上げた。何故か、襲い掛かってくるような恐怖心を覚えていた。
と、その時、バッグの中の携帯がけたたましく鳴った。
「もしもし。」
「星南か。」
寺田からだ。
「パパ、どうしたの?今、臨時の役員会のはずじゃ……。」
電話の向こうの寺田は、一気に何かを話そうとして声が詰まっているようだ。
「星南、私の会社が……私の会社が船岡に……。」
「パパ、ごめんなさい。私のせいなの。私が……。」
星南が言いかけた時、寺田は聞こうともせず続けた。
「騙されたんだ。佐原に私は騙されたんだ。」
「えっ?パパ、どういうこと?」
確かに寺田は、佐原の名前を口にした。
「佐原が私に言ったんだ。会長との間を取り持ってやる代わりに、私の持っている今井くんの会社の株券を預からせて欲しいと。この臨時の役員会が終わるまででいいからと。騙された。あいつは、始めから船岡と組んで、今井くんの会社も私の会社ものっとる気だったんだ。」
「パパ、どういうことなの?ちゃんと説明して。」
星南は、寺田の口から明かされる真実が、現実のこととは思えなかった。
「あいつらは、私から株券を取り上げ、その間に着々と株を買い占めていたんだ。私の会社も今井くんの会社も、いつの間にか船岡が筆頭株主になっている。今頃は、臨時の役員会で、今井くんは自分の会社の代表を下ろされている頃だろう。」
「……。」
星南は、手にしていた携帯を落としそうになった。
「全て始めから仕組まれていたことだったんだ。佐原の目的は、私と今井くんの会社を手に入れることだったんだ。そうとも知らず、私は今井くんまで窮地に陥れてしまった……。」
「……。」
星南は、何も言わず携帯を切ると、元来た道を戻り、ビルの中へと入っていった。