南十字星(前編)
例え身体は朽ち果てても必ずあなたを捜しだします。ただ一人の運命のひと。
私は、小さい頃からずっと思っていた。何か大切なものを忘れているような、そんな気がしてならなかった。この腰にある羽根のようなあざも、その忘れてはいけない何かを教えてくれているような、そんな気がしていた。
私は夫が大嫌いだ。落ちぶれて借金苦で喘いでいた父の会社を立て直す条件で、夫は私をお金で買って無理矢理妻にした。よくある話かもしれない。私に特別に将来を約束した人が居た訳でもない。
ただ……夫が嫌いだった。
夫は、両親の顔を知らずに育ち、若くして一代で会社を興した苦労人であったが、成功した者にありがちな傲慢なところもなく、穏やかで優しい人だ。その性格に見合った類まれな美貌の持ち主でもあったから、結婚する前から、私は夫の存在を知っていた。うちよりも大きな企業の令嬢との結婚話も度々噂されていたが、どうして落ちぶれた父の会社を救ってくれたのか、私のことを本当に愛しているのかさえ未だに分からない。勿論、夫からの融資と結婚の話が出た時、父は二つ返事で承諾し、既に財界の令嬢たちの間で人気者であった夫のせいで、私は、妬みや嫉みに晒されることとなり、それからの毎日は苦痛の連続だった。
この機会に辞めてしまおうと思っていた大学も、夫のたっての希望で続けることが出来たが、大学にも夫のファンが大勢いたため、私にとってそこは、心が休まる場所ではなかった。
「星南さん。」
講義が終わり、校門近くを歩いていた星南を誰かが呼び止めた。
「今井さん。」
黒のポルシェの傍らで今井聖司が手を振っていた。
「星南さん、お迎えに来ました。」
聖司は、屈託の無い笑顔を星南に向けると、そっと助手席のドアを開けた。一緒に歩いていた友人は、気を利かせて星南に手を振り去って行ったが、今井に憧れていた学生も多く、彼女等の視線を受けて、星南は、針のむしろに座らされているような心地がしていた。
車に乗り込み発車したのを見計らって、星南は、今井に声を掛けた。
「今井さん、大学まで迎えに来るのは、今日限りやめていただけませんか。」
「どうしてですか?僕が迎えに来るのは迷惑ですか?」
今井は、正面を向いたまま言葉だけ返した。
「……正直、迷惑です。あなたはご存じないかもしれませんが、あなたに憧れている女性は沢山います。私は、その方たちからの羨望の眼差しを受け止めることが出来るほど、強い精神力は持ち合わせていません。」
「僕に憧れている女性がいる?それは、星南さんの買い被りですよ。」
今井の言葉に、星南はむっとした。
「とにかくやめていただけませんか?私にも足が付いていますから自分で帰れます。どうぞ、ご心配なく。」
とげとげしい星南の言葉に気分を害するわけでもなく、今井は運転しながら穏やかな微笑をたたえていた。
「ありがとうございました。」
星南は、聖司の車を降りながら、社交辞令のようにお礼を言った。
「星南さん。」
聖司は、星南の左腕を掴むと
「僕たちの運命の輪は廻り始めました。もう誰にも止められません。」
と、言った。
星南は、聖司の真っ直ぐな目を見つめると、何も言わずに慌てて車を降りた。
「夢……。なんで今頃。」
星南は、飛び起きた。今更、もう二年も前の大学時代を夢に見るなんて。星南の額は、じっとりと汗で濡れていた。
そして、隣で眠る聖司の顔を無意識に見た。きりっとした眉毛に長い睫毛、スーッと伸びた鼻筋、そして、ほんのりばら色の唇。聖司を見ていると、女である自分が恥ずかしくなる。それほどに、麗しい容姿をしていた。
「起きていたの?」
聖司は目を覚まし、星南の視線を感じた。
「ええ。今、起きたところです。」
星南は、ベッドから降りた。
「今夜の船岡会長のパーティだけど、気が進まなければ無理しなくていいから。」
聖司も起き上がりながら、優しく言った。
「いいえ、父も招待されていると言っていましたし、夫人同伴のパーティなんでしょう。私も出席します。」
「そう、助かるよ。じゃあ、六時には帰って来るから、支度を頼みます。」
「はい。」
星南は、一度として聖司の顔を見ようとはしなかった。聖司も星南の頑なな様子には慣れているようで、別に気に止める様子もなく、ベッドから降りるとシャワーを浴びに部屋を出た。
一人寝室に残された星南は、今夜のパーティに行くと言ったものの、本当は気が重いと思っていた。
しかし、母を亡くした今、夫人同伴のパーティに、父の寺田が、以前から付き合いのあった若い秘書を伴って出席するのかを自分の目で確認したかったのだ。その目的のため、星南は行かなければならないと自分に言い聞かせていた。
その夜、聖司と出席したパーティは、大手テレビ通販会社の船岡会長の喜寿と会社設立三十周年を祝う盛大なものだった。
帝王ホテルの最上階南側一面に設けられた朱雀の間には、政財界や芸能界からも著名人が多数出席しており、それは盛大なものだった。
会場入りすると、直ぐに聖司は仕事関係の人たちに捕まり、星南は関係者に簡単な挨拶を済ませると、人ごみの中に父親の寺田の姿を見つけた。
「パ……」
声を掛けながら近付こうとすると、寺田は、船岡会長夫妻に挨拶をしているところであった。
「船岡会長、この度はお招きいただきましてありがとうございます。また、本日は、会長の喜寿と貴社の設立三十周年誠におめでとうございます。」
深々と頭を下げて挨拶をする寺田に向かって
「寺田くんは、相変わらず精が出るね。その情熱を仕事に向けると会社を潰すようなこともなかったと思うのだが。」
と、嫌味を交えて言い放ち、ちらっと寺田の横にいる年若い秘書の方を見た。
「会長……。」
「あら、寺田さん、今夜のパーティは、夫人同伴のお約束で愛人同伴とは書いておりませんわよ。」
船岡の横にいた船岡夫人までが、寺田を嘲るように言った。寺田は、自分に向けられる嘲笑に身動きも出来ず、ただ立ちすくんでいる。
「パパ。」
そこへ、堪りかねて星南が割って入った。
「これは、これは、今井くんの。君も父上の会社の犠牲になった一人だね。まあ、お金で買われたとはいえ、相手が今井くんなら君にとっては、願ったり叶ったりかもしれないが。」
船岡は、自分のたった一人の孫娘を聖司の嫁にと強く願っていたこともあり、寺田や星南に何かにつけて辛く当たっていた。
また、船岡の言う通り、寺田は会社経営の才は全くなく、妻が生存中から関係のあった年の若い秘書との逢瀬が忙しく、しばしば大事な取引に穴を開け、それが原因で代々続いた会社を傾けていた。それは、船岡に非難されても仕方がないことだった。
「会長、それはあまりにも……。」
星南がそこまで言いかけると、遠くから駆けつけて来た聖司に静止された。
「会長、仮にも私の妻と義父です。このような公の場で中傷するのは、やめていただけませんか。」
聖司は、星南を自分の背中に隠した。
「私は本当のことを言ったまでだ。君だって、寺田くんの尻拭いに幾ら使っているんだね。君が、寺田くんの代わりに得意先に謝って廻っていることくらい、私の耳にも入っているんだ。私は、君の代わりに言ったまでだが。」
星南は、新事実に驚き、聖司と寺田の顔を交互に見た。寺田は、恥ずかしそうに俯いている。
「会長、義父の始末を息子の私がするのは当然のことです。前言を撤回していただけませんか。」
いつも穏やかで声を荒げることの無い聖司のこのような姿を、星南は初めて見たと思った。
「今井くん、私に向かってそのような口を叩くとどうなるか、君は、分かって言っているのだろうね。」
船岡は、怒りに体がわなわなと震えている。それでも、聖司は一歩も引こうとはせず、ピーンと張り詰めた空気だけが流れた。
「会長、折角のお祝いの席が、このようなことで台無しになって
しまいます。さあ、気を取り直して、あちらで一杯いただきませんか?」
二人の間の緊張感を崩したのは、聖司の大学時代からの親友で、船岡の会社で営業部長をしている佐原だった。
「佐原。」
「さあ、会長あちらに参りましょう。お祝いに来ていただいている皆さんもあちらでお待ちかねです。奥様もご一緒に。」
船岡は、佐原に誘導されるように聖司たちに背を向けると歩き出した。佐原は、聖司に向かって「任せとけ。」とでも言わんばかりに頷くと、船岡の機嫌を上手に取り、先ほどまで怒りに震えていた船岡から笑い声が零れていた。
「あなた。」
船岡が去った後、蜘蛛の子を散らしたように聖司たちの周りには誰もいなくなり、星南は事の重大さを思って聖司を気遣った。
「大丈夫だよ。」
聖司は、自分の左腕を無意識に掴んできた星南の手を上から握り締めた。
「大丈夫だから。心配しないで。」
聖司はそう言って星南に微笑みかけたが、その瞳は明らかに曇っていた。
星南がこの時感じた言いようの無い不安は、その後直ぐに的中することとなった。
それは、聖司の帰りが朝方になったり、帰らない日も増えていくことで証明された。