序章
生まれ変わりなんてしたくなかった。先の人生を終わらせるときに、もう二度とこの世には再生したくないと、自分自身の魂に誓って旅立ったから、ここがその途中の場所でも何も構わなかった。私の魂は、あの世でもこの世でもない場所で、永久に彷徨い続ければいい。そう思っていた。
「僕はとっても幸せだったんだ。」
たった一人、漂っていた私の場所に、もう一つの魂が、いつの間にか寄り添っていた。
「そう。」
「ああ。君は?君は幸せだったの?」
「私は……。」
問いかけられても答えられなかったのは、忘れてしまったせいなのか、忘れようとしているせいなのか。
「僕は、人間に生まれ変わる前は、天使だった。」
私は、彼の告白に驚いた。
「天使だったなら、何故、人間なんかに?」
「禁忌を犯してしまったから。同じ神から生まれた姉弟天使に恋をして、人間に堕とされたんだ。ほら、僕の背中のあざ、羽根のようだろう?これがかつて天使だった証さ。」
そう言って振り向いた彼の背中には、くっきりと小さな羽根が刻まれていた。
「別々に堕とされた彼女の体の何処かにも、きっと同じようなあざがあるはずだから、僕は、きっと見つけ出す。何度生まれ変わっても。」
まっすぐな彼の瞳を見つめながら、私は、やっぱり生まれ変わりたくはないと思った。
「あなたは幸せだったから、そんなことが言えるのよ。」
私は、思わず自分の口から飛び出した言葉に慌てた。
彼は、にっこりと微笑むと
「僕の背中の羽根に手を当ててみて。」
そう言って、もう一度、私に背中を向けた。
私は、黙って、そっと彼の背中のあざに触れてみた。
「あっ。」
私の中に、彼の生前の記憶が流れ込んでくる。濁流のように一気に押し寄せて来た様々な映像や感情に押し潰されそうになりながら、私の手は、彼の背中から離れることはなかった。
幸せだったはずの彼の前世。
生まれて直ぐに、深夜の駅のホームに置き去りにされる。寒くて体の芯まで冷えていく感覚に襲われながら、泣き声を上げられないまま体力が消耗していく。寸でのところで、駅員に助けられ、施設に入り、直ぐに里子に出される。そして、女ばかり四人の実子がいる旧家の跡取りとして迎え入れられるが、その幸せもほんの束の間。養父母に、実子として男児が出生し、また、彼は疎まれて行く。世間体を重んじる養父母は、彼をそのまま養育し続けたが、既に彼には何処にも居場所はなく、孤独を抱えて生きていく。
「これの何処が幸せだったと言うの?」
私は、それでも尚、微笑む彼の気持ちが分からなかった。
彼は、両親の愛を少しでも取り戻そうと必死に勉強し、医大に入り、彼の優秀さを誰もが認めたが、彼の中の孤独は癒されることはなかった。人間界に降りた天使、そのままの容貌を持ち、孤独を癒すために、様々な女性との関係を結んでいたが、彼の心は満たされることなく、気持ちはいつも空回りしていくだけ。
私の中で、彼の寂しさや孤独感が溢れてきて、私の目からは、知らず知らずのうちに涙が零れていた。
「最期まで目を反らさないで。」
彼の言葉に、涙を拭うことも忘れて、私は続きを見た。
相変わらずの孤独と戦っていた彼に、最期のときが訪れた。ビルの屋上から飛び降りた女性の下敷きになって、彼は、そのときを迎えたのだ。薄れ行く意識の中で、最後に彼が目にしたものは、自分の体の上に横たわる女性の左腕に、くっきりと刻まれた羽根のあざだった。
「こ、これ?」
彼は静かに頷いた。
「そう、僕がずっと探していた、僕の半分さ。僕は、最期の瞬間に彼女に逢えた。そして、彼女の身代わりとなって、最期を迎えることが出来たんだ。こんな幸せなことはない。」
私は、自分の左腕を覗き込んだ。
しかし、そこにあざは見つからなかった。
「さあ、僕はもう行くよ。」
「何処へ?」
「勿論、生まれ変わりにさ。もう一度、彼女に逢いたい。今度は、少しでも長く触れ合っていたい。僕たちの犯した罪は、決して許されることはないだろうけど、どんな形でもいい。彼女に逢いたいんだ。だから、僕は生まれ変わることは怖くない。」
彼は、それだけ言うと、目の前に突然開けた階段を昇り始めた。
「ちょ、ちょっと待って。」
私は、彼の後を追わずにはいられなかった。それが、何故なのか、答えなんか分からない。
でも、追いかけずにはいられなかった。
「いいの?僕に付いて来たら、転生しちゃうよ。」
階段を昇りながら、彼は振り向き私に言った。
「もう引き返すからいいのよ。」
私の言葉を受けて、彼は立ち止まり、階段の下を指差した。
「だめだよ。一旦昇り始めたら、もう戻れない。ほら、下に降りる階段は、消えて無くなっているだろう。」
私は、彼の言葉で振り向くと、自分の足元以外の階段は、もう消えて無くなっていた。
「えええええっー。」
彼は、またにっこりと微笑むと、自分のペースを崩さずに昇り始めた。
私は……。
私は、消えてしまった階段を見つめながら、このまま彼が居なくなってしまう寂しさに耐えられないと感じた。
「ま、待って。」
ずっと先を昇って行く彼の後を追い駆けながら、自分の足元の階段が、どんどん消えていく恐怖も感じた。
「ほら、もう扉が見えて来た。もうすぐ、転生できる。」
彼が立ち止まり、指差したずっと先には、一つの扉が見えている。
「あれが、輪廻転生の扉?」
「そう。あの扉を開けると、全ての記憶が消えて、赤ちゃんの魂のまま生まれ変わるんだ。前世で果たせなかった宿題を終わらすために。」
「いやー。」
私はその場に頭を抱えたまま蹲った。
「どうしたの?」
彼は、私の目線まで屈み込むと、問い掛けた。
「私の宿題がなんなのかさえ分からないまま、もう一度、あの人生を送るなんて、私は嫌。もう進まない。ここに居る。ここでいい。」
彼は、優しく私の背中をポンポンと叩くと
「僕は、記憶もこの背中のあざも失わずに生まれ変わって行くんだ。何度も何度も。」
「えっ?」
私は顔を上げて、彼を見た。
「それが僕への罰だから。どんなに悲しい記憶も全て忘れることが出来ない。」
「彼女もなの?あなたが捜している彼女も、そうなの?」
私の問い掛けに、彼はゆっくり首を横に振った。
「彼女の罰は違う。彼女は全てを忘れて転生して行くし、体のあざさえも、何処に出るかは分からない。」
「それじゃ、二人は出遭えないじゃないの?」
「それが、二人への罰さ。」
「そんな……。」
「僕が、彼女のことを覚えていても、彼女は、僕を忘れているから、彼女が僕を再び愛するとは限らない。それでも僕は、彼女を想い続けて生きていかなければならない。……それが、僕への罰。僕は、誰よりも早く彼女を見つけ出さないといけないから、少しでも早く生まれ変わりたいんだ。」
彼は、それだけ言うと、再び昇り始めた。
「先に行くよ。」
軽やかに昇る彼は、扉に手を掛けると
「じゃあね。」
と言って、扉の向こうへと消えて行った。
「あっ。」
彼の消えた扉の向こうは、暖かな光で溢れている。
「待って。」
手を伸ばした私の体を、扉が閉まる前の光が一瞬包み込んだ。
その光を浴びて、ボワーッと私の左腕が光り、そこには羽根のあざが現れてきた。
「わ、私?彼の言っていた片方の天使は私だったの?」
扉は閉まり、彼の姿は何処にもなかった。私は、慌てて立ち上がると、彼を追い駆けて扉を開け、その向こうの光へと身を任せた