三題噺⑦愛するもの
私が彼を愛すようになったのは、とある事故がきっかけだった。
私は研究者を生業にしていた。日夜様々な研究に明け暮れていた。当時の私は、とある研究で南極に向かっていた。何の研究だったかは聞かないでほしい。一線を退いたとはいえ、守秘義務というものは存在するのだから。私が一線を退いたのは、その南極に行ったことが理由だった。
突然だが、君はタイタニックという映画を知っているだろうか?1997年に公開された映画だ。悲劇とラブストーリーを交えたあの作品は、当時非常に話題になった。私は別に映画に詳しいわけではないが、そんな私でも見たことはあるほど、あの映画は衝撃的だったのだ。何より衝撃的なのは、あの映画は、実話をもとに製作されているのだ。氷山にぶつかり、沈んでしまったタイタニック号の悲劇。なんでも、2000人以上の人間が犠牲になったとか。なんとも恐ろしい話だ。
なぜ突然この話をしたか?世の中には、1度あることは2度あるといわれることがある。私の場合がまさにそれなのだ。私は、あのタイタニック号と同じ経験をしてしまったのだよ。
船の技術というのは年々進化している。氷山をよけるために様々な工夫を凝らしているのも事実だ。だがそれでも、不慮の事故というのは起こるものだ。きわどい記憶というのは忘れてしまいたいものだ。だが、その時の恐怖とともに今でも覚えている。船内で休んでいた時に、突然起こる衝撃。浸水により傾いていく船。我々研究員は命からがら逃げだそうとしたが、船の上にもはや逃げ場などなかった。
そんな私を助けてくれたのが彼だった。彼はパニックに陥っている我々に的確に指示を出し、時には拳、我々を支えてくれたのだ。精神的な意味でも、肉体的な意味でも。彼の存在がなかったら、私はいま確実にここにはいない。何人もの人間が海にほおりだされる中で、懸命に我々を助けようとしてくれたのだ。私が海にほおりだされそうになった時も、自分の命を顧みずその腕をつかんでくれたのだ。
私と彼を含めた数人が、救命ボートに乗り込むことに成功した。しかし、事態がよくなるわけではない。救助が来ない以上、我々に生きる術はないのだから。想像できるか?極寒の中、食料もなく、周りを見渡しても、青い海と氷と船だったものしか見えない。それが何日も続くのだ。精神的な苦痛が凄まじかった。中にはその苦痛に耐えきれず、自ら命を絶とうとしたものもいたくらいだ。彼がそれを懸命に抑えてくれていたが、彼一人ではどうにもならないほど事態は切迫していた。
精神的な苦痛に次いで、肉体も限界を迎える。ついに、我々の仲間に死者が出てしまった。少し休むと目をつむり、そのまま目を開けることはなかったのだ。最初、死んでいることに気が付かなかったくらいだ。その男の死によって、われわれがもうしばらく長く生きられることになるのだが……なぜその死によって生き永らえたかって?それは、あまり話したくはない。我々は寒さに震え、さらに空腹だった。あとは想像にお任せする。
だが、それも長くは続かない。一人、また一人と体力の限界を迎え、最終的には私と彼の二人だけになっていた。船が沈没して、1週間以上たっていただろうか。正確な日数までは覚えていないが。彼とは様々な会話をした。何もない海の上では、会話だけが唯一自身が生きていると実感できるものだったからだ。もともと同じ研究員だったこともありお互い面識はあったが、仕事以外の、私生活まで踏み込んで会話したのはあの時が初めてだった。彼は南極に来る前に、離婚をしたんだそうだ。研究に打ち込みすぎて家族を顧みなかった結果だと。自業自得だと笑っていたが、逆に運がよかったとも言っていた。離婚したおかげで、私が死んでも誰かを悲しませることがないからと。私は結婚などしたことがないが、その彼の考え方には感動した。彼にはぜひとも生き残ってもらいたい。そう思ったよ。私が何を話したかって?あまり赤裸々に語るのは恥ずかしいから言いたくはないが、美しいものに惹かれるという話はしたかな。例えば彫像のような、変わることの無い美というものを愛していると。今は私の手元にはないが、いずれ自身の愛する像を家に置いておきたいものだと思ったね。あと、彼のような美しい心というのも好きだ。そういう意味では私は彼に強く惹かれていた。もっとも、彼に引かれたくはないから直接は伝えなかったがね。
あとは、語ることはあまりない。君たちが知っている通り、私は救出された。それ以降はむしろ、君たちの方が詳しいだろう。何しろ救出後は、私はずっと病院にいたわけだからね。
そういうと、男は煙草をひと吸いする。あまりに衝撃的な話に、俺は言葉を失ってしまった。
俺は、第二のタイタニック号と言われる事故の、唯一の生き残りに話を聞きに来ていた。病院から退院して間もなく、インタビューなぞ受けてくれるかと思っていたが、自分の経験が何かの役に立てればと、思いのほかあっさりと受け入れてくれたのだ。その壮絶なエピソードをきき、この話は後世に伝えなければならないと、強い使命感すら覚えた。
「さて、そろそろいいだろうか」
タバコを吸い終えた男が、私にそう尋ねてきた。
「ええ、十分すぎるほどです。本日はお話しいただき、ありがとうございました。つらいことを思い出させてしまって、申し訳ありません。」
「いやいや、私の話が後世の役に立つなら、これくらい大したことはない。それに」
そこまで言って、男は沈黙した。
「それに?何かありましたか?」
「いやいや、大したことはないんですよ。ああしたつらい経験でいたが、得たものもある。私は、愛するものを手に入れたのだからね。」
「愛するもの?」
愛するものとは何のことだろうか。この経験自体が愛するものということか?それとも、もっと物理的に、例えばさっきの話に出てきた、不変の美を持った何かを手に入れたのだろうか。そのような話は聞いていないが。
「じゃあ、私はそろそろこれで。」
俺の疑問をしり目に、男は部屋を出ていこうとする。
「失礼ですが、どちらへ?」
ここは男にで屋敷であって、本来は俺の方が出ていくべきなのだが、とっさにそう呼び止めてしまった。愛するものとは何だろうと思ってしまったが故の行動だった。
男は俺の意図を察したのか、一度立ち止まってくれた。そしてこう答えた。
「ちょっと、愛する者のところへ」
そういって、男は部屋を出た。男はどうやらこの屋敷にある、冷凍室に向かったようだった。