第一章:優しい悪魔 【8】
『へえ。それじゃあ、ずっとアメリカに住んでたんだ。』
糖子さんは、ビールを飲みながら、上機嫌で言った。
『はい。父の転勤で。転校ばかりでしたが、良い体験になりました。』
模範解答で返事をしている宗介も満面の笑みを浮かべている。
・・・にもかかわず、雰囲気が、ピリピリしているのは、なぜ?
糖子さんの言いつけ通り、私は、宗介を家に連れてきた。
有名なケーキを手土産に持ってきた宗介を糖子は、気に入ったように見えたんだけど。
内心はらはらしている私を他所に糖子さんと宗介は、笑顔で会話を続けている。
でも、糖子さんの手元を見ると、ビールの缶を長い爪で弾いている。
機嫌の悪い証拠である。
やがて我慢の限界に達したのか、糖子さんが、テーブルを叩いた。
『さあ、そろそろ本音で話してもらいましょうか!』
『ちょちょちょっと、糖子さん。』
和やかな会話から一転、いきなりとんでもない口調が、飛び出したので、私は、慌てて糖子さんを制した。
だけど、宗介は、豹変した糖子さんを前に少しも動じておらず、涼しい顔をしている。
もうさっきから分かっていたみたいな・・。
『いいよ、菫。糖子さんは、多分俺のこと知っているんだ。』
宗介は、糖子さんを真っ直ぐ見据えた。
宗介を横目で眺めた糖子さんは、鼻を鳴らしたけれど、ビールを置いたので、きちんと話す気になったのだろう。
『そうね、秦野君。いえ、望月君だったかしら?苗字が、変わっていて分からなかったわ。』
『今は、秦野です。先月やっと離婚が成立して、母方に引き取られました。』
『え、離婚?!』
思わぬ事実に驚いた私は、驚きを隠せなかった。
声に出してから、しまったと後悔してけれど、宗介は、そんな私を優しく見た。
『いいよ。もうずっと上手くいってなかったんだ。今更どうってこともない。』
宗介の声から戸惑いや寂しさが微塵も感じられないことが、かえって私を不安にさせた。
ずっと不思議に思っていた。
宗介の声には、負の感情が、驚くほど少ない。
聞いていて気持ちいいのは、きっとそのせいだと思う。
人間としてあり得ないほどに悪の感情を振り落としてしまっている気がした。
『失礼。悪いことを聞いたわね。』
さほど反省の色を見せずに糖子さんは、言った。
こんな糖子さん、初めて見た。
『なんで、菫の前に現われたのよ?』
『婚約者だからです。これからは、ずっと菫の傍にいられる。』
宗介は、淡々と言った。
『婚約者!聞いて呆れるわ。そんなことしたって、お父さんの工房は手に入らないわよ。』
一瞬、宗介の頬が、ぴくりと動いた気がした。
お祖父ちゃんの工房?
糖子さんの言葉の意味が、分からず、私は、首をかしげた。
『糖子さん。工房って、何の話?』
私が尋ねると、糖子さんは、少し迷ったけれど、口を開いた。
『20才になるまでは、話さないつもりだったけれど、仕方ないわね。お父さんは、工房を菫に譲るって遺言残しているのよ。』
『譲るって、黒鎚山の工房を?なんで、私に?』
降ってわいたような話に私は、唖然とした。
『知らないわ。でも、お父さんの遺言状にもきちんと書いてあるわ。』
『ふうん。でも、それと宗介とどういう関係があるの?』
糖子さんは、キッと宗介を睨んだ。
私も宗介の顔色を窺ったけれど、宗介の顔は、笑みこそないが、何の感情も読み取れない無表情だった。
『私、聞いたのよ。亡くなる少し前にお父さんとこの子が、病院で話しているところ。』
『話って?』
黙り込んでいる宗介の代わりに私が、尋ねた。
『工房のことを切り出したのは、この子よ。自分がほしいから、譲ってくれって言っていた。』
『宗介が?工房を?』
無言の宗介は、私の目を見ない。
『最初お父さんは、断ったのよ。工房は、菫ちゃんに譲るつもりだって言って。でも、少しして、思い出したように言い出したのよ。「そういえば、宗介は、菫の婚約者だったな。」って。それから言ったわ。「私が死んだ後、大人になった菫が、お前と婚約してもよいと言ったら、私は、お前と菫にあの工房を譲ろう。菫をその気にさせることができたら、工房も山もお前のものだ。」って。』
『ええと、それは・・』
頭が混乱してきた私は、額に手を当てた。
糖子さんは、続けた。
『そんな馬鹿な話ないと思ったわ。お父さんもお父さんよ。孫の気持ちを賭け事みたいに。』
『・・それは、違います。』
その時、ずっと黙って聞いていた宗介が、口を開いた。
さらに驚いたことに宗介の頬を濡れていた。
『勝矢じいちゃんは、俺にあの工房しかなかったことを知っていて、ああ言ってくれたんです。』
宗介の声は、とてもしっかりしていた。
でも、彼の瞳からは、大粒の涙が後から後から溢れていた。
宗介は、涙を拭うわけでもなく、ただ流し続けていた。
私は、アーモンド色の泉から溢れる水滴を見ながら、なんて綺麗なんだろうと思った。
祖父は、宗介にとっていったいどんな存在なのだろう。
どうして私は、忘れてしまったのだろう。
『宗介は、工房がほしいから、私と婚約したの?』
私は、宗介を真っ直ぐ見据えて問うた。
『分からない。でも、俺は、あの場所が、本当にほしかった。今も同じ気持ちだ。』
やっぱり邪気がないと思った。
宗介の望みは、とても曲がっていなくて、至極当然のような気がした。
先程のやり取りから察した宗介の両親の不仲とか、そのせいでしっかりしていそうに見える彼の隠し持つ不安定な脆さに対して、私自身も同情を禁じえなかった。
祖父も同じ気持ちだったのだろう。
そして、小さな宗介に世話を焼いてやったのかもしれない。
人間嫌いといわれていたけれど、静かで確かな愛情を持っていたのは、両親を失った後育ててもらった私にも、よく分かっている。
宗介は、祖父の思い出もそれを宿すあの工房もほしくてほしくてたまらないのだ。
でも、私はいらない。
祖父は、私にとっても大切な人だったけれど、少なくとも私は、あの工房を手に入れたいとは、思わない。
両親と彼らに関する時間を失ったあの場所に私は、正直いって嫌悪感さえ感じていた。
『じゃあ、あなたにあげる。お金のこととかよく分からないけれど、大した財産じゃないと思うし、私には必要ない。私にとっては、簡単に誰かに譲れる価値のないものなのよ。』
宗介の目が、驚きで見開かれた。
お金のことも少しは、絡んでいるから、糖子さんに後で怒られるかもしれないけれど、私にとっては、一番簡単で明瞭な答えだった。
『工房はあげる。だから、婚約のことは、忘れて。』