第一章:優しい悪魔 【7】
汗だくで息が上がっている宗介を見て、慣れない校内を随分探し回ってくれたのだなと考えられた私には、かなり余裕が生まれていたのだろう。
私は、人目につきにくい非常階段まで宗介を連れて行くと、段差に腰を下ろして、宗介が、落ち着くのを待った。
『何で逃げたの?』
アメリカ帰りの宗介の言葉は、かなり直球だった。
『宗介が、馬鹿なこと言うから。』
思ったより、冷静な声が出たので、ほっとした。
『馬鹿なこと?』
『うん。婚約者だなんて。私は、ちっとも記憶にない。』
『でも、事実だ。菫のじいちゃんも知ってた。』
『お祖父ちゃんは、もういない。私が、小学校6年生の時に癌で亡くなったの。』
『知ってるよ。一度病院まで会いに行ったから・・少し話もした。』
宗介の切ない顔は、まるで本当の祖父を亡くしたみたいだった。
『正直言って、私は、本当にあなたのこと何も覚えてないの。というか、8才前後の記憶がぼんやりしてて。』
『そうみたいだね。』
宗介は、いくぶん沈んだ声で言った。
『で、糖子さんに話してみたのだけど、覚えていないって言われて。あ、糖子さんて、私の叔母さん。黒鎚山のお祖父ちゃんの娘よ。その糖子さんが、一度宗介に会いたいっていうんだけど、会ってくれる?』
『いいよ。』
宗介が、微笑んでくれたので、私は、少し安心した。
『それから、もう人前で婚約者だとか言わないで。』
突然、宗介の口が、への字になった。
『いやだ。』
『じゃあ、せめて私が、あなたのこと思い出すまでは黙っていて。』
宗介は、少し不満げだったけれど、渋々頷いた。
『でも、婚約者って事実は変わらないからね。』
『はいはい。好きにしてください。』
こればっかりは、私も自信がないので、お手上げだ。
とにかく、早く思い出さなくちゃ。
私は、手を伸ばすと、教室と反対方向へ歩き出した宗介の腕を引っ張った。
『だからね。婚約者っていうのは、子供のままごとみたいなものだから。』
教室に戻った私の第一声である。
『そうだよね。この年で婚約なんて変だもの。それよりも、宗介君。アメリカの話をもっとしてよ。』
美佐子は、いくらか安心したように言うと、机の上に座っている宗介の隣に自分の椅子を近づけると、上目遣いで見上げた。
他の女子も美佐子に倣って、宗介の近くに集まり始めたので、私は、こそこそと自分の持ち場である看板の傍に逃げた。
『ちょっと、すみち。どこに行ってたのよぉ。トイレから帰ってきたら、すみちと宗介君は、いないし、美佐子の眉毛は、吊り上っているし。』
修羅場を見逃した杏子は、ぶつくさ文句を言いながら、私の隣にしゃがみこんだ。
『宗介が、また婚約者だとか言ったの。もう最悪だよ。杏子も婚約者のこと、二度と口に出さないでね。』
『あれれ。もったいない。宗介君、かっこいいのに。』
『そういう問題じゃないよ。それにあんな頭が沸いた奴は、嫌。』
ちらりと横目で見ると、美佐子の隣で笑い声を上げている宗介が、目に入った。
どう見たって、ろくな奴じゃない。
『とか言いつつも、気にしているよね。』
視界を遮るように私の鼻先に顔を突き出した杏子は、にやにやと私を眺めた。
『うっさいな。からかわないでよ。』
顔をそむけた時、杏子が、ふと真面目な声で尋ねてきた。
『でも、すみちの好きな人とか聞いたことないよね。実際、誰かいるの?』
『まっさか。』
杏子の言葉に私は、驚いて首を振ったけれど、一瞬何かが頭をよぎった。
『あ、今誰か思い浮かべたでしょ。』
こういう勘だけ鋭い杏子は、しめたとばかりに私の頬を両手で挟んだ。
『ほらほら、白状なさい。』
『ひゃにすんのよ。』
『杏子様の目は、誤魔化せないわよ。ほら、言っちゃいなさい。どこのどいつ?それともやっぱり宗介君?』
『そ、そんなんじゃないもん。それにちょっと気になるだけだし。』
『それこそ、恋の始まりよ。で、どこの誰?』
ペンキの刷毛を持った杏子が、じりじりと迫ってくる。
『な、名前知らないの。今日初めて話したから。』
『うちの学校の人?』
『た、多分。』
嘘は言っていないよ、嘘は。
別に証拠があるわけでもないのに小岩井君に撫でられた部分を隠すように手を当てた。
『ふ〜ん。』
『な、何よ?』
杏子は、私の反応をからかうように眺めた。
『なんにせよ、男の子に興味が出てきたのは、いい傾向だと思うな。すみちって、ガード固い感じだからさ。』
『そうなの?』
『うん。』
杏子は、やけにきっぱりと言い切った。
『おとぼけすみちも、ちっとは自覚持つようになったし、宗介君も色々アクション起こしてくれそうだし、外部受験で他校からたくさん新しい子が入ってくるし、高校めっちゃ楽しみ!』
『・・杏子、やっぱり面白がってる。』
『当たり前じゃん。青春が面白くなくて、どうする!あたしは、高等部に上がったら、絶対彼氏つくるからね。』
杏子のポジティブっぷりは、いつも清清しいものがある。
いつの間にか私も明るい気分になっていた。
だいたい、文化祭前にテンション下げてどうする!
『そうだよね。楽しまなくちゃ。でも、その前にあれをどうにかしなくちゃ。』
目が合うと、神々しい笑顔で私に微笑みかける宗介を見て、深いため息をつくと、杏子が、不思議そうに口を開いた。
『ねえ、本当に覚えてないの。宗介君のこと。写真だって見せてもらったじゃん。かなり仲よさそうだったよ。』
『それが、さっぱり。てゆーか、実は、宗介と会っていたのって、多分私の両親が亡くなった前後みたいなんだよね。』
杏子の顔色が、さっと変わったので、私は、慌てて付け加えた。
『あ、別に変な意味じゃないから、気にしないでね。宗介にも話したんだけど、私、その頃の記憶が曖昧で、誰と何を話したとかあまり覚えていないんだ。』
『・・すみち。』
暗い顔が似合わない杏子に私は、ちょっと笑って見せた。
『ずっと逃げていたけど、宗介が、現われたってことは、もういい時期なんだと思う。糖子さんに宗介のこと話したら、会いたいって言われたの。』
『糖子さんなら、言いかねないね。なんかとんでもない会見になりそうだね。』
気風のいい糖子さんと面識のある杏子は、苦笑いした。
『でも、いいかもしれない。糖子さんだったら、宗介君が、やばい奴かそれとも本気ですみちに必要な奴なのか見極めてくれるよ。』
『・・・やばい奴だよ。』
糖子さんが、後者と判断した場合のことは、考えないようにしようと自分に言い聞かせた。