第一章:優しい悪魔 【5】
秦野宗介は、宣言通り、その日も私の学校にやってきた。
しかも、今度は、入校証を首からぶら下げて、私のクラスの教室まで。
文化祭の準備でクラス中が、大わらわだったから、初め名前を呼ばれたのを気がつかなかった。
看板の文字に何色を塗るか思案していると、クラスメイトの大和田君に肩を突かれた。
『おい、矢幡。』
『何?今ちょっと忙しいんだけど。』
集中している時に話しかけられるのが大嫌いな私は、ペンキ用の刷毛を鬱陶しげに振り回した。
『なんか変な奴が、来てるんだけど。お前の知り合い?』
『へ?』
変な奴と聞いて我に返った私は、大和田君の指差す方向を見た。
目に入ってきた光景に私は、一瞬言葉を失った。
まず、教室のドアの所に女子が集って、きゃあきゃあと黄色い声を上げているのが、見えた。
それぐらいは、なんてことない光景だ。
教室移動で3組のイケメン小岩井君がクラスの前を通る時は、いつもそんな感じ。
だけど、今日は、少し様子が違った。
群がる女子の視線は、ドアの所に立っている私服姿の男の子に注がれている。
そして、その男の子は・・・。
その場で気絶したくなった。
端正な顔ににこやかな笑みを浮かべて、周りの女の子と話しているは、秦野宗介だった。
ふいに宗介が、私の方を見た。
『よう、菫。今日も会いにきたよ。』
満面の笑みで大きく手を振る宗介と宗介の周りの女子達からの突き刺さるような視線を一身に受けた私は、まさしく血の気が引く思いだった。
『な、な、なんで。』
悠々と私の前にやってきた宗介と見上げて、私は、口をパクパクとさせた。
『宗介君は、高等部からウチの学校に編入してくるんだって。今日は、文化祭の準備を見学に来たんだって。』
口を開こうとした宗介の代わりに答えたのは、クラスで一番人気の女の子、上田美佐子だった。
『へえ。』
とんでもない凶報に私は、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
またもや、宗介を押しのけて、返事をしたのは、美佐子だった。
『宗介君は、ウチの学校の系列のサンフランシスコ校にいたの。色々、事情があるのよ。』
『はあ。』
さも分かった風に頷く美佐子に対して、私は、間の抜けた返事をした。
『そんなことも知らないのに、宗介君とすみちは、知り合いなの?』
美佐子の質問にやっと宗介が、口を開いた。
『いや、ずっと会ってなかったから。それに菫は、俺のこと覚えてないみたいだし。』
『ええ〜!すみちったら、ひどぉい。昔の友達を忘れちゃうなんてぇ。私だったら、宗介君みたいな子、絶対忘れないよ。』
私を非難する甲高い声に言い訳をしようとした矢先、宗介の例の爆弾発言が、飛び出した。
『友達じゃなくて、婚約者だよ。』
クラス中が、私達に注目していたものだから、教室の空気が、一瞬凍った気がした。
『は?』
美佐子の裏返った声が、静まり返った教室に響いた。
『いや、だから、こ』
もう一度言いかけた宗介の口を私は、思わず、両手で塞いだ。
『えっと、その、あれよ。こ、婚約パーティーで会ったの。し、知り合いの。随分前のことだから、私忘れちゃってて。』
動転した私の言葉は、全く意味不明で、宗介は、不思議そうな顔をした。
クラスメイト達も私の苦しい言い訳に胡散臭そうな顔をしている。
『俺、婚約者って聞こえたけど。』
すっかり忘れていたけれど、隣に立っていた大和田君が、ぽつりと言った。
『あたしもそう聞こえた。』
『俺も俺も。』
空気を読まない大和田君の一言が、とどめとなって、クラス中が、騒ぎ始めた。
たじたじしていると、黙って成り行きを見守っていた宗介が、おもむろに口を開いた。
『俺は、菫の婚約者だよ。』
今度こそ、決定的だった。
美佐子の顔を見れば、分かる。
『で、でも、親同士が、決めたとかそういう話でしょう?』
上擦った声で、美佐子が、宗介に尋ねた。
宗介は、ちょっと考え込むように頬を掻いた。
『う〜ん。親は関係ないかな。てか、親も知らないと思う。二人だけで決めたし、教えたのは、菫のじいちゃんだけだから。』
宗介が、言い終わるか終わらないかの内にクラス中から冷やかしの声が上がった。
何これ?
どうして、こうなっちゃうの。
美佐子の責めるような視線やクラスメイトからの好奇な視線に耐え切れなくなった私は、教室を飛び出した。