第一章:優しい悪魔 【4】
なかなか寝つけなかった上に夢見が、すこぶる悪かった。
空が明るくなる頃にようやく浅い眠りに落ちたと思ったら、目覚まし時計が鳴るまでの2時間で夢を見た。
汗をかいて目覚めてみれば、夢の内容などちっとも覚えていなかったけれど、とんでもなく疲れる夢を見ていた気がした。
夢の中に死んだ祖父が、出てきたような気もした。
多分、あの男の子が、祖父のことを言ったせいだ。
秦野宗介と名乗る少年の顔が、思い浮かんだ。
『菫ちゃん。起きてる?』
動く気になれなくて、ベットの上でぼんやりしていると、階下から糖子さんの声がした。
『おはよう、菫ちゃん。文化祭、とうとう来週ね。今日から朝も準備で早く行かなくちゃいけないって言っていたでしょう。体力つくように今日は、焼肉弁当だからね。』
居間に入ると、糖子さんは、肉のぎっしり入ったお弁当箱を私の前にずいと突き出すと、初めてお弁当を作った小学生の女の子みたいに得意げな笑顔を見せた。
30近い糖子さんが、実際の年齢よりずっと若く見えるのは、この無邪気で明るい性格だと思う。
母の妹つまり叔母にあたる佐伯糖子さんとは、2年前から一緒に暮らしている。
ブランド物の新作スーツと年季の入ったピンク色のエプロンという全く合わない組み合わせを身につけた糖子さんにもすっかり見慣れてしまった。
大手企業の専務秘書している糖子さんは、新人特有の地方回りが終了して本社で秘書に任命されると同時に私を引き取ってくれた。
私の両親は、私が小学2年生の時に交通事故で他界した。
祖父に引き取られたけれど、その祖父も私が小学校6年生の時に天国へ逝ってしまった。
糖子さんは、すぐにでも私を引き取ろうとしてくれたけれど、まだ転勤が多かったので、落ち着くまでの間、私は、長野で塾を経営する叔父夫婦の家で世話になっていた。
そんなこんなで、本社勤務になった糖子さんに引き取られたのが、2年前。
叔父さんの家は、家族団欒を邪魔しているようで気兼ねしていたので、姉のような糖子さんとの女二人暮らしは、予想以上に気楽で楽しい。
初めは、糖子さんは、まだ若いし、恋人とかいたら悪いなと思っていたけれど、実際糖子さんは、そういうことはあまり気にしていないようだった。
『結婚したくなったらするわよ。でもね、良い男がいないのよ。』というのが、糖子さんの口癖だ。
美人なので、彼氏は、ころころと変わるし、かなり頻繁に朝帰りもしているけれど、結婚となると微妙らしい。
一度、私がいるせいかと、思い切って尋ねると、糖子さんは、ビールを片手にケタケタと笑った。
『何言ってんのよ。はっきり言っておくけれど、私が、菫ちゃんを引き取りたいって言い出したのよ。迷惑だったら、自分から言い出さないで、兄さんに任せておくわよ。そういえば、私が、菫ちゃんを引き取った理由をまだ言っていなかったわね。私ね、一人暮らしってなんだか寂しいのよ。でも、男とは同棲したくないの。こんな風に胡坐かいてビール飲めないし、飲めるようになっちゃったら、女として見てもらえなくなりそうだしね。そういうの嫌なのよ。それに今は、仕事もすっごく充実しているから、結婚とか考えられない。それよりも、家に帰ったら、菫ちゃんがいて、姉さんそっくりな能天気な笑顔でお帰りって言ってくれることが、うれしいのよ。』
能天気・・・ってのが、気になったけれど、ちょっと泣けた。
私の杞憂を取り除くための慰めの言葉だったにしろ、糖子さんの言葉は、私の胸を優しく温めた。
大切な家族を亡くしたのは、私だけじゃないんだなと実感したと同時にどうして糖子さんのそばが、こんなに居心地が良いのか分かった気がした。
若い糖子さんは、姉と父親を亡くしたいう意味で、とても私に近い女性だった。
そうだ。
祖父の工房をよく訪れていた糖子さんなら、あの男の子のことを知っているかもしれない。
『ねえ、糖子さん。秦野宗介っていう子知ってる?』
『あら、菫ちゃんの彼氏?』
お弁当作りを終えた糖子さんは、鏡の前で念入りに化粧をしている。
まさか、婚約者ですとも言えないし・・。
とりあえず、それについては、身に覚えがないので、保留にしておこう。
『・・違うけど。私と同じ年ぐらいの男の子。なんか、お祖父ちゃんの家に行ったことがあるみたいなんだけど。』
『ううむ。』
糖子さんも頭を捻った。
『これは、ちょっと言い難いんだけど、その、お母さん達が、死んじゃった頃に知り合いみたいで。』
マスカラを塗っていた糖子さんの手が、ぴたりと止まった。
明るい私達の生活の唯一のタブーは、死んでしまった母達の話である。
暗黙の了解で私達は、ずっとこの話題を避けてきた。
『ほら、私、その辺りの記憶があんまりなんでしょ。』
黙ってしまった糖子さんを見て、私は、慌てて付け加えた。
やがて、おもむろに糖子さんが、口を開いた。
『・・その子、同じ学校の子?』
『ううん。昨日、学校の前で会った子。見たことない子だったけれど、私のことよく知ってるみたいだったから、忘れてたら、失礼かなって思って。』
『菫ちゃんは、ストーカーとかじゃないと思うんだ?』
『?!まさか。すごく綺麗な男の子だったんだよ。私なんか、ストーキングしないって!』
糖子さんの言葉に私は、思わずブンブンと頭を振った。
『いや。私の姪なんだから、可愛いのは、当たり前よ。でも、菫ちゃんが、違うって言うならねえ。』
糖子さんは、思案顔で顎に手を当てた。
『そうだ。今度、会いに来たら、私に電話しなさい。私が、会ってあげる。もしかしたら、思い出すかもしれないし。』
『え?いいの?』
驚いて顔を上げると、糖子さんは、にっこり笑った。
『それにそんなにイイ男なら、会ってみたなあ。』
『・・イイ男って。言っとくけど、まだ中学生か高校生だよ。』
語尾にハートマークが付きそうな口ぶりの糖子さんに少し閉口しながら、私は、なんとなく安心した。