第一章:優しい悪魔 【10】
本日二話目の投稿です。長くなりましたが、第10部と一続きになっています。
『やだ。』
宗介は、低い声で言った。
呆気に取られた私が、ぽかんと口を開けていると、宗介は、もう一度言った。
『嫌だ。』
『なんでよ。もしかして、その場しのぎの口約束をしてると思ってるの?そのことなら、心配ないよ。相続権のこととかよく分からないけれど、弁護士さんとかに相談すれば、譲ることは可能だと思う。ちょっと時間はかかるかもしれないけれど。』
私の言葉を聞いても、宗介は、憮然とした顔で、首を左右に振るだけだ。
『いったい、何が気に入らないの?』
苛立った私は、声を荒げた。
すると、宗介は、初めて怒りを露にした。
『お前こそ、何なんだよ!』
小さな居間に宗介の怒鳴り声が、響いた。
『なんで、あんたが、怒るのよ!』
糖子さんは、胸倉をつかんで放り出さんばかりに立ち上がった。
『ごめん、糖子さん。ちょっと、宗介と二人にして。』
『菫ちゃん。』
糖子さんは、驚いた顔で私を見つめた。
『宗介のことを覚えていない私にも非はあるのよ。ちゃんと話しておきたいの。』
なるべく冷静な声に聞こえるよう努めた。
糖子さんは、しばらく迷った様子だったけれど、やがて立ち上がった。
『コンビニに行ってくるわ。15分したら、戻る。そしたら、そいつを放り出すから。』
男前な性格の糖子さんは、こうと決めたらすばやい。
さっさと上着を羽織ると、出て行ってしまった。
残された私達の間には、重い沈黙が流れた。
こんなんだと、15分なんて、すぐ経ってしまうから、早く何か言わなければと思った。
でも、なんと言えばいいのか、私には、分からなかった。
結局、沈黙を破ったのは、宗介の方だった。
『なんで。』
俯いていた宗介の唇が、僅かに動いた。
『なんで、俺のこと覚えてないんだよ。』
もう怒りは、感じなかったけれど、とても悲しい感触だった。
泣きたくなるほど、惨めなったけれど、今泣き出すほど、卑怯者にはなりたくなかったので、必死で我慢した。
『ごめん。』
私は、ただ謝った。
『あの山と工房は、今も昔も俺にとって一番大切なものだ。』
『うん。もうよく分かったよ。あれは、元々あなたのものなんだよね。』
『・・何も分かっていないよ。菫は。全然。』
『どうして?』
『勝矢じいちゃんがいて、菫がいて、工房があって、山があったんだよ。』
ああ、そういうことかと私は、急に理解した。
目の前の人は、私と同じくらい子供なのだ。
私は、忘れてしまうことで傷を癒そうとしたけれど、宗介は、取り戻そうと必死に動くことで傷を癒してきたのだ。
どちらにしてもどこまでも不器用な私達である。
祖父が、心配するのも無理ないかもしれないと思った。
『勝矢じいちゃんはいない。だけど、菫はいるんだ。生きている。』
『そうね。』
私は、頷いた。
『菫は、どうなんだ?怒っているの?』
突然、問われた私は、驚いてしまった。
『どうして、私が、怒っていると思うの?怒っているのは、あなたでしょう。私が、全部忘れてしまったから。』
『俺が、菫を置いていったから?ずっと一緒にいるために婚約したのにアメリカに行ってしまったから怒って、俺を忘れてしまったんだ。』
『なんて、自惚れ屋なの!』
一方的な説を展開する宗介に呆れた私は、思わず大きな声言った。
『じゃあ、どうしてなんだよ。』
『知らないわよ。でも、宗介が、あの山での時間を大切にしているのと同じくらいに私も、あの時間が怖い。忘れてしまったことに理由があるとすれば、それだと思うわ。』
『俺は、どうすればいいんだよ。』
呻くように宗介が言った。
『そんなこと知らない。でも、過去の再現なんて、気味が悪いからやめた方がいいと思う。お祖父ちゃんが、生きているなら、まだましの。今更そんなことしたって、死んだお祖父ちゃんが、浮かばれないよ。』
私は、辛辣に言い放った。
『どうして、そんなに冷たいんだよ。』
『これが、普通なの。生きていくのに必要なことよ。』
『なんだよ、それ。じゃあ、忘れることが、正しいってこと?』
宗介は、恨みがましげに私を見た。
『正しいわけないじゃない。私だって、ちょっと自分のことをおかしいなって思う。でも、失ったものを求めるようなことはしないつもりよ。糖子さんにも悪いもの。糖子さんだって、自分の父親と姉を亡くしたのにきちんとそれを抱えて生きているんだから。』
宗介は、しばらく私をじっと見つめていたけれど、やがて深いため息をついた。
『どうして、そんなに真っ直ぐに育ってしまったんだ。』
マイナスの感情のこもった宗介の声は、案外普通の男の子のものだった。
オルゴールみたいに綺麗な部分しかないさっきまでの声よりずっと味のある良い声だと思った。
そして、不謹慎だけど、笑えた。
『あなたこそ、両親が健在なのによくそこまでひねくれたものね。』
『育てた人の違いだよ。』
宗介は、苦々しく言った。
私は、何も言わなかったけれど、その通りだと思った。
宗介をここまで壊れさせたのは、明らかに彼の離婚した両親なのだろう。
『色々言ってしまったけれど、工房をあげる約束は有効だよ。思い出のつまった場所なんでしょ。私よりあなたの方が、大切にできると思う。でも、土地や建物の相続権の譲渡って、面倒そうだよね。一応、契約書でも書いとく?』
宗介から返事がないので了承だと思った私は、パソコンを起動させると、wordで契約書を作りはじめた。
契約書は、すぐに出来上がった。
こういうとき、パソコンて、便利だなと思う。
『はい。内容を確認したら、サインして。』
私が差し出した契約書を受け取った宗介は、まじまじと見つめていたが、サインしようとしない。
『何よ。まだ何か文句あるの?気に入らない部分でもあった?』
私の言葉が終わるか終わらない内に紙が破れる音がした。
宗介が、いきなり契約書を破ったのだ。
『ちょっと、せっかく作ったのに!』
椅子から立ち上がり、抗議の声を上げた私を見上げた宗介は、にっこり笑った。
『いらない。』
宗介は、きっぱり言った。
『は?契約書のこと?でも、私の気が変わったり、親戚の人がほしがったりしたら、後で困るのは、宗介だよ。』
吹っ切れた顔をしている宗介と反対に私は、すっかり困惑してしまった。
『違うよ。工房をいらないと言ったんだ。だから、契約書も必要ない。』
歯切れの良い口調で宗介は、一気に言った。
『えぇ?!どうして?私の言ったことだったら、今更だけど気にしなくていいよ。ただ昔を再現するのはやめた方がいいと言ったのであって、思い出の場所を宗介が所有するのは、ちっとも悪いことじゃないよ。』
『そうじゃなくて。』
宗介は、私の言葉を強い口調で遮った。
『本当に工房は、欲しくないんだ。だけど、婚約は、解消しない。』
『へ?』
私は、間抜けな声を出した。
『それじゃあ、そういうこと?』
『今まで通りだよ。工房の相続権は、菫のもの。そして、俺達は、婚約者同士。』
『ちょっと待って。』
私は、なんだか急にズキズキと痛み出した頭を抱えた。
『さっき菫は、工房をあげるから婚約のことを忘れろって言った。だけど、俺は、それに同意できない。だから、今まで通りだ。』
頭では理解できるけれど、根本的な解決には至っていないような。
『ちょっと、それは。工房のことは分かったけど、婚約者っていうのは、身に覚えがないので、忘れてもらえない?』
『ダメ。だって、俺、菫に興味があるんだもん。』
平然と言い放つ宗介に私は、呆れて物も言えなかった。
『菫には、悪いけど、俺は、勝矢じいちゃんの賭けに乗るよ。』
『賭けって・・。』
『菫の口から一緒にあの工房で暮らそうって言わせてみせる。』
『さっきの話、聞いてなかったの?過去を再現するなんて、馬鹿げて・・』
最後まで続けられなかったのは、私の唇に違和感を感じたから。
生暖かくて柔らかい、その感触は、私にとって未知のものだった。
宗介のアーモンド色の瞳が、鼻先に見えた。
何が起こったのかよく分からなかった私は、ただぼんやりと宗介を見つめていた。
『過去の再現なんかじゃない。明るい未来の話だよ。』
『未来?』
呆けたままの私は、繰り返した。
『そう。菫に俺のことを好きになってもらうってことだよ。簡単だろ?』
宗介は、得意げに笑った。
『そうだね。簡単・・・』
私の中でプチンと糸が切れた音がした。
気がついたら、宗介の頬を叩いていた。
『最低!馬鹿!死んじゃえ!』
動転していた私は、とにかく思いつく限りの悪態をついた。
『なんだよ、キスぐらいでガタガタ言うなよ!』
かなり力の入った平手を食らった宗介は、怒ったが、私の怒りはその比ではなかった。
『キスぐらい?!何よ、それ。アメリカ帰りだかおフランス帰りだか知らないけど、やっていい事と悪い事の区別もつかないわけ?』
『なんだよ、おフランス帰りって。』
呆れたような宗介の言い方が、私の神経をますます逆なでした。
『知らないの?無神経で調子に乗った大馬鹿ヤローって意味よ。』
『差別発言だね。日本じゃ、好きな子にキスしちゃいけないのかよ。』
『合意の上でするものでしょ。それに宗介は、私のことなんか好きじゃないのに。』
『俺が、お前のこと好きかどうかなんて、お前が決めることじゃないだろう。』
宗介が、苛立たしげに言った時だった。
『それも一理あるね。』
突然、第三者の声が入ったので、宗介と私は、驚いて後ろを振り向くと、コンビニふくろを手に提げた糖子さんが、にやにやしながら立っていた。
『あれ、どうした?続けないの?』
糖子さんは、面白そうに固まっている私達を見比べた。
『・・・糖子さん、いつから見てたの?』
私は、恐る恐る尋ねた。
『キス。ビンタ。痴話喧嘩。』
私の質問に糖子さんは、すらすらと答えた。
消えたくなった。
宗介も同じ気持ちのようだった。
『俺、帰る。』
低い声で言うと、すたすたと玄関の方へ行ってしまった。
『じゃ、見送ってあげるわ。』
そう言って追いかけようとした糖子さんを私は、引き止めた。
『どうして、宗介を怒らないの?嫌いじゃなかったの?』
『あら』と言って、糖子さんは、艶っぽく微笑んだ。
『気に入らなかったのは、あの子が、ちょっとおかしかったからよ。でも、ちゃんと本気になったみたいだから。』
『本気?何に?』
『もうすぐ分かるわよ。高等部から一緒に学校なんでしょ。』
『もう来ないよ。工房のことも解決したし、私、ビンタもしたし。』
『それでも来るわよ。』
糖子さんは、妙に自身ありげに言った。
『なんで、分かるの?』
『大人の女の勘。』
その後の話はこうだ。
5ヵ月以上もの間、宗介の姿を見なかったので、糖子さんの「大人の女の勘」は、外れたかのように思われた。
私は、穏やかにそこそこ楽しく、中等部最後の半年を楽しんだ。
小さな変化があったとすれば、日向ぼっこ仲間として、小岩井育と交流を持つことになったことぐらいだ。
目立つ小岩井君なんかといたら、面倒に巻き込まれる嫌だと思って避けていたけれど、お互い意識しないのにあまりにも頻繁に一人でくつろいでるところでばったり出くわすので、その内開き直って、普通に話すことした。
いつも自然体な彼にある種の好意を持ち始めたせいもあったけれど、小岩井君といると、気楽だった。
これが、恋なのだろうかと考えてみたけれど、やっぱりよく分からなかった。
そして、恋という言葉といつもセットになって私の頭に浮かんでくるのは、なぜかもう会うこともないだろうと思っている宗介だった。
生まれて初めてキスの相手だからかもしれないが、宗介を思い出すと、腹立たしくて恥ずかしい妙な気分になった。
そんな風に時間は、どんどん過ぎていき、思い出すことも少なくなった頃に宗介は、私の前に現われた。
春休みも終わりに近づく風の強い夜だった。
中等部最後のクラス会に参加した私は、途中まで一緒に帰ってきた杏子と別れ、夜道を走っていた。
私の住むマンションの裏にある公園にさしかかった時だった。
ふと白い綿煙のようなものが見えた気がしたので、公園の中を覗いてみると、一本の桜の木が目に止まった。
時期的に満開とまではいかなかったけれど、夜の桜は、幻想的だった。
なぜか懐かしい気がして、目が離せなかった。
桜は郷愁を誘うのだろうかなどと思いながら、しばらく遠目から桜を眺めていた私の視線の端に人影があるのに気がついた。
向こうも私の存在に気がつき、目と目が合った。
アーモンド色の瞳は、変わっていなかった。
宗介は、うれしそうに目を細めると、私に駆け寄ってきた。
『菫もこの桜が、好き?』
5ヵ月ぶりに会った宗介は、開口一番にそう言った。
『うん、まあね。』
昨日も会ったみたいな口ぶりに少し腹を立てた私は、同じように気にしてなさそうに素っ気無く答えた。
『そっか。この桜はさ、黒鎚山の工房の裏にあった桜の木に似ているんだ。懐かしくてさ。思い出しちゃったよ。』
久しぶりに見る宗介の笑顔は、ちょっと情けない優しさがあった。
彼なりにお祖父ちゃんの死と向き合った結果なのだろう。
切なくなった。
努力に免じて、キス事件は、忘れてやるかと考えていたら、宗介がまた口を開いた。
『入学式もうすぐだな。俺の制服間に合うかな。』
『へえ、アメリカの学校にも制服ってあるんだね。』
『へ?アメリカ?』
妙な顔をした宗介を見て、嫌な予感がした。
『まさか、宗介。日本の学校に通うつもりなの?』
宗介は、心外だという顔をした。
『だから、初めから言ってるだろう。菫と同じ高校に入るって。』
桜は、好きだ。
だけど、怖い。
懐かしい匂いのする木の傍には、あの子がいるから。
美しくて残酷な。
脆くて魅惑的な。
優しい悪魔がいるから。