4章 第9話
外に出ると真っ先に、夜空に浮かび煌めく満月が瞳に映った。
そんな美しい月を何気なく茫然と見つめていると、柔らかな口調で話すシュティレドの声が聞こえてくる。
「皆んな、準備はできたかい?」
とても穏やかな合図が鼓膜へ伝わった瞬間に辺りを見渡すと、シュティレドに向かって皆が頷いているのが分かった。
も、もう出発するのか……。
心の準備がまだ出来ていない俺だが……取り敢えず空気を読んで、皆と同じ方へ視線を向けて首を縦に振る。
と、
「それじゃ、いくよっ!」
目線先で笑顔を浮かべているシュティレドは大きな声を上げて途端に、背中を丸めて蹲るように、しゃがみ込んだ。
猫背の背中をジッと見てみると、着ている黒スーツの背に二つの大きな穴が開いていることが分かる。
それと、右脚にくっ付いて離れそうなかったドルチェの姿はもうなかった。
しかし、今はそんな事はどうでも良い。
……急にどうしたんだ!?
内心驚き心配して立ち尽くしていると、シュティレドの様子……それと、容姿に少しの変化があらわれてくる。
丸く猫背になっている背中心から、ゴツゴツと硬そうな鱗に覆われている漆黒の翼が左右対称に、ニョキニョキと二つ生えてきた。
変化はそれだけで、翼が生えてきた以外に外見の変化は見られない。
今のシュティレドの外見から、黒スーツに二つの穴が開いていた理由が、翼の所為だと確信する。
というか、いきなり翼を生やすって……一体どんな身体の構造をしているのだろう??
現状況に少しばかり戸惑いを隠せないでいると、
「ねぇ……貴方は、空を飛行することが可能なのかしら?」
右視界端に立っているイリビィートが、急にそんな事を平然とした顔で言ってきた。
もちろん俺は、
「普通の人類種が、空を飛べると思うか?」
冷静な口調で、空を飛べない事をシッカリと伝えた。
すると、イリビィートは首を縦に頷かせながら、
「そうよね。人類種が己の力で空を飛行する事は、願っても叶わないことよね……」
キチンと納得してくれたのは良いことなのだが……なんだろう、無性にブン殴りたい。
多少の苛立ちを感じていると、次は左視界端からユンバラの声が聞こえてくる。
「おい、お前らサッサといくぞっ!」
そんなことを急に言われても……どうすれば良いんだ? 俺は空を飛べないんだぞ?? 急にそんなことを言われても困る。せめて、絶対に沈没しない船を用意してから、そう言って欲しいな!!
内心で色々と愚痴を吐きながら、左へ顔向きを変えるとドルチェの姿が瞳に映った。
「ねぇ、お兄ちゃんもウチと一緒に行くぅ??」
首を横に傾げて誘ってくるドルチェの右腕には、ユンバラがギュッとしがみ付いているのが確認できる。
……うわっ。なんか凄い情けない姿だな。
目前の光景が目に焼き付いた俺は、思わず後退りしながら、首を横に振って誘いを断った。
そしてすぐに、隣にいるイリビィートの耳元で小さく呟く。
「なぁ、お前ってどうするの?」
俺の微かな声を聞き取ったイリビィートは、シュティレドの方を指差してニヤリと笑みを浮かべ、
「もちろん、ボスに運んでもらうわ」
……俺も、そうしよう。
そんなことを感じた時だった。
イリビィートが、再び口をユックリと動かして俺に言う。
「でも貴方は、ドルチェに運んでもらいなさい」
……はぁ?
突然にそう伝えられた俺は、困惑しながら理由を問い掛けてみる。
「どうして、そうなったんだ?」
首を不思議そうに傾げる俺の姿を瞳に反射させるイリビィートは、再び平然とした表情で唇を動かす。
「だって貴方、ドルチェに誘われていたじゃない。それに、ボスの左腕をよく見てみなさい……」
俺は落ち着いた言葉に従って、シュティレドの左腕をジックリと確認することにする。と、あることに気付く。
……ベジッサが、シュティレドの左腕を両手でギッチリと掴んでいることに気付いた。
そんな現状の確認を終えるなり、イリビィートが悪戯めいた笑みを浮かべて俺に言う。
「いくらボスとはいえ、三人も運ぶのは相当苦労するでしょうね。だから、貴方はドルチェに運んでもらいなさい」
……確かに、シュティレドへ迷惑を掛けるのは申し訳ないな。
俺は泣く泣くコクンを頷いて、ドルチェの方へと向かうことにする。
…………。
……いや、待てよ。ドルチェって幼女だよな? 大人な体型をしている男を二人も運ぶことが可能なのか??
「なぁ、イリビィート!! 今思ったんだが、ドルチェの負担も結構大きくないかっ?!」
俺は歩き出した脚を踏み止めて背後を振り返り、シュティレドが居る方へ進行しているイリビィートに問い掛けた。
常識的に考えて……幼児体型のお子ちゃまが、大きな体格をした男を二人も抱えて運んだりするのは、無理なのではないだろうか??
そんな疑問を感じているうちに、俺の声が届いたのだろう……。イリビィートは脚を止めて、此方へ顔を振り向けてきた。
そして、落ち着いた口調でこんな言葉を投げ掛けてくる。
「……貴方とユンバラの二人を運ぶことぐらいは、ドルチェにとって容易いことだと思うわ」
……は? 容易いこと?? 何を言ってやがる。
俺の頭が混乱し始めると共に……イリビィートは再び脚を動かして、シュティレドの方へと歩き向かって行く。
段々と遠ざかっていくイリビィートの背中を見つめながら、頭を悩ませている時だった。
突如、後方から……、
「ねぇ! 早くしないと、置いていっちゃうよぉ?」
少しばかり片言な、可愛らしい声が聞こえてきた。
口調の癖などからして、ドルチェの声だと判断ができる。
俺はそんな風に声主を予想しながら、背後を振り向く。
すると……少し遠くに、片手を上げ振って『早く来い』と合図をしてきているユンバラとドルチェが、視界に入った。
やはり声の主はドルチェだった。
見た感じ……ペフニーズィへ出発をする準備が整っているのが分かる。
先ほど誘いを断った俺に対して、『一緒に行こう』と再び誘ってきてくれているドルチェに、有り難みを感じる。
それと……もう出発すると考えたら、急に緊張してきた。
もうすぐ旅立つという事から生まれた『興奮』と『焦り』で胸を高鳴らせながらも、息継ぎ程度に何気なくシュティレドの方へ顔向きを変えてみる。
視界に映ったシュティレドは、左右の腕にイリビィートとベジッサを抱き抱えながら、翼を広げて飛び立つ準備を整えていた。
どうやら準備が不十分なのは、俺だけらしい。
……急がなくちゃな。
俺は内心そんな事を感じながら、後方へ顔を向け直すなり、ドルチェ達が待つ場所まで駆け足で向かう。




