誰が少年に同情しようか
憎むべき太田川を思惑通り周りの人間に叩かせることに成功し一時は歓喜した藤村であったが、
段々と心中も穏やかで無くなっていった。
この日藤村が早目に学校へつくと、クラスの女子が丁度太田川の机に花瓶を置いているところだった。
それを見てイライラとしだす藤村。
自分で蒔いた種とは言え実際にいじめの現場を見続けていくうちに、内に秘めていた正義感が姿を見せたのか藤村は段々といじめが自分の周りで行われていることに嫌悪感を抱きはじめたのだ。
「おは……え……あ……」
そのうち太田川が教室に入ってきて、自分の机に置かれた花瓶を見て泣き顔になる。
うつむきながら机に向かい、花瓶を持って教室を出て行く太田川。
その様子を見てゲラゲラと下品な音を立てて笑うクラスメイトの女子達。
それは最早財布を盗んだ犯人に対する正義の鉄槌でもなんでもなく、嫉妬や八つ当たりからくる嫌がらせ。
不愉快そうにその笑い声を聞きながら、自分自身も彼女達と何ら変わりのない存在なのだと思い始める。
違う、自分はあいつらとは違うと必死で自らを擁護するもプライドの高い彼は自らの汚い心に苛まれる。
それでも藤村は太田川に対する憎しみを消すことなどできず、傍観者としての立ち位置を続けていた。
そんなある日、藤村が家に帰る途中、太田川の母親と鉢合わせる。
「あらきりちゃん、こんばんわ……」
「こんばんわ、おばさん」
「……ねえきりちゃん、最近どうも三角州がいじめにあってるらしいの」
「……! そう、なんですか」
太田川の母親にそう言われ、心拍数の跳ね上がる藤村。
藤村は目上の人間からの評価を特に気にする人間であった。
大人の前では常にいい子でありたいと考えていた。
いじめの存在を知らないと答えたが、心の中では彼女は太田川を助けようとしない自分を軽蔑しているのではないかと恐怖を覚える。
「ねえきりちゃん、ウチの三角州のこと、支えてあげられないかしら?」
「……はい、任せてください。いじめなんて許せませんからね」
「ありがとね、きりちゃん」
目上の人間、それも身近な人間にそのような事を言われてはっきりと断ることのできる人間など滅多にいないだろう。
それに加えて藤村は約束、特に目上の人間に言われたことは守るタイプの人間であった。
そうしなければ、大人からの評価が崩れてしまうから。
「桐流、最近三角州ちゃんがいじめを受けてるんですって。アンタ知ってたの?」
「……知らなかったよ。まさかあいつがいじめを受けていたなんて」
その晩、両親と夕食と食べる際に彼の母親がその話題を口にする。
両親の前でいじめを見て見ぬふりしてきた人間、ましてやいじめを扇動している人間だなど馬鹿正直に言う事のできる人間など藤村でなくても早々いないだろう。
藤村は否定しながらも、両親には嘘を見抜かれているのではないかと恐怖する。
「最近三角州ちゃんすごく寂しそうだったもんねえ……そうだ、アンタこれから毎日三角州ちゃんと一緒に登下校しなさい」
「……わかりました」
「うむ、流石は俺の息子だ。いじめられている女の子を守るなんてな」
両親に評価されて一瞬喜ぶ藤村ではあったが、この時ほど自分のいい子ぶる癖を呪ったことはなかった。
同級生や太田川に対する態度のように、ありのままの態度を大人達にもしていれば、
ここまで期待されることもなかったのだろうか、と。
こうしてその日の翌日には、太田川を守る騎士にならざるを得なくなった藤村。
太田川の家に出向いてチャイムを鳴らすと、中からは目の焦点があっていない太田川が出てくる。
「……おばさんから話は聞いてるんだろ? 学校行くぞ」
「おはよう、きりくん。……ごめんね。……ありがと」
不気味に思いながらもそう言うと、太田川は目の焦点が合わないままうすら笑う。
少し前までの楽しそうに自分の横で話をする太田川も煩わしく思っていたが、
陰鬱な太田川に比べればまだマシだ、こいつのどこが天才だ、弱い弱い女じゃないかとイライラし始める。
「私、何かしたのかなあ……? ごめんねきりくん、ごめんね、ごめんね」
「知るかよ、辛いなら転校でもしろよ」
共に学校に向かう間しきりに謝ってくる太田川にイライラを抑えることができず、いつもより強く太田川に当たる。
「そしたらきりくんと……ごめんねきりくん、私なんかのために。きりくんのためなら私なんでもするからね。……その、スカートもいっぱいめくっていいよ」
「……ば、馬鹿かお前は! 誤解されるだろうが! そういうのは人のいない場所で、じゃなくて!」
もじもじとそんな恥ずかしい台詞を言う太田川。
孤立した状況で太田川が今まで以上に藤村に好意を寄せるようになってしまったであろうと藤村も予測はしていたが、なんでもすると言われて気が動転してしまい顔を真っ赤にして取り乱すも、同時に興奮めいたものを感じていた。
学校の近くまで来たところで、太田川が立ち止まる。
「ありがときりくん。きりくんと話せて少し楽になったよ。きりくん先に行っててよ、私遅れて行くから」
「あ、ああ」
太田川にとってみれば藤村に風評被害を与えないための配慮であったが、
藤村は『きりくんは弱い人間だから傍観者になることしかできないんだよね、でも大丈夫だよ、私わかってるから』と勝手に脳内で自分の弱い心を見透かされる被害妄想を繰り広げてしまい、歯ぎしりしながら教室へ向かうのだった。
少しして遅れて教室に入ってきた太田川は藤村に申し訳なさそうな視線を送ると、自分の机に座って黒板をぼーっと眺める。
学校で太田川が藤村を頼ろうとすることはなかった。
その気遣いが、逆に藤村を狂わせる。
親の言いつけ通り藤村は太田川とこっそりと登下校を共にするも、
「きりくん、私と一緒にいるの嫌だったらちゃんと言ってね。いじめは無くなったって、私お母さんに言うから」
「……別に」
「無理してない?」
「してねえよ!」
毎回のように卑屈になる太田川に辟易する。
「……おい太田川、体操服無いんだろ。俺は今日サボるから貸してやるよ」
「え、でもきりくんに貸してもらったってばれたら」
「テープで名前のところ隠してあるから。少しきついだろうけど」
「う、うん。ありがとう……」
気づけば藤村は、予備の体操服も破かれてしまった太田川を人気のいない場所に連れ出し、自らの体操服を貸し出していた。
どうして俺はこんな女のためにこんなことをしているのだろうと藤村は自分自身の感情がわからなくなる。
太田川を追い詰めるつもりが段々と自分自身が自滅していく様に、もううんざりだ、教師は何をやっているんだ、早くいじめを解決してくれと思うようになる。
そんなある日のこと、いつものように太田川と帰る途中、太田川が不意に藤村に問いかける。
「ねえきりくん、なんで私を守ってくれるの?」
「……親に言われたから」
「だったら、私から言っておくよ、もう大丈夫ですって。きりくんにこれ以上迷惑かけたくないし」
「そんなこと言う必要はない」
何故自分は太田川の提案を拒否しているのだろうか、太田川が口裏を合わせてくれれば何の問題もないはずなのに。太田川が苦しむのを眺めていられるのに。
「何で?」
「……」
藤村は自分でも理由がわからずにうつむく。
理由はわからないが、太田川が期待している答えはなんとなくわかっていた。
『太田川のことが好きだから守っている』……太田川の求める答えを想像するうちに、段々とそれが真実なのではないかと思うようになる。非常に納得の行く答えだからだ。
そんな馬鹿な話があってたまるか、もっと別の答えがあるに決まっていると必死で理由を考える。
「許せないからだ」
「……何を?」
「いじめが! 俺はいじめが許せないからだ! 俺はいじめなんてする弱い人間なんかじゃない!」
「うん、きりくんは強い人間だよ。私よりもずっと」
藤村の辿り着いた答えは正義感であった。
太田川に自分が弱い人間だと思われているのが我慢ならない。
自分は周りの人間とは違う、強い人間なんだ。
自分の弱い心を全て否定し、太田川に見栄を張る藤村。
見栄っ張りな藤村はこの日を境に登下校外でもきっちりと太田川を守るようになった。
自らが引き起こしたいじめを、自らの手で解決しようとした。
太田川の味方をすることで自らもまたいじめの被害に遭うこともあったが、
クラスメイトに何と思われそうと関係ない、ただ太田川や両親に自分が強い人間であると証明したいと藤村は太田川を守りながらも戦い続け、
「おはよう太田川さん」
「おはよー!」
「太田川、学校終わったら野球しようぜ」
「うん、いいよ」
長い時間をかけながらも、ついにはいじめを解決して見せたのだ。
太田川の評判も、太田川の性格も、すっかり元に戻っていた。
藤村が太田川へのいじめを扇動したのが小学校4年の秋のこと。
それから傍観者となり、騎士となり、いじめを解決した時には、
既に藤村は小学校6年生となっていた。太田川とは結局6年間同じクラスであった。
クラスメイトと楽しそうにお喋りをする太田川を眺めながら、
藤村は溜まりこんだ疲れを放出するかのようにため息をつく。
いじめを解決して見せた藤村は担任や両親といった大人に褒められたが、
見て見ぬふりをしてきた大人たちに褒められたところで大して嬉しさは感じない。
自らがいじめを扇動したという事実をチャラにするくらい自分は素晴らしいことをした、自分は大人よりもずっと強い人間だと一人で納得しつつも、同時に虚しさが残る。
思えばあんな女のために随分と無駄な時間を費やしてしまった。
未だ太田川への憎しみは消えないが、少しは太田川に復讐も果たすことができたのだ、中学は男子校にでも行って太田川と完全に関係を断とうと考える藤村であったが、藤村は失念していた。
元に戻った関係ではあったが、劇的に変わってしまったものがあったのだ。