少年の小さな身体では耐えきることなどできやしない
「また太田川が1位かよ、しかもパーフェクトって。平均点どの教科も40点くらいなのにな」
「本当にすごいよね、太田川さん」
この日小学4年生の藤村桐流が自身の通っている地元の私立小学校へ行くと、先日行われた定期テストの結果が貼りだされており、同級生がそれに群がっていた。
藤村もそれに混じり、結果を見る。
総合1位 太田川三角州 100 100 100 100 100
総合2位 藤村桐流 85 95 86 88 78
「太田川さん本当にすごいよね、あれで運動神経も抜群だし」
「手先とかも器用だよ、ピアノの演奏が凄かった」
「しかも女の私から見ても可愛いもん、卑怯だよ」
テスト結果に群がる人間は、皆して総合1位の人間を称えていた。
「きりくんおはよー。何々、テストの結果?」
藤村が苛立ちに包まれながらその結果を見ていると、後ろから肩をポンと叩かれる。
振り向くとそこには、龍の髭のようなさらりとした髪をなびかせた、藤村より一回り体の大きな少女、太田川三角州の姿が年相応の無邪気な目で少年を見つめていた。
「あ、きりくん2位だ。すごいね、おめでと」
「……」
頭を撫でながら自身を褒め称える太田川を無視し、教室に向かおうとする藤村だったが、太田川とクラスメイトの女子が聞こえてきて自然と体は立ち止まる。
「太田川さんすごいね、全部満点なんて」
「え、うん。でもきりくんもすごいよ」
「藤村君いつも勉強ばかりしてるじゃん、あのくらい取れて当然だよ。運動とか音楽とかダメダメじゃん。一体一日に何時間勉強してるの?」
「うーん、あんまりやらないかな。あ、きりくんは毎日家に帰って6時間くらい勉強するんだよ。すごいよね」
「あんまりやらないのに満点なの!? 凄いね太田川さん、本物の天才だね」
『本物の天才』という言葉を聞いた瞬間、藤村の目頭が熱くなり、耐えきれずトイレに逃げ込む。
「うっ、ううっ……何が『あのくらい取れて当然』だ、お前はあれほど勉強できるのかよ、俺だって、俺だって」
この時間帯には誰も使っていないであろう体育館のトイレに逃げ込んだ彼は、そこで溜まっていたものを吐き出すかのようにわんわんと泣きだす。
藤村は大層な努力家であり、学業はそこそこ優秀であった。
向上心も高く、毎日のように家に帰れば参考書や問題集と睨めっこする日々であった。
しかし藤村を評価する人間はほとんどいなかった。
理由は彼の幼馴染である太田川の存在であった。
彼女は大層な天才であった。
いつだって藤村の一歩も二歩も先を行く、そんな存在であった。
周りの人間は彼女を天才と褒め称える一方、藤村を凡人だと称した。
太田川が藤村と同じく勉強だけできる人間だったならば、
藤村がここまで責苦を味わうこともなかっただろう。
「きりくん、ファイト」
「うるさい。本気で走れ」
体育のマラソンの授業、遅いながらも決して歩かずに走る藤村の横に、既にグラウンドを1周抜かししている太田川が並び、汗まみれで苦しそうな藤村の肩にタオルをかける。
健康的で少し汗臭い太田川の体操服姿に藤村は少し顔を赤らめるも、余程施しを受けたのが気に食わなかったのかタオルで顔をわしわしとすると、ぐしゃぐしゃとそれを丸めて太田川に返す。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
並走する太田川に挑発されたのか、先ほどまでより速いペースで走ろうとする藤村であったが、息切れを起こしてしまいその場にへたりこむ。藤村は体があまり丈夫な方とは言えず、特に運動神経は病気と言っても過言では無い程劣っていた。
「大丈夫? きりくん、もしかして具合悪いの?」
「うるさい。ちゃんと走りきるから、先に行ってろ」
「うん……」
藤村が太田川を睨みつけると、彼女は寂しそうな目をして、先ほどとは比べ物にならない速度で走り去って行った。
「いやあ太田川は走るのも早いな。将来は学者もいいが陸上選手もありかもな。……おい藤村、お前もう少し真面目に走ったらどうだ? いくらなんでも遅すぎるぞ?」
「きりくんは真面目に走ってるよ? 去年も、マラソン大会の前に夜中に外を走ってたもん」
体育の教師が太田川を褒め、真面目に走っていないと藤村を叱る。
太田川のフォローも最早藤村にとってはナイフでしかない。
「きりくん、ペンケース出来た?」
「話しかけるな……い˝っ!」
「大丈夫? 包帯巻くね」
「触るな、自分でやる」
家庭科の授業、裁縫でペンケースを作ろうと悪戦苦闘する藤村の横では、
お手本通りのペンケースを完成させ、余った材料でポーチを縫っている太田川の姿があった。
太田川に話しかけられたせいで集中を乱したのか元々の不器用さが災いしたのか、思い切り針を指に突き刺してしまい、痛みに悶える藤村。
手当をしようとする太田川を制止して包帯を自分で巻くが、やり方がうまくわからず異常に指の1つだけ包帯で太くなってしまった。
「くそ、こんなもの」
「きりくん、駄目だよ折角作ったペンケース捨てちゃ」
「これはペンケースじゃない、布を半分に折って留めただけの何かだ」
家庭科の授業の後、ペンケースすら作ることのできなかった藤村は悔しさに溺れながらそのペンケースのような何かをゴミ箱に捨てるが、太田川がそれを拾い上げる。
「捨てるなら私が貰うね。かわりにはいこれ、私のペンケースあげる」
「……」
太田川は藤村に綺麗に縫われたペンケースとポーチを手渡すと、嬉しそうにペンケースのような何かに自分の筆記用具を入れるが、未完成品なのでぽろぽろとこぼれてしまう。
藤村は彼女の見ていないところで、貰ったペンケースとポーチをハサミで切り裂くとゴミ箱に入れた。
「ピュー、ヒュー、ピュー!」
「あはは、なにそれ、へんなの。リコーダーはこうやって吹くんだよ、貸して」
「じ、自分のでやれよ!」
音楽の授業でリコーダーからおかしな音を藤村が出していると、太田川が笑いながら藤村のリコーダーを奪って見本を見せようとする。
恥ずかしげもなく間接キスを行おうとする太田川に赤面した藤村がそれを奪い返すと、太田川は悪戯っぽく笑みを浮かべて自らのリコーダーを吹きはじめる。
「~♪~~♪」
それは確かに見事な見本とも言えるべき演奏ではあったが、藤村の技術では真似などできそうになく、役に立たない代物だった。
ともかく、勉強だけではない、何でもできる太田川という存在が、
不器用に努力して勉強することしかできない、その勉強すらトップに立つことのできない藤村への正当なる評価を壊していた。
いや、ひょっとすれば藤村は正当に評価されていたのかもしれないが、身近な存在である太田川に対する藤村の劣等感がそれすらシャットアウトしてしまう。
「きりくん、これから野球やるんだけど一緒にやらない?」
「俺は帰る。じゃあな」
「……うん」
放課後になり、クラスメイト達と野球をするという太田川の誘いを断り、藤村は一人学校を出て家へと戻る。
幼馴染として昔から一緒に行動していたせいか、少なからず太田川が藤村に好意を寄せていることは藤村も理解はしていたが、自らを日陰者へと追いやる存在に好意を寄せられるというのは藤村にとっては辛い以外の何物でもなかったし、まるで太田川が藤村を弟のように扱うのも気に食わなかった。
うつむきながら藤村が帰っていると、自身の家の隣……太田川の家の前を通る際に、太田川の母親と鉢合わせる。
「あら、きりちゃんこんにちは。いつもウチの三角州が迷惑かけてごめんね、あの子勉強とかはできるけどちょっとずれてるところあるから。きりちゃんみたいなしっかりした人がサポートしてくれると嬉しいんだけどねえ」
「こんにちはおばさん。三角州ちゃんのことは任せてください」
大人の前では良い子ちゃんぶった対応をして笑顔で話す藤村であったが、心中では誰があんな女をサポートするものかと吐き捨てる。
「ただいま、母さん。今日テスト結果が返ってきて、俺総合2位だったんだ」
「おかえり桐流。三角州ちゃんは?」
「……総合1位だよ」
「まあ、いつもすごいわねえ三角州ちゃんは。勉強もできるし運動もできるし可愛いし、アンタも見習いなさいよ」
「……」
そんなに太田川が可愛いのなら太田川の母親にでもなってろと藤村は内心思いながら、不機嫌そうにずかずかと家の階段をのぼり、自身の部屋に入る。
ガチャリと部屋の鍵を閉めるとベッドに俯せになり、
「うっ、ううっ、くそ、くそっ、あいつのせいで、あいつのせいで!」
誰にも邪魔されることのないオアシスにしょっぱい水を流す。
しばらくそうして泣いていた藤村であったが、
「泣いてばかりじゃいられない。次に向けて勉強だ」
赤く腫れた目をこすりつつも気持ちを切り替えて机に座り、勉強を開始する。
しばらくそうしていると、
「ただいまー!」
隣の家の方から元気な声が聞こえる。太田川が帰ってきたのだ。
勉強に邪念はいらない、太田川の存在など無視しようと努める藤村であったが、
『ふはははは! よくぞ来たな、勇者よ!』
『魔王! お前の野望もここまでだ!』
隣の家の、彼女の部屋から聞こえるアニメの音に集中を乱される。
部屋の窓を閉めてカーテンも閉めてそれをシャットアウトしようとする藤村であったが、
太田川の楽しそうな声とアニメの音は幻聴となって藤村を襲う。
「あああああっ、くそ、くそ、くそっ!」
恨み言を呟きながら藤村は部屋の壁を殴るが、弱弱しい彼の力では手を腫れさせるだけだ。
それでも藤村は部屋の壁を殴り続ける。
藤村の悲しみは怒りとなってやがて太田川へと向けられる。
何もかも全てあいつが悪いんだ。
あいつさえいなければ、皆俺を評価してくれたのに。
この瞬間、藤村は太田川に復讐をすることを決めた。