走っても走ってもスタートラインにも立てない
「ふぁ~、たくさん遊んだねきりくん」
「そうだな。休みボケなおさないとな」
「それにしても朝から暑いね。きりくんお茶飲む?」
「いや、いい。我慢するよ」
9月1日。まだまだ暑い夏の朝、太田川と藤村は学校に向かって歩く。
水筒のお茶をコクコクと飲んでいた太田川がそれを勧める。
暑がりな藤村ではあったが、誰が間接キスするかよとやせ我慢して拒む。
暑さから気を紛らわせるために、藤村は夏休みを思い返す。
藤村にとって今までの夏休みは、他の皆が休んでいる分努力するチャンスであった。
太田川と遊んだ分の埋め合わせはそれなりにしたつもりだったが、遊ばない夏休みに慣れてしまったのか、どうにも藤村は自分の身体に違和感を覚えて歯がゆく感じていた。
「きりくん帰ろー。学校行事? 何かイベントある?」
始業式を終えた後、藤村が自分の机で学校行事の日程を眺めていると、後ろから太田川が藤村の頭に顎を乗せる。
「月末にマラソンがあるな」
「この暑い中マラソンかあ……。まあ、私は部活の練習で走り込みしてるから慣れているけどね。それより早く水泳したいよ水泳。暑いったらありゃしないよね、水泳いつあるの?」
「俺の頭に顎乗せてしゃべんな。水泳なら明日だ」
「やったー。あ、ちょっと水着きつくなってきたんだよね。一緒に買いに行こうよ」
「そうか太ったか。つうか俺が行ってもしょうがねえだろ、ちょっと用事があるから一人で買いに行って来いよ、いでででで」
「親しき仲にも礼儀ありだよきりくん。じゃ、私は水着買いに行ってくるね。あ、ねえねえ今から一緒に水着買いに行かない?」
太ったと言われて微笑みながら藤村の頬をつねると、太田川はクラスの女子と共に水着を買いに行った。
それを見送り家に帰る藤村。いつもなら勉強等をしていたところだが、今日の彼はいつもとは違う。
動きやすい体操着に着替えた藤村は軽く体操をすると家の外に出て、
「はっ、はっ、はっ」
犬の鳴き真似をする……のではなく、その辺りをジョギングする。
月末に控えるマラソン大会に向けての練習であった。
運動は嫌いだが醜態を晒すのはもっと嫌いな藤村は、せめて下の上くらいにはなりたいと本番前にやる気を出し始める。
「はーっ、はーっ、はーっ」
数百メートル程走ったところで息切れを起こし、ふらつきながら歩いて家に帰るとがぶがぶとお茶を飲み、部屋に戻ってクーラー全開の中ベッドに横たわる。
本番では3キロも走らないといけないのに、これは毎日走らないとまずいな、と藤村はため息をつく。
「どう? 新しい水着」
「柄は同じじゃねーか、違いなんてわかんねーよ」
「もー、そこは褒めてよ」
翌日。水泳の授業になり、海パン姿になってプールサイドで男子達と準備体操をしていた藤村の下へ太田川が嬉々としながら駆けてくるが、藤村には夏休みの時に着ていたスクール水着との違いがわからない。
「うお、見ろよ太田川の水着姿、スタイル良いなあ」
「勃ってきちまったぜ」
太田川が女子達のグループへ向かった後、男子達からそんな声が漏れる。
「そんな目で見るな」
気づけば藤村はそんな言葉を発して男子達を睨んでいた。
水泳の授業が始まり、25mのタイムを測ることに。出席番号の関係上、藤村より先に測ることになった太田川はプールに浸かると藤村にピースサインを向ける。
泳いだ後にするもんだろと心の中で藤村が突っ込みを入れているうちに教師が笛を鳴らし、太田川が壁を蹴る。
プールの時は遊びだった太田川の本気の泳ぎは、藤村に速いと感心させるものであった。
一緒に泳いでいる中ではトップのタイムを叩きだし、濡れた髪で藤村に再びピースをする太田川に軽く手を振りながら、頭の中で理想的なクロールの泳ぎ方等イメージトレーニングを行う。
しばらくして藤村の番がやってくる。
水に浸かり、笛の音と同時に壁を蹴り、先ほどの太田川の泳ぎを参考にしようとするが、身体が理論に追いつかない。
「やったねきりくん、ビリじゃなかったね」
「あんまり褒められてる気がしないんだが」
しかし夏休みの特訓の成果はきちんとあったようで、平均よりは遅いものの以前に比べると遥かにタイムは良くなっていた。
それでも太田川の泳ぎを見てしまった分、藤村は悔しさを滲ませる。
「……うし、走るか」
水泳は簡単に練習できない分、マラソンの練習は簡単にできる。
この日の夜、体操着に着替えた藤村は家を出て昨日よりも少し早いペースで走る。
夜の蒸し暑さと昼の水泳の授業の疲れが藤村を襲うが、執念で1キロ程走り、近くの公園のベンチに座りゼーハーと体を休ませる。
「はい、スポドリだよきりくん」
「ありがとう……んぐっ、んぐっ、あ?」
横から手渡されたスポーツドリンクをグビグビと半分程飲んだところで、ようやく隣に体操着姿の太田川が座っていることに気づく。
「何でお前がここに」
「ずっと後ろ走ってたよ。気づかなかったの?」
「こええよ」
そういえば太田川はマラソンの前になると夜中に練習する習慣を知っていたな、今年は恋人だからとついてきたわけかと一人納得する藤村。
「一人で走るのはきついでしょ。私も走るから一緒に頑張ろ。さ、そうと決まれば家まで走るよ」
そう言うと立ち上がり、早く早くと藤村を急かす太田川。
飲み終えたスポーツドリンクを捨てながら、一緒に頑張ろ、ねえとため息をつく。
「はーっ、はーっ、はーっ」
「大丈夫? ペース下げる?」
「いや、だい、はーっ、じょうぶ」
情けない声をあげながら走る藤村の横では太田川がまるで普通に歩いているかのような表情で心配をしていた。
藤村は心の中で頑張っているのは辛い思いをしている俺だけだ、太田川は頑張ってなんかない。努力は辛い思いをしないと駄目なんだ、そうでなきゃ、俺や色んな人が味わってきた辛い努力が報われないじゃないかと恨み言を呟きながらも、横にいる太田川の手前全力で走る。
「息切れ大分しなくなったんじゃない?」
「そう、か?」
「うん、努力の成果出てる出てる。でもねきりくん、マラソン大会終わっても頑張らないとすぐ元通りだよ、だから女子野球部入ろうよ、一緒に練習しよう、きりくん可愛いから女子に混ざっても大丈夫だよ」
「……」
それからしばらくの間、藤村と太田川は夜になるとマラソン大会の練習を行った。
太田川は成果が出ていると藤村を褒めたが、落ちこぼれが段々と普通に、できて当たり前のことができるようになりつつあるのを成果が出ていると言っていいのだろうか、できて当たり前のことを必死でやって、一体誰が評価するんだ、自分か? 馬鹿馬鹿しい……と藤村は陰鬱になり、練習をもっと増やさなければと考える。
「それじゃ、おやすみきりくん。家に帰ったらストレッチ忘れないでね、筋肉痛で泣いても知らないよ?」
「ああ、おやすみ」
その日の練習を終え、家の前で太田川と別れた藤村。
太田川が家に入ったのを見届けた後、家に帰ることなく藤村は再び走り出す。
こういう人知れず行う努力こそ、実を結ぶのだと自分に言い聞かせながら。
そんな秘密の特訓を数日続けた結果、ようやく藤村は3キロを遅いながらも一気に走りきることができた。次はタイムを縮めないと、そのためにはもっと練習をしないといけないと藤村は更に太田川に隠れて秘密の特訓を行うが、
「きりくん、顔色悪くない? 疲れが出てるのかな、今日は走るのやめた方がいいと思う」
段々と身体が悲鳴をあげ、太田川にも体調の悪さを悟られてしまう。
「大丈夫だって、今日も一緒に走ってくれるんだろ?」
「駄目だよ、きりくん今日は休まないと」
「……わかったよ」
そう言ってその日は太田川と走らずにいた藤村だったが、家族や太田川が寝静まったであろう深夜の3時になると、家を抜け出し、
「はっ、はっ、はっ」
とにかく走る。走れば走るだけ、タイムが縮むと信じて。
「あ、あれ……? 21分?」
しかし、本番を控えた前日の土曜日の昼に太田川と共に3キロを走りタイムを走ると、最初に測った時よりも遅くなっていた。
「疲れが出て体調崩してるんだよ。明日に備えてゆっくり休めば、今のきりくんなら18分くらいになるよ。さ、帰って休もう?」
「あ、ああ」
太田川は尤もらしい事を言ったが、藤村は内心焦っていた。
太田川と家の前で別れた後も、助言を無視して家に戻ることなく再び走りはじめる。
普段は夜中に走っていたが今は昼、しかも先程までは曇っていた天気も晴れて日差しがギラギラと照りつける。
暑さからの汗と、体調の悪さからの冷や汗をだらだらと流しながらも、藤村はこの暑さに耐えて走れば結果は出るはずだ、と休むことなく3キロどころか4キロ、5キロと走って行く。
「あ?」
突如フラっとした感覚が藤村を襲ったかと思うと、電信柱にもたれかかるように倒れて意識が暗転した。
藤村が目を覚ましたのは病院のベッドだった。倒れている藤村を見つけた通行人が救急車を呼んだのだ。
過労や日射病……数日程入院をしなければいけない程、藤村の身体は壊れていた。
病院のベッドの側には入院の手続きをする両親と、怒った顔の太田川がいた。
「きりくん、どうして無茶したの。暑い昼にあんな疲れた状態で走るなんて、私でもやらないよ。きりくん頭悪いの?」
「……悪い。焦ってて」
「きりくんはきりくんのペースで走ればいいんだよ。私毎日きりくんでも無理なく走れるように調整してたんだよ? それなのに……その感じだと、私と夜中走った後も一人で走ってたんだね、体調崩して当然だよ」
「……ごめん」
「……ううん、私もきりくんのそういう性格わかってたはずなのに、ごめん。とにかく病院でゆっくり休んで元気になってね。それじゃ、明日もお見舞い来るね」
そう言って太田川は病室を出る。
普段よりもきつくあたった太田川だったが、正論だな、と藤村は太田川の言葉を反芻させる。
今までガキだと見下していた太田川に諭され、人間としても太田川に差をつけられているようで藤村はどうしようもなく泣きたい気持ちに駆られるが、病室にまだいる両親の手前それができなかった。
マラソン大会の前日に入院したのだから、当然藤村は本番を病欠した。
藤村が病室のベッドで本を読んでいると、扉が開いて太田川が顔を覗かせる。
「調子はどう?」
「ああ、ゆっくり休めてるよ。マラソンどうだった?」
「私? 女子の中では1位だったよ」
「そうか」
しばらく世間話をし、太田川が病室から出て行くのを見届けた後、
「う、ううっ、うううううっ」
情けなさと悔しさで、誰もいない病室で一人泣き崩れる。




