第三話
後片付けをしながら、チームのみんなはわたしのせいじゃないよと言ってくれた。それどころか、褒めてくれさえした。
「高宮さん、今日すっごい良かったじゃん。びっくりしたよ」
「そうだよ~。2試合目のパスとか超良かった。この調子だったら、決勝リーグ進出も夢じゃないかも!」
曖昧に笑いながら頷いたけど、心ここにあらずだった。さっき溢れた油が心臓にこびりついて、嫌な冷たさでねっとりと固まりかけていた。
放課後、鍵谷君とのトレーニングで身体を激しく動かしても、それがはがれることはなかった。それどころか、ますます強度と粘度を増しているようだった。集中しているふりをして、わたしは鍵谷君とのコミュニケーションを遮断した。昨日までとは違う後ろめたさで、いたたまれなかった。はやく時間が過ぎるのを祈った。
「ありがとうございました」
ひと通りの練習が終わって、一礼した。話しかけられる隙を作るのが怖い。ロクに汗も拭わないまま、スニーカーからローファーに履き替え、そそくさと帰る準備をする。
「高宮」
だけど、やっぱり呼び止められてしまった。わたしは怯えた目で声の主を見上げた。
鍵谷君は普段通りのクールな表情で、淡々と言った。
「今日の試合、ちょっとしか見てないけど、ボールの扱い方はちゃんとできてたよ」
わたしは無言のままだ。
「時間がないから、いきなり上達するとかは無理だけど、基本の走り方と蹴り方に慣れれば、あとは実践あるのみだと思う。サッカーはとにかくパスだから、自分のとこでどうにかしようと思わずに、上手い奴にどんどん回していくといい」
「はい……」
蚊の鳴く声よりも幽かに頷いた。鍵谷君の目をまっすぐ見られなくて、乱れた呼吸のせいにして、わたしは視線をゆらゆらと揺らしていた。
「土日挟んで、月曜はもう本番だな」
南西の空で鈍く輝く太陽に目をやりながら、独り言のように鍵谷君は言った。わたしはハッと顔を上げる。こうして教えてもらうのも今日が最後だということに、今さら気づいた。最初から期間限定だった。この4日間、そんな大前提を忘れるほど集中していたのだ。運動が苦手なわたしが、こんなに没頭できたのは初めてのことだった。たぶん、鍵谷君の教え方が上手かったから。
――でも、ほんとうに、それだけ?
「ひとつだけ訊きたいんだけど」
静かな声に、我に返る。鍵谷君はじっとわたしを見ていた。見透かすような、音のない瞳で。
「試合の最後、気が散ったのは俺のせい?」
なんて言っていいのかわからなかった。絶対に違っていたけど、ひとつ語り始めるとすべてがほどけ落ちてしまう気がして、怯えた。罪悪感を抱きかかえたまま、わたしは立ちすくんでいた。
鍵谷君は、それを肯定と受け取ったようだった。
「嫌がってたのに、無理やり練習させてたなら、ごめん」
違います。違います違います。
否定しなければと思うのに、重油は喉の内側を分厚くぴったりと覆っていた。口を動かしているつもりなのに、自分で思っているのの1割くらいしか、実際には開閉していなかった。救い難い空気が流れていた。
鍵谷君は顔の上半分を少し歪めて、微笑した。
「当日、うまくいくといいな。頑張って」
針で突き抜かれたような痛みが走った。なのに、言葉が出ない。わたしは、油にまみれて打ち上げられ、無力に死にゆく鳥だった。
鍵谷君はそんなわたしの横を、ゆっくり通り過ぎていった。すれ違いざまに風が吹いて、舞い上がったわたしの髪が、彼の左手をかすめた。一瞬、鍵谷君の手は宙をさまよって、でも次の瞬間にはズボンのポケットに入れられていた。
ようやく振り返ったときには、すでに彼はいなかった。遠くから、吹奏楽部が練習する音が聞こえていた。
意気地なし。恩知らず。卑怯者。
思いつく限りの自分への呪詛を唱えながら、わたしは何度もボールを蹴る。旧校舎の壁に跳ね返されたボールを、また蹴る。何度も何度も。ボールは友達どころか、哀れな被害者みたいになっている。
日曜の夕方の学校は、さすがに人気がなかった。近所の公園で練習しようと思って家を出たのに、昼下がりの公園はベビーカーを押したお母さんたちや、おじいさんおばあさんのサークルで明るく占拠されていて、わたしは完全に場違いだった。結局、休日だというのに、気づくと電車に乗って学校まで来ていた。今日はどの部活も休みみたいで、警備の人としかすれ違わなかった。旧校舎の裏手まで来れば、いよいよ死んだように静まり返っていた。わたしにはこの場所がふさわしい。
そう、いつだって、場違いなわたし。
明日のスポーツ大会でちゃんとやれるのか、不安ばかりが募った。金曜日にうまくいったのは、たまたま運が良かっただけだ。同じことができるかどうかはわからない。それに、最後の最後にチームを裏切ってしまった。逆に、チームのみんなに変な期待をさせてしまったぐらいなら、気配を消し続けていたほうがよかったのかもしれない……。
ああ、駄目だ。そんなふうに考えるのは駄目。わたしは首を振って、練習に専念しようとする。もう何回も走って、何回もトレーニングを繰り返していたけど、まだまだ全然足りなかった。
どれだけ蹴ったら、無心になれるだろう。どれだけ走ったら、振り切れるだろう。愚鈍で、弱くて、恥ずかしい自分を。
「意気地なし」
力を込めて蹴ったら、ボールは不機嫌な音を立てて壁にぶつかった。高く跳ねあがったあと、いやがらせのように、あらぬ方向へと飛んでいく。急に何もかもしんどくなって、わたしはへたりこんだ。疲れて動けなかった。地面に手をついて、肩で息をする。
わたしは一生、ボールとは仲良くなれないんだろうと思う。あのときからずっとそうだった。小学校の昼休憩での、男女入り混じってのドッジボール。ボールに追いかけられ、転んで血を流したあのときから。思い出すだけで、心臓が止まりそうに痛む。
今も、逃げ続けているのかもしれない。ボールと対峙することを。
ぽすん、と何かがお尻に当たった感触がした。振り返ると、どこかへいってしまったはずのボールがそこにあった。なぜ? 手に取りかけて、わたしは動きを止める。まさかと思う。だけど、まぎれもなく。
「なんで、いつも、後ろから来るんですか……」
放心しすぎて、間の抜けたことしか言えなかった。
「それは、高宮が変なほう向いてるからじゃない?」
鍵谷君は制服のポケットに手を突っ込んで、足裏でボールを柔らかく弄びながら、わたしを見下ろしていた。
「なんで、日曜なのに制服着て、学校にいるんですか?」
「塾で模試受けたあと、ちょっと部室に用があって。それを言うなら、高宮こそなんで日曜にジャージ着て学校いるの」
校名が入った紺色の分厚いジャージの上下に、学校指定のスニーカー。長い髪をゴムで一本にまとめたわたしのいでたちは、涼しそうな半袖シャツの鍵谷君と比べると、あまりにも野暮ったい。
「す、すみません……暑苦しくて」
鍵谷君の表情は、逆光で見えづらかった。夕陽が目に差してまぶしい。汗まみれで地面にへたりこみ、見下ろされている自分の姿は、我ながらみっともなかった。でもよく考えれば、これが本来の、わたしと鍵谷君の距離だったのだ。
「……変なこと聞くけど、貧乏で半袖のシャツが買えない、とかじゃないよね?」
いきなり予想外のことを訊かれ、わたしは目を丸くした。
「親は、普通のサラリーマンですけど……」
「じゃあ、なんでいつも長袖なの? 制服のときも、体育のときも」
なんと返事をすればいいのか、言葉に詰まり、口ごもる。
「脱げばいいのに」
「!?」
思いきり頬を殴られたような衝撃だった。
「むむむむ無理です! ぜったい無理です!」
「なんで?」
「なんでって……」
腰が引けて、わたしは逃げ出しかけていた。でも鍵谷君の、怜悧な切れ長の瞳に射抜かれて、地を這う手が止まってしまう。高いところからじっと見下ろされているわたしに、既に勝ち目はなかった。
ああ、同じだ。あのときと。
そう思った瞬間、絶望的に悲しくなった。まるで、重油の海に溺れているような。
黒い波に引っ張られそうになる。飲み込まれてしまう前に、すがりつくものを求めるように、思わず口にしていた。
「気持ち悪い血だから」
堰を切ったら、止まらなかった。
「見たら、みんな、気持ち悪がると思うから。だから……」
小学4年生のとき、わたしと池部君は同じクラスだった。
明るくて活発で人気者の彼の周りには、たくさんの人が集まっていた。わたしはそんな彼に憧れていた。でもわたしは当時から野暮ったくて、クラスメイトとズレた行動をすることが多かった。よかれと思ってしたことが、裏目に出ることが多かった。わかりやすく言えば、空気が読めない子どもだった。きっと池部君からしてみたら、迷惑で鬱陶しかったんだと思う。
昼休憩のドッジボールに無理やり入れてもらったのは、混ぜてもらえば、自分もクラスの中心に入れるんじゃないかと思ったから。でも、わたしは男子からボールの集中砲火を受けた。ボールは容赦なく飛んできた。コートの上を逃げまどった挙句、池部君の渾身のボールが尾てい骨に直撃して、衝撃でつまずいて転んだ。膝がぱっくり割れて血が流れ出た。それを見て、彼は言ったのだ。
“お前の血、めっちゃ黒くない? 油みたいで気持ち悪りぃー”
みんなが嗤った。男子も女子も。校庭の真ん中で、わたしはたったひとり、惨めな姿を晒していた。
笑い声は透明のドームになって、わたしと周囲を遮断した。わたし自身がタンクのなかの重油だった。閉じ込められたまま、呆然と世界を見上げていた。血は黒い油となって、次から次へ溢れてきた。
こんな恥ずかしい話は、誰にも打ち明けずに死んでいくつもりだったのに。
「……うーん」
鍵谷君が深いため息を吐いた。
話しきってしまうと、みるみるうちに力が抜けた。わたしはだらしなく座りこんだまま、重力に任せてうつむいていた。
「ひどい話だとは思うけど、ガキのやることだから。たぶん、池部は憶えてないと思うよ。高宮のことをいじめようとか、そういうつもりじゃなかったと思う。現に、池部から高宮の悪口なんて聞いたことないし、この話も初耳だ」
言い終わるのを待たず、何度も首を振った。
「わかってます。池部君がわたしを気にしていないことくらい、ずっと見ていたらわかります。でもそういう問題じゃないんです」
わたしは一生忘れられないだろう。消えてしまいたくなるほどの、身体の内側から発火するような、あの恥ずかしさ。もう二度と体験したくなかった。誰にもみつからないように、誰の視界も邪魔しないように、ひっそりと過ごしたかった。
鍵谷君が難しい顔で、腕を組み直した。
わたしは目をつぶる。きっと、こんなわたしにドン引きしているだろう。気持ち悪い女に手を貸してしまったことを後悔して、すぐに離れていくだろう。
だけど、鍵谷君はどこにも行かなかった。代わりに、いきなりしゃがみこむと、「あああ……」と小さく呻きながら、膝を抱えて顔を埋めた。
「き、気分、悪くなりましたか? わたしの話のせいで」
「違う違う。あー、恥ずかし……」
おもむろに鍵谷君が顔をあげた。急に目線の高さが近くなって、ドキッとする。
「ごめん。俺、勘違いしてた」
「え?」
いつも表情を崩さない鍵谷君が、珍しく少し困った顔をしている。
「同じクラスになってから、やたら高宮の視線を感じるなと思って。その割に、目が合うとそらすから……あれ、本当は一緒にいた池部のこと見てたんだな」
池部君をしつこく盗み見していたことは、あっさり気づかれていたらしい。鍵谷君は肩を落して、もう一度ため息をついた。
「てっきり、俺のことを見てるのかと思ってた」
わたしは絶句した。
「それで、助けを求められてるように感じて。“クラスでちょっと浮いてる女の子を、こっそり助けてる自分”に、勝手にいい気になってた」
鍵谷君は熱をはかるときみたいに、自分の額に掌を当てた。
「自意識過剰だったわ。ごめん」
あまりにも驚いて、口をぱくぱくさせることしかできなかった。身体に力が入らなくて、ずっと同じ姿勢をしているものだから、足先がしびれてきている。
「まだ池部のこと好きなの?」
「はいっ!?」
素っ頓狂な声が出てしまう。
「それはないです。ないですないですないです。もう好きとか嫌いとかそういう話じゃないです」
否定しすぎてコントみたいな勢いになってしまったけど、鍵谷君は笑わなかった。そっと首を伸ばし、わたしの目の奥をみつめた。顔が近かった。
「じゃあ、誰か他に好きなヤツいる?」
頬が真っ赤になり、頭は真っ白になった。あわあわと小刻みに震えて、バカみたいに口を開けて、見つめ返すことしかできなかった。長い長い数秒が経つと、鍵谷君が立ち上がった。
「……まあ、いいや。明日本番だし、今日はもう帰ろう」
慌ててわたしも立ち上がろうとしたけど、腰が抜けて、生まれたての仔馬みたいに脚がふらついた。鍵谷君は苦笑いしながら、「ほら」とわたしの肩を持ちあげてくれる。男の子に身体を触られるなんて、いったい何年ぶりだろう。ジャージの生地の上からでも、ぎゅっと強い力を感じた。触られた部分から血液が逆流しそうになって、せっかく立たせてもらったのにくらくらする。
「あっ、あの」
わたしは叫ぶように問いかける。
「わたしのこと、気持ち悪くないんですか」
「何が?」
「昔のことずっと引き摺って、人の目気にして、気持ち悪い人間だなって……」
いつの間にか普段のクールな鍵谷君に戻っていた彼は、ふっと口の端をあげた。
「自意識過剰なのはお互い様でしょ」
夕陽の色が目にしみた。肌の火照りを冷ますように、涼しい風が吹いた。
明日、わたしは、絶対頑張る。そう思った。