第二話
ローファーを置いたまま、スニーカーで帰ってしまったことに気づいたのは、地元の駅に着いてからだった。
翌日は、授業中も休憩時間もずっと落ち着かなかった。鍵谷君の席は教卓付近、わたしは一番後ろの席なので、なんとか顔を合わせずに済んでいた。でも鍵谷君が、すでに誰かにわたしのことを話していたらどうしよう。わたしが異常な人間だってことが、クラス中に知れ渡っていたら。そう考えるだけで、ハラハラして落ち着かない。顔を上げたら鍵谷君と目が合うような気がして、いつもに増して下を向いて過ごした。
そして放課後。
わたしは忍び足で旧校舎の裏手へと向かった。きょろきょろとあたりを見回し、誰もいないことを確認してダッシュする。ローファーは昨日と同じ位置にあった。ほっとしながら手を伸ばした。
「足、意外とはやいね」
突然、聞き覚えのある声が響いて、全身の毛が逆立った。息を呑み、振り返ると、ボールを片手に鍵谷君が立っていた。
「今日は練習しないの?」
嫌な汗が流れた。首筋を通って、背中まで達するのを感じる。
「せっかく足がはやいんだから、練習すればいいのに」
鍵谷君はとても淡々と喋る。ほかの男の子は、もっとふざけたり、騒いだり、むっつりしたりするのに、彼は種をまき、水をやるように喋る。その落ちつきが、わたしには余計に畏れ多かった。
「ただ、猫背気味なのがもったいない。あと1週間しかないけど、走るフォームだけでも直せば、ドリブルもパスも、もっと自然に出せるようになると思う」
何も言えないでいると、鍵谷君がふっと息を吐いた。
「……まあ、迷惑だったらいいんだけど」
「め、迷惑とかではないです」
慌てて訂正すると、目が合った。切れ長の一重の目にじっと見られると、息があがってしまう。わたしは下を向いて、もごもご呟いた。
「昨日、ごめんなさい」
自分の脚が目に入る。ハイソックスの表面が、絆創膏のせいででこぼこしている、汚い脚。
「俺、なにか気に障ることしたかなって、ずっと考えてたんだけど」
わたしはがむしゃらに首を振る。
「違います。鍵谷君のせいじゃなくて……。あの、なんていうか、恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
「下手なのも、転んだのも、恥ずかしくて」
なにより、血を見られるのが恥ずかしくて。
言いながら、わたしはどんどんいたたまれなくなっていた。勝手にコケて、勝手に怪我して、勝手に逃げて、鍵谷君に気をもませていたなんて。どうしていつもこうなんだろう。愚鈍すぎる自分を、呪わずにはいられない。
「すみません気にしないでください。わたしほんとうに、駄目なので。すみません。わたしのことは放っておいてください」
今度こそ、わたしはちゃんと立ち去ろうとした。
「でも、下手なのに練習しないほうが、恥ずかしいことじゃない?」
お天気の話でもするようにさらりと、鍵谷君は言った。
「だから高宮は恥ずかしくないよ」
わたしは動けなかった。動物が自分よりつよい生き物に会ったときみたいに。口を力なく開けて、撃ちぬかれた目で彼を見た。放課後の物音が周りから消えた。無音の底で、今の言葉だけが何度も耳の中でループしていた。
この人は、なんてことを、なんて自然に言うのだろう。
鍵谷君は少しだけ得意そうに、唇の端を上げた。
「違う?」
こうして、何故だかよくわからないまま、スポーツ大会までの放課後、わたしは鍵谷君にコーチされることになった。
「まず、右足でボールを真上から軽く踏んで。ほら、後ろに逸れないように気をつけて。次は右足の裏の指の付け根付近で、ボールを斜め後ろから踏んでみて。できたな。じゃ、左足も同じように。もっかい右。背筋は伸ばす。ハイ、左も。このままあと10回繰り返して」
言われるがままに、わたしは身体を動かし、そのたびに髪も呼吸も乱れる。
鍵谷君の指導はスパルタだった。掃除時間が終わってから、鍵谷君が部活に行くまでのあいだ、わたしは旧校舎の裏手で、彼いわく「基礎以下の基礎」を叩きこまれた。
「終わった? 今度はボールに足を乗せたまま、ボールごと前後に動かす」
「は、はい!」
考えるより先に勢いよく返事する。でもすでに、わたしのヒットポイントはすっかりえぐりとられている。
「いち、に、いち、に……だから、肩は丸めるなって。胸を張って。いち、に、いち、に……」
鍵谷君の指示から振り落とされないことだけに集中して、身体を動かし続ける。
「終了。今日はここまでかな」
鍵谷君が手をパンパンと叩いた。疲れすぎて、へたりこむこともできない。シャツの湿度が、汗でとんでもないことになっている。わたしは膝に手をついた姿勢でじっとたたずみ、息が整うのを待った。犬の呼吸みたいに原始的でうるさい。鍵谷君は特に何を言うでもなく、わたしが放りだしたボールを静かに弄っている。
「ご、ごめんなさい」
二酸化炭素多めの掠れ声を絞り出す。
「気にせず、部活に……行って、ください」
「別に、まだ時間あるから大丈夫」
ふたたび、沈黙。そのなかで、わたしの喉だけがまだヒィヒィと音漏れを起こしている。
「あの」
思い切って声をかけた。
「練習って、こんな感じでいいんですか。体力測定みたいっていうか。もっと、ボールを飛ばすやり方とか」
放課後トレーニングが始まって3日間、ほとんどがランニングとボールを使った足のエクササイズみたいなことだけで、わたしは不安を覚え始めていた。あまりにも運動神経がないから、匙を投げられかけているんじゃないかと。
返事をする代わりに、鍵谷君はぽーんとボールを蹴りあげた。まろやかな青空にボールが吸い込まれていく。
「明日、試合してみればわかるよ」
わたしの呼吸がようやくおさまったのを見て、鍵谷君は自分のショルダーバッグを拾った。
「家でのトレーニングも忘れないで。じゃ」
「あ……」
去りゆく背中に声をかける。彼は横顔だけでちらりと振り返った。
「部活、頑張ってください」
鍵谷君は立ち止まり、片方の眉をあげた。
「それ、高宮が言う?」
背中にまとわりついていた汗が、急にさーっと冷えた。
どうしよう。どうしようどうしよう。気を悪くさせただろうか。せめてもの感謝を、と思って勇気を出したつもりだったけど、運動神経のうの字もないわたしが、サッカー部の彼に口出しするなんて、おこがましかった。わたしみたいな人間にそんなこと言われて、鍵谷君もいい迷惑だ。
絶望した顔で立ちつくしていたら、鍵谷君がプッと噴き出した。
「ツッコんだだけだよ」
「へ……」
笑われている理由が何なのかよくわからなくて、ぽかんとする。鍵谷君が切れ長の目を細めた。
「面白いよね、高宮って。ずっと敬語だし、動きがカクカクしてるし」
「お、面白い……?」
わたしは上手に息ができずに、うめくように聞き返した。鍵谷君は軽く頷くと、左手をあげてひらひらと振った。
「ありがと。そっちも頑張れよ」
そして、まっすぐ旧校舎の向こう側へと去って行った。
わたしは長年、地味で、どんくさくて、気持ちの悪い、つまらない女だった。鍵谷君みたいに、クラスの中心的存在の、運動神経がよくて冴えてる人たちとは、まったく違う世界に生きていた。敬語なのは、同級生とうまく話せないからだし、動きが変なのは、自然な反応の仕方がわからないから。鬱陶しがられるならともかく、面白いなんてとんでもない。
鍵谷君の言葉が信じられなくて、でも、だからこそ、息が止まるくらい、うれしかった。
次の日は金曜日で、4時間目が体育の授業だった。スポーツ大会までの最後の練習日で、今日はとにかく試合を重ねる。
「チームB、頑張ろうね!」
リーダーの三木さんの掛け声とともに、コート内へ向かう。三木さんがそっとわたしの肩を叩いた。
「高宮さん、無理しないでいいから。あたし、近くにいるようにするから、すぐパスまわしてね」
気を遣われている。それが恥ずかしかった。わたしはうつむきがちに頷いた。迷惑をかけたくない。ちゃんとやりたい。
試合が始まる。
ボールはほとんど回って来なかった。その代わり、わたし以外の4人が身体を張っていた。自分が何の力にもなれないことはわかっているけど、せめてゲームの流れを把握できるように、ボールの転がる先を追いかけた。
何故か、いつもより辛くなかった。この前の試合の倍は走っているのに、身体の軽さが違う気がする。
「ボールそっちー!」
三木さんにパスされたはずのボールが、わたしのほうへ飛んでくる。慌てて走り、なんとか足に捉えた。焦った目で三木さんを見ると、敵チームにがっちりディフェンスされていて、動けないみたいだった。ほかの味方選手は、みんな離れたところにいる。
味方の態勢が整うまで、このボールを守らなければ。わたしは覚悟を決めて走り出した。すぐに驚いた。ドリブルする感触が、以前とはまるで違う。少し蹴るだけで、弾むようにどんどん転がっていく。
敵の選手が、真横まで走ってきた。これ以上は無理だと悟ると、とっさにわたしは足裏でボールを押さえた。今までなら、ボールが無防備な状態のままパスを出そうとしたはずだけど、今日は自然に足が動いていた。自分でも不思議だった。
斜め前にいた河野さんが、わたしのパスをキャッチする。
「ナイスパス!」
走ってきた三木さんが声をかけてくれた。顔が赤くなり、心臓がドキドキする。できた。ほんのちょっとだけど、できた。
背筋を伸ばすこと、ボールをちゃんと見ること、足裏を使うこと――。自分に言い聞かせながら走り続けた。結果、パスを3回、ディフェンスを1回成功することができた。こんなの、ほかの人たちに比べたら、大した功績じゃないのはわかっている。でも、亡霊のようにコートの隅に漂っていたわたしとは、もう違うような気がする。
前の試合が押したため、最後の試合はチャイムが鳴り終わってもまだ続いていた。
「終わったチームから、各自切り上げろよー」
そう指示する体育教師の声が掻き消えてしまうほど、ゲームは白熱していた。3対2の1点差で相手チームを追いかける。残り時間はあと1分。土埃が舞い、汗が飛び散り、白線はいくつもの足に踏み潰されてぐちゃぐちゃになっている。
「高宮さん、お願い!」
味方側のコーナーキック。争奪戦から弾かれたボールがわたしの手前に転がって来る。猛ダッシュして、ボールを足に絡めた。
コートの外では、先に試合が終わった人たちが観戦している。
「ガンバレー!」
喋ったこともないようなクラスメイトに声をかけられて、緊張と興奮が跳ね上がった。恥ずかしさと怖さと、ほんの少しの気概みたいなものが、身体のなかで沸騰して、ぐるぐる渦みたいになっている。
右目の端に鍵谷君の姿が映った。練習が終わった男子たちが、女子の試合を見に来たのだ。鍵谷君は腕組みをして、真剣な表情でこちらを見ていた。
鍵谷君の前で、退きたくない。ちゃんと練習の甲斐を見せたい。
わたしは走り出す。ゴール前のいい位置に、三木さんがいる。あそこにパスを出せれば……。
そのとき、鍵谷君の横に池部君がいるのが見えた。さっきまで死角だったから、気づけなかった。コートを指差して、笑いながら鍵谷君に話しかけている。
“お前の血、気持ち悪りぃー”
脳内で変換された。途端に動けなくなった。血管が破けて、黒い油が体内に染み出す。粘っこく重たい感情が、みるみるうちにわたしを支配していく。
ボールを蹴らなきゃ。頭ではわかっているのに、全然足が動かなかった。気分が悪くて吐血しそう。駄目だ、吐血なんかしたら、わたしはまた気持ち悪がられてしまう。みんなの前で嗤われてしまう。
呆然としているうちに、試合終了のホイッスルが鳴った。ああー、という嘆息がコートを包む。
また、わたしのせいで負けた。