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重油少女  作者: 佐井 識
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第一話

<告知>

11月3日、東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)にて開催される「文学フリマ」に3人からなる小説サークル「喫茶マリエール」として出展いたします。

完全新作「アンドロイドは美少女の夢を見る」を収録した作品集『少女カルマ』と、本作「重油少女」を収録した『自意識過剰少女』(2011年6月発行)を販売します。どちらの作品集も、書き下ろし小説3作品を収録しています。

どうぞお立ち寄りくださいませ。

 わたしの血管には、黒い油が流れている。


「高宮さん、そっちー!!」

 コートの端でぽつんと立っていたわたしに、チームメイトの三木さんが叫んだ。試合中だというのにぼーっとしていたわたしが慌てて顔をあげたときには、すでにボールはゆるやかな弧を描いて、足元に着地していた。

「チャンスチャンス! そのままシュートしちゃって!!」

 わたしの周りには、敵の選手も味方の選手もいなかった。ある意味でそれは当然だった。だって、試合に加わらなくて済むように、極力ボールの行方と反対方向に行くようにしていたから。それなのに、いったい何の偶然か、シュートの好機が巡ってきてしまった。今、わたしと敵ゴールのあいだを阻むものは何もない。ゴールキーパーさえ抜くことができれば、勝ち越しの点を入れられる絶好のチャンスだった。

 みんながわたしを見つめる視線を感じて、鼓動が跳ね上がった。汗が噴き出して、分厚いジャージが一段と重くなった。5月の午後の太陽光線は、鋭く容赦がない。

 遠慮がちに爪先でボールを蹴って、走り始めた。だが、左後ろから、猛烈な勢いで敵の選手が走ってくるのが見えた。バレー部の根日屋さんだ。女の子にしてはかなり足が速く、体つきもがっちりしていて、我が2年1組のスター選手のひとりだった。もし体当たりされたら、わたしなどひとたまりもないだろう。跳ね飛ばされて、転んでしまう。

 転ぶ。それだけは避けたかった。転んで怪我をし、血を流すことだけは。

 躊躇して立ち止まり、パスできそうな味方の選手をきょろきょろと探したが、誰もいなかった。

「高宮さん! シュートして!」

三木さんの甲高い声がグランドに響く。

 無理やり脚を動かしたら、たぷたぷたぷと、皮膚の内側で液体が揺れる低い音を感じた。いきなり身体の動きが重くなったようだった。血管を流れる粘っこくて黒い油が、わたしの活動を妨げる。

 危惧していたとおり、根日屋さんがわたしに追いついて、右脚をボールに伸ばした。足がもつれる覚悟で走り続ければ、逃げ切れたかもしれない。だけどわたしはできなかった。転ぶことを恐れて足が止まった隙に、根日屋さんは華麗な足さばきでボールを奪い、そのままコートの真ん中まで走って行った。白いポロシャツが、鮮やかに過ぎ去った。

 あー、という溜息と叫びの入り混じった声が聞こえる。根日屋さんがボールを奪った勢いのまま、シュートを決めたのだ。数秒後に試合終了のホイッスルが鳴って、敵チームが勝利した。つまり、わたしたちのチームが負けた。わたしがチャンスを台無しにしたのは明らかだった。わたしは目を伏せて、黒い影のように、とぼとぼとコートを歩いた。


 この高校では、毎年5月末に、クラスの交流を促進する目的でスポーツ大会が開かれる。男子はサッカーとバスケットボール、女子はミニサッカーとバレーボール。それぞれ、どちらかの競技を選ばなければいけない。せめてバレーボールがよかったのに、勝負運のないわたしは、じゃんけんで負けてミニサッカーのチームに組み込まれてしまった。

 大会まであと1週間だった。体育の授業を潰して練習できる時間はもうわずかなのに、チームの練習試合での勝率はあまり良いとは言えなかった。みんなやさしいから、面と向かって何か言ってくることはないけれど、季節外れの長袖ジャージを着込んで、人より反応の遅い愚図なわたしは、完全に浮いている。

 教室に引き上げる道すがら、別のグランドで練習していた男子たちと合流する。急に池部君の姿が視界に入って、息が止まりそうになる。数メートルうしろを歩くわたしは、彼のほうを直視しないようにしながら、視界の隅に彼の姿をとらえ続けた。池部君は男女数人で、楽しそうに喋りながら歩いていた。そのなかに三木さんもいた。わたしは一定の距離を保ちながら、何も見ていない・聞いていないという表情を必死に浮かべ続ける。

 三木さんが、池部君に話しかけた。ふたりはちらりと振り返って、すぐにまた前を向いた。

――わたしを見たのかもしれない。

 わたしがいかに試合で役立たずだったのかを話しているのかもしれない。わたしがチームの足を引っ張っていることを訴えているのかもしれない。

 練習は終わったはずなのに、汗がとめどなくあふれて、恥ずかしかった。周りの人たちに、また変な子だって思われてしまう。わたしの汗は臭いし、濁っている。体内に油が流れているから。

 うつむきながら、できるだけ気配を消して歩いた。ようやく靴箱までたどり着いたとき、もう一度池部君のほうを見た。すでに三木さんはいなくて、池部君は、仲良しの鍵谷君と喋っていた。こちらに気づいたのか、顔を上げた鍵谷君と目があった。わたしは慌てて目をそらすと、更衣室に向かって走った。


 交流の促進を目的としているスポーツ大会が、わたしに何ももたらさないことは充分わかっていた。去年もそうだった。

 でも、せめて足手まといにはなりたくなかった。幽霊のように気配を消して、ゲームの行方を邪魔しない存在でいたかった。

「よいしょ……」

 旧校舎の裏手は、まず誰も来ない。わたしは鞄を置くと、茂みの奥に隠していたボールを取り出した。体育倉庫からこっそりと持ちだしたものだ。

 ローファーからスニーカーに履き替えた。ふう、と息を吐いて、ボールを蹴る。ころころと転がる先まで走って、また別の方向に蹴って、身体の向きを変えて、その繰り返し。

 上手くなりたいなんて、とても思わない。わたしの望みはそれ以下だ。ドリブルしても転ばないこと。すぐパスを出せること。それで充分だった。

「ボールは、ともだち……」

 従兄の家で読んだ少年漫画のセリフを呟いてみる。ボールがぽんと跳ねた。変なところを蹴ってしまったらしい。あさっての方向へ転がって行く。慌てて追いかけて、両手で捕獲した。友達は無理でも、大会までに知人くらいにはなっておきたかったのだけど、ボールにその気はないらしい。

 鞄のところまで戻ってくると、息があがっていた。ボールを転がして、ペットボトルのお茶を飲む。遠くから、吹奏楽部が練習する音が聞こえた。わたしはすっかり汗だくで、長袖のシャツが張り付いて、気持ち悪かった。

「何してんの?」

 誰もいないはずなのに、突然声をかけられて、身体が固まった。ペットボトルが手から落ちる。地面にぶつかって、中身がこぼれた。

 振り返ると、逆光の夕陽を背負って、鍵谷君が立っていた。

 同じクラスになって2か月、話したことなどほとんどなかった。理科のプリントを集めるときとか、すれ違いざまに肩がぶつかって謝るとか、その程度。ただ、池部君と1年のときも同じクラスだったらしく、仲よくしているのは知っていた。明るくてお調子者の池部君と、落ちついていて大人っぽい雰囲気の鍵谷君は、なぜかウマが合うようだった。

「何してんの?」

 もう一度訊かれた。わたしは後ずさる。

「れ」

 どうしようどうしようどうしよう。

「れんしゅうを」

 喉の奥から出てきたのは、山羊が絞め殺されるみたいな変な音だった。鍵谷君こそ何故ここに、と訊きたかったけど、とてもそんなこと言える余裕はなかった。

 鍵谷君が近寄ってくる。思わず肩をすくめたが、彼はわたしを素通りすると、転がっているボールを蹴った。上に跳ねたボールは、次の瞬間鍵谷くんの右太腿に落ちてきた。彼が脚を曲げると、ボールはぽんぽんと軽やかに舞い、従順な小型犬のように彼の脚と戯れた。

「ボールがともだち……」

「は?」

 うめきに近いつぶやきに、鍵谷君が怪訝な顔をする。わたしはぶんぶんと首を振った。

「なんで、こんなところでひとりで練習してんの」

 ほとんど喋ったことのない男の子に質問されると、悪いことを咎められているような気がして萎縮してしまう。

「す、すみません。下手なので……。今日も役に立てなかったし。三木さんたちは頑張ってるのに。だから、自主練的な」

 我ながら支離滅裂な説明だと思う。鍵谷君はしばらく黙っていた。意味が通じなかったのだろうか? もう一度説明すべきかどうか迷っていると、ふいに彼がボールを蹴ってきた。

「蹴り返してみて」

「えっ?」

 困惑しつつも、言われたとおり蹴った。鍵谷君には勢いよく蹴られるのに、わたしのキックでは、ボールは老人のようによろよろと転がっていった。

 いたたまれなかった。だけど、鍵谷君は笑ったりしなかった。

「たぶん、重心がおかしいんだと思う。身体の軸がぶれてる。あと、蹴る瞬間ボールから目をそらしてるでしょ? ちゃんと見ないと」

 淡々と、だけどハッキリと指摘され、わたしは頷くしかなかった。

「はい、もう一回やってみて。猫背にならないで」

 鍵谷君がボールをよこす。言われるがままボールを受け取りかけて、我に返る。

「あの、どうして」

 どうして鍵谷君が、わたしに構ってくれるのかわからない。

「俺、サッカー部だから、ほかの奴より練習の仕方わかるし。スポーツ大会までグランド制限あるから、部活は短縮されてるし」

 そういうことではない。わたしは金魚みたいに口をぱくぱくとさせた。そして、ハッとした。

「もしかして……池部君に何か……言われたんじゃ」

――高宮由子は運動音痴だ。小学校のときからずっと愚鈍だ。しかも知ってる? あいつの血ってさぁ……

 わたしの脳内で、小学生の姿の池部君が嗤った。小学4年生だった。わたしたちは同じクラスだった。あれ以来、わたしは彼と喋れなくなった。

「池部?」

 鍵谷君はきょとんとしたけど、わたしはもう居ても立ってもいられなかった。身体中の血液が――否、重油が、火がついたみたいになって、熱い。たぎるように、恥ずかしい。

「どうもありがとうございました。もう、結構なので!」

 わたしは目を合わせないまま、鍵谷君に素早く一礼すると、鞄とペットボトルを掴み取って駆け出した。

「高宮!」

 強い声で呼びかけられて、心臓が跳ねた。目をぎゅっとつぶる。

「あぶな……」

 目を開いた瞬間、足元にあるボールが目に入った。気づいたら両足が変な形でクロスして、ボールのうえに崩れ落ちていた。両手に荷物を持ったまま、わたしは盛大に転んでいた。

数秒遅れで、激しい痛みがわたしを襲う。足首をひねるのをなんとか避けた代わりに、膝から脛にかけての部分が犠牲になっていた。

「大丈夫?」

 痛みにぼんやりしていたら、鍵谷君が後ろからそっと近づいてきた。

「血、出てるみたいだけど……」

 身震いがした。一も二もなく立ち上がり、わたしはハイソックスを無理やり膝まで引き上げて叫んだ。

「見ないでください!!!」

 わたしの剣幕に、鍵谷君が驚いた顔をする。

「でも、手当したほうが」

「見ないで! 誰にも言わないで!」

 制服に付いた土をろくに落とすこともしないまま、わたしはもう一度駆け出した。一刻も早く彼の視界から消えてしまいたかった。どす黒く流れるものが、日の光の下で露呈してしまう前に。

 わたしの名を呼ぶ声が聞こえたけど、振り返らなかった。

 一足走るごとに、体内で重油が飛び跳ねる。喉元がふさがり、呼吸が苦しくなっていく。


 交通量の多い交差点を走って渡る。いっそわたしなんて、轢かれちゃえばいいのに。そうしたら学校を休めるし、チームに迷惑をかけなくて済む。

 ああ、でも駄目だ。交通事故は駄目。

 わたしひとりが轢かれるだけならいいけど、もし玉突き事故にでもなって、火が出たときが大変だ。怪我した部分から流れ出た油に引火して、大惨事になってしまう可能性がある。

 じゃあ水死は、と思いかけて、これも駄目だと首を振る。ナホトカ号、という印象的な名前の船の事故は他人事とは思えなくて、古いニュースを何度も見た。ぱんぱんに膨れた水死体となったわたしから、重油が流出し、海に広がる図を思い描いた。環境汚染。浜辺に打ち上げられる、油に塗られた鳥の死骸を想像した。

 もっとも恐ろしいのは、火事の現場に居合わせることだ。まさに火に油。天まで燃え上がるだろう。わたしが死ぬのは構わないけど、他の人を犠牲にしてしまうのは避けたかった。

駅まで急ぎながら、一番いい死に方をぐるぐると考え続けた。できるだけ血を流さない死に方が望ましかった。脳溢血はアリかなと思ったけど、死後CTスキャンを取られたとき、わたしの異常な血に気づかれてしまうかもしれない。お父さんとお母さんに迷惑をかけるのは嫌だった。

 汗だくの額を腕でぬぐい、息を整える。いつの間にか駅に着いていた。

やっぱり、心臓発作しかないかな。我知らず、ふふっと笑う。「最適な死に方」を考えると、結局いつもこの結論に達するのだ。

 すれ違ったサラリーマンが、訝しげな顔でわたしを見た気がした。慌てて脚を見ると、紺色のソックスに大きな黒い染みができていた。それを気持ち悪がられたに違いない。わたしは駅のトイレに駆け込むと、自分でも傷口を見ないようにしながら絆創膏を何枚も貼った。こんなときのために、いつも大判の絆創膏を持ち歩いている。でも明日からは、替えの靴下も鞄に入れておこう。狭い個室の中で、わたしはひとり誓った。


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