静かなる想い その2
静かなる想い その2
感情に捕われる事はある意味、幸せだ…。
自分の心に正直に向き合えると言う事は。
その立場に位置する忍の事を考えると、時折、嫉妬と言う感情に捕われてしまう。
そしてその感情に捕われる自分に気付き、ふと、苦笑する。
考えても仕方が無い事だ。
生まれた時から既に決まっていた人生だ。
「坂下」に生まれて、「坂下」で死ぬ。
それが当たり前な事だと感情に植え付けられ、その事に何の疑問を持たない様に生きてきた。
年月と共に、それが本当に正しい生き方だったんだろうか…?と疑問に感じたのは何時の事だろうか。
その都度、考えを打ち消し、目の前に敷かれている道をそのまま進んでいった…。
だが、だんだんと肥大していく疑問は大きな波紋となり、いつの間にか、心の全てを取り囲んでいった。
発端は、あの「出来事」だった。
忍が意識を手放し、自分と戦っていた、あの、3ヶ月間。
その中で、俺も生涯、捕われる事が無い感情に心が奪われていた…。
「恋情」と言う言葉に…。
彼女と出会ったのは、忍が急遽入院し、その事を伝えるべく白樺学園に赴いた、あの日であった。
最初、夏流という少女に出会った時、正直、俺は少し驚いた。
忍が付き合うには余りにも華が無く、静かな印象を与える少女だった。
言うなれば存在が不確かな地味な少女。
そう、輝く様な美貌を誇る忍には、到底相応しいとは言いがたい雰囲気を纏う少女であった。
それが彼女が無意識に放っていた「外観」。
実際は誰よりも自己の考えをしっかりと持ち、凛とした美しさを持つ少女だ。
その事に気付いたのは、忍の看病を彼女が行う姿を見つめだしてからであった…。
「忍は、その、今日も…」
とぎれとぎれ言葉を話す俺に、彼女は柔らかく微笑んだ。
そしてかぶりを振る彼女の様子に、忍の容態に何の変化も無かった事が窺えた。
意識を手放して3週間が経過した。
彼女が忍の看病を申し出て2週間、こうして毎日、仕事帰りに病院に立ち寄り、忍の様子を彼女に聞く事が俺の日課となっていた。
そして毎回、どの様に会話をすればいいのか、悩み考えるのも日課となっていた。
「食事は済ませたのかい?
まだなら、俺と一緒に食事にでも…。」
無難に毎回、同じ言葉を彼女に言う。
そして、毎回、同じ言葉が返って来る。
「有り難うございます。
大丈夫です。
毎日、夕食をすませて病院に宿泊していますので。
その…、お気になさらないで下さい。」
「…そうか。」
「はい」
(そっか…。
食事をすませたか。
ああ、これでまた会話が途切れてしまった。
全く、毎回、同じ言葉で会話を始め、そして同じ言葉で会話が終わる。
俺も気の利いた言葉の一つくらいかければ、彼女も話しやすいのかもしれないが、正直な感想、14歳も年下の、
それも女子高生に何を話せばいいのか…?
忍の事を聞くにしても、今迄の経緯を考えると聞くに聞けないと言うか。
はああ、本当に困った。)
少しの間、沈黙が続く。
何を話せばいいのか、考え倦ねる俺の背広の内ポケットから、突如、携帯音が鳴った。
驚いた俺は、迂闊にも携帯を取り出そうとした弾みに手を滑らせ、携帯を床に落としてしまった。
かちゃん、と言う音が室内に響いた。
壊れてしまったか?と心の中で舌打ちしながら、俺は屈みながら携帯を拾おうとした。
それは同時に行われた動作だった。
夏流も俺と同じく落ちた携帯を拾おうと、椅子から立ち上がり、落ちた場所に屈んでいた。
先に携帯を拾い上げた夏流が立ち上がった瞬間、俺とぶつかり、かけていた眼鏡が床に落ちてしまった。
足下に落ちた眼鏡を拾い上げ、夏流の手元に渡そうとした俺は、自分が動揺しているのが解った。
そう、彼女はとても綺麗な笑顔を浮かべ、俺にお礼を述べていた。
その笑顔に俺は、一瞬にして心が奪われてしまった…。
自分の頬が今迄に無い位、熱を帯びているのが解った。
胸の高まりを感じるこの想いが、俺にとって、生涯の「恋」の始まりになるとは、この時の俺は知る由もなかった。