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蝋涙

作者: LeMac

 岸壁に打ちつけられた白波は無数の飛沫となって砕け散った。沖合の方から吹いてくる寒波が、三羽の渡り鳥の啼き声をことごとく掻き消す。季節が流転して、再び同じ大地に新しい生命を連れて帰る日まで、鳥たちは遠く異国の地で、見知らぬ街で、時間と自然に揉まれながら羽をはばたかせるのだろう。

 ついさっき、僕の幻影が首を吊って死んだ。自分があんなに醜い死に顔をさらすとは知らなかった。無数の人たちが交錯する荒野の途中、ふいに小高い木に上りつめ、ジーンズのポケットから取り出した荒縄で、自分の首をくくる始末。目の前を静かに通り過ぎてゆく縄に、僕は憮然とした視線を送り、あとは到底抗えない地球の引力に任せて――。コクリ、コクリ、コクリ。――朦々とした意識は、立ち昇るタバコの煙に似ていた。実体のない観念のようなもので、どこまで昇っていくのだろうと見ているうちは気付かず、大気に溶けこむ瞬間は意識の届かない場所で起こっている。孤独と呼ぶが相応しいか。たった独りきりを孤と呼び、この名状しがたい虚脱感を寒と呼ぶのなら、僕の胸中に「孤寒」とでも命名したい感慨が渦巻いているのであって―― いやしかし、どこぞで聞いた「孤寒」は異国の言葉で吝嗇を表すのだと。吝嗇とは何か――よるべない一点に立ちつくし、世間が僕に働きかける諸々の頼みを、目敏くヒラリとかわし、身体に傷一つつかないよう描く、無色透明の予防線。また、それによって縁取られた禁忌の世界。固く鍵をかけ、足を踏み入れる者に冷たい視線を送り続ける。それが吝嗇? ……いや、本当はそういったつもりはないのだ。ただ、誰しもが踏み入ってほしくない花園が其処彼処に散在しているのだ。人知れず育てた名もない花々が、外部の者に無碍に摘み取られていく。そんな光景を見たい者などいないだろう。至って平常。至って正常。僕は孤寒。いい響き。寒々とした晩秋の空に似つかわしい。

 振り返れば、哀しみと歓びにだけ彩られた軌跡が長々と敷かれている。人によってその長さは違い、僕の軌跡は右のヤツよりは長く、左の方よりは短い。ときおり混じる激情的な赤味は、興奮ないし怒り。しかしあまりに曖昧なグラデーションゆえ、僕の赤味は美しいとは言えない。汚らわしいとまでは言い過ぎだが。

 岸壁に沿って視線を泳がせると、高さのない空間に、人が立っているのが見える。遠くに霞んで見えるからか、凹凸はない。黒い人影だけ。生命としての温度もあり、目を凝らさないと見えない機微とした動きも確認できる。郷愁の引力。ダーツで的を射るような気持ちで刮目する。ダブルリング。トリプルリング。ブル。ブルズ・アイ。――そこで僕は、彼が喚起する心象風景にゾッとするような淋しさを覚えるようになった。

 僕の軌跡が今よりも随分と短かった頃、僕は彼の軌跡と一度交わったことがある。

「あなたはどこへ向かうのですか?」

 僕がそう訊くと、彼は毅然とした表情で、遠く海の果てを指さし、「あちらです。まだ見えていない水平線の向こうです」とつぶやいた。なるほど。僕の中で、ラシャ板のポケットにボールがコトンと落ちるような閃光がきらめいた。彼が指さす方向は僕がいずれ通ろうとしている場所だった。まだ何もない真っ平な海上。間違いなく静かな細波が震えている筈なのだが、この場所からそれを確認できる術もなく、僕はまだ見ぬ鈍色の空の下に、なんとも独り善がりな高尚さを思い描いていたのだった。そんなとき、同じ航路を目指す同士とも仇敵ともつかぬ存在と出会うことが、僕に冷静さを欠く惑乱を抱かせたのだろう、「まだ見えていない場所を目指してどうなるのです? あの場所には何があるのですか?」と、幾分傲慢な態度で彼に言葉を返してしまった。笹の葉のように鋭い眼で、彼の鼻翼あたりをじっと見遣り、返事を待つ。

「何があるのかはわかりませんが、其処にあるものを壊しに行きます。創造をするためには破壊が必要なのです」

 彼はそう言うなり、また自分の進路を進んで行った。表情は少し笑っていた。侮蔑の笑いでもなければ嘲りの笑いでもない。清々しいほど純磨された微笑だった。一歩めは大きく、時折リズミカルに歩みを進める。決して僕の方を振り返ることなく、路傍から手を差し伸べる悪漢の囁きに耳を貸すこともなく。

 だが今、彼は高さのない空間に立っていた。僕より高くもなく、僕より低くもない場所に立っていた。かつて指さした遠くの海上に居るわけでもなく、ゆらゆらとした黒影だけを空に映し、立ち止まっているようにさえ見える。その瞬間、僕の幻影は死を決意した。嫉妬でもなければ悲哀でもない。失望。絶望。失われた憧憬。ニヤリと頬を弛ませていた自分への怒りと、勝手に偶像化していた彼の未来地図。僕は其処にいるはずだった。そして彼と向き合うはずだった。あなたが言う「何か」を破壊したのち、その荒れ地をブルドーザーで耕し、新芽の出るかわからないそれぞれの種を植えましょう。あなたの育てた樹と、僕の育てた樹は、まだ見ぬ芳醇な果実をみのらせることでしょう。その果汁を世界の海に注ぎましょう。きっとそこに新しい島々が生まれることでしょう。新しい人々が移住してきて、新たな営みを拓けさせることでしょう。――思い描いた未来地図は塗り替えられることがなかった。いや、塗り替えることはできただろう。ただ、それをしなかったのはこの僕だ。彼の所為でもなければ、誰の所為でもない。僕の弱さと脆さが、勝手な支えを勝手に手繰り寄せ、その支えが瓦解した瞬間に、勝手に堕落しただけだ。月の裏側での破滅。孤島での自殺。自己嫌悪。目の前をゆっくりと荒縄が通り過ぎてゆく。掌に残るのは、木の幹の湿っぽい感触。

 つまりは誰もが独りだった。互いの軌跡が交わることはあるにせよ、それは時間の経過とともに遠く隔たってゆく。ある者はまだ見ぬ果てへ。ある者はその場でしきりに足踏みを続け――。立ち止まってせっせと築き上げた白日夢に出てくる生命体は、陰微な裏切りで以て踵を返す。「私の道はあなたとは関係ないのです」と無邪気につぶやいて。

 突如とした失意に白目を剥いていると、挙句の果てには、己の真情にさえも裏切られる。未来永劫そばで見守ってくれると錯覚した真情は、付け焼刃の殻にすぎなかった。少しの圧力でいとも簡単に崩壊してしまうのに、それが何よりも頑強だと見誤る。そう、誰もが一瞬を永遠と錯覚し、その永遠を過信して道を踏み外してしまうのだ。踏み外したときは目の前に暗い壁が立ちはだかり、行く先を暗澹とさせる。もう駄目だ。蝙蝠が羽ばたき、カラスが不気味に笑う。冷たい雨が静かに降り注ぎ、空は世界を呑み込んでしまうほど暗く沈んでゆく。僕は彼から視線を戻し、再び海の果てを見つめた。波飛沫は相変わらず無慈悲。人為など微塵も香らせない。しかしその情景が、僕の沈黙の炎を再び燃え上がらせた。いたずらな足枷を壊し、重たい一歩を踏み出す。誰もが独り。誰もが独り。誰もが独り――。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 一文一文が低くどっしりと構えているという印象を持ちました。しっかりした文章の中に、幾つもの魅力的な言葉が詰まっていて、気持ちというか雰囲気というか、何か言葉では表せないようなのが読んでいて…
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