第1話 声ののど飴 1-4
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翌朝、美咲は飴なしで出社した。
胸には、不安があった。また、あの沈黙に戻ってしまうのではないか。でも、もう逃げない。
午前中、山田が恐る恐る美咲のデスクに来た。
「あの、田村先輩……」
「山田君、どうしたの?」
美咲は笑顔で応えた。山田は少し驚いた顔をした。
「この前の企画書、直してきたんですけど、また見てもらえますか?」
「もちろん」
美咲は企画書を受け取り、目を通した。前回よりずっと良くなっている。
「山田君、すごく良くなったね」
美咲は心から言った。
「前回指摘した部分、全部改善されてる。データの裏付けもしっかりしてるし、論理展開もわかりやすい」
山田の顔がパッと明るくなった。
「本当ですか!」
「うん。ただ、一つだけ」
美咲は一呼吸置いた。言い方を考える。
「この部分、もう少し具体例があると、もっと説得力が出ると思うんだ。たとえば、こういう事例を入れてみたらどうかな?」
美咲は優しく提案した。批判ではなく、提案として。
「なるほど! そういうことか。ありがとうございます、先輩!」
山田は嬉しそうに戻っていった。
美咲は気づいた。飴がなくても、声は出せる。そして、相手を思いやった言葉の方が、ずっと伝わるのだと。もう彼女ののど元に門番はいなかった。
昼休み、美咲は勇気を出して麻衣に声をかけた。
「麻衣、ちょっといい?」
麻衣は少し戸惑った顔をしたが、頷いた。二人は社員食堂の隅のテーブルに座った。
「麻衣、この前のこと、本当にごめん」
美咲は頭を下げた。
「ネックレスのこと、あんな言い方しなくてもよかった。せっかく嬉しそうに見せてくれたのに、私、傷つけること言って」
麻衣は驚いた顔で美咲を見た。
「いいよ、もう気にしてないから」
「いや、気にしてたよね。私、最近ちょっとおかしかった。言いたいことようやく言えるようになったのは良かったけど、言い方を全然考えてなくて」
麻衣は少し考えてから、小さく笑った。
「うん、ちょっと傷ついた。でも、美咲が謝ってくれたから、もう良いよ」
「本当にごめん。あのネックレス、実は可愛いと思ってたんだ。麻衣らしくて」
「ありがとう」
麻衣は笑顔になった。
「美咲、なんか元に戻ったね。優しい美咲に」
二人は笑い合った。胸の奥が、温かくなった。
夕方、美咲は拓也に電話した。
呼び出し音が三回鳴って、拓也が出た。
「もしもし」
「拓也、私」
沈黙。でも、拓也は電話を切らなかった。
「この前は本当にごめん。拓也が悩んでるって言ってるのに、私は責めるばかりで。全然、寄り添えてなかった」
美咲の声は震えていた。辛く当たられたら、たとえそうでも耐えて話を聞いてもらおう。
「私、最近ちょっとおかしかったの。言いたいこと言えるようになったのは良かったんだけど、大事なものまで傷つけてた」
拓也は黙って聞いていた。
「拓也のこと、優柔不断だとか言ったけど、それは拓也の優しさなんだよね。人の気持ちを考えて、慎重に決めようとする。それって、素敵なことなのに」
涙が溢れそうになった。
「もう一度、やり直せないかな。今度は、ちゃんと拓也の話を聞くから」
沈黙の後、拓也が小さく笑った。
「美咲、泣いてる?」
「泣いて、ない」
「嘘だ。声で分かる」
拓也の声は、いつもの優しさに戻っていた。
「俺も、言いすぎたかなって思ってたんだ。美咲が変わろうとしてるの、分かってたから」
「拓也……」
「でも、今の美咲の方がいい。本音も言えて、でも優しさも忘れない美咲」
美咲は涙を拭いた。
「ありがとう」
「週末、また会おう。今度はちゃんと、俺の話も聞いてね」
「うん、約束する」
電話を切った後、美咲は窓の外を見た。夕焼けが、オフィスビルを染めている。
声を出すことは、まだ少し怖い。でも、飴がなくても、自分の言葉で話せる。そして、相手のことを考えながら、丁寧に伝えられる。
それが、本当の「勇気」なのだと、美咲は気づいた。




