決壊
決壊
有栖川 悠歌
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二〇二四年八月二十三日七時十七分。ヴァチカン市国某礼拝堂。紺の伝統的な礼服に身を包んだ一人の枢機卿が十字架の御前に膝を付いていた。その後ろ姿は、枢機卿よりも軍人という肩書に相応しい、屈強で豪胆な物である。熱い生地を幾重にも重ねた礼服の上からでも、その隆々たる広背筋と肩甲骨の形がくっきりと出ている。彼の年齢は優に六十を超えており、その顔には深く皺が刻まれていた。髪も真白く老けていて、その体躯とはあまりに似つかわしくない、年相応に老いた頭部である。云わば、重量挙げ世界選手権上位者の首から上に、近所に住む隠居した難しい顔の老人の頭部を張り付けた合成画像の様な、そんな風貌なのである。しかしその老い枯れた顔面の、その瞳だけは、鷲のような鋭さと、彼の眉間の皺よりもずっと深い強さを内包した光が宿っている。
この枢機卿は、現ヴァチカン市国最高権力者、ローマ教皇猊下の弟君である。信徒や他の枢機卿からの信頼も厚く、彼の言葉は誰にも温かみを以て降り注がれ、彼自身はその強い眼光と老いを嫌悪した肉体を武器として、無限に主に使えることを固く決めていた。しかし、今この時だけは違った。彼は初めて主に対し恐怖した。彼は初めてそのすさまじい肉体を戦慄に震わせ、その深く強い眼差しには涙までもが浮かんでいた。
彼には、毎朝六時に礼拝堂に赴き、そこで二時間の礼拝をする習慣があった。その忠実なる主への想いは、その礼拝堂の、彼の膝を付くその部分の床が他より凹んでしまう程である。他の信徒達も、彼の兄である教皇猊下すらも、其のいびつな円形の中には決して立ち入ろうとしない。その、彼と主だけの聖域とも云える礼拝の内に、屈強且つ清廉な枢機卿を震わせたのは、彼の受けた一つの啓示であった。枢機卿の礼拝の様子をいつもありがたく仰ぎながら他の仕事をこなす礼拝堂の神父達も、どうやら様子の違うこの日の礼拝を、他の仕事はそっちのけで凝視していた。そんな状態にありながら、枢機卿は礼拝を辞めなかった。残りの四十分強を、慄き、震え、冷や汗を掻きながら、それでも忠実に礼拝を続けた。そしてそれが終わると、よろよろと立ち上がり、皺だらけなうえにこの時は更に蒼白となった顔で、駆け寄ってきた神父に、啓示の内容を告げた。
「神は怒りに任せて石を投げられた。日輪を驕る島に目掛けてのことと主は仰った。寛大な主がこれほどお怒りになるとは。私の請願もついぞ聞き届けられることは無かった。かの島は直に、地図から姿を消すであろう。」
枢機卿が怯えているのは、その「島」の破滅に対しては勿論の事であるが、それ以上に、それほどまでに主を怒らせ、寛大な赦しの範疇を超過したその罪の大きなことに、何よりの恐怖を抱いたのであった。神父は問うた。
「その石は、何時頃その島を貫くのでしょうか。」
枢機卿は静かに答えた。
「十一日後の三時五十七分だ。」
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二〇二四年八月二十三日十二時三十七分。エジプト西部某所。モスクに多くのムスリムが、キブラ(メッカのカーバ神殿の方向)に向かってズフル(正午過ぎの礼拝)をささげていた。イスラム教では、特に金曜に集団礼拝が義務付けられており、多くのムスリムがモスクに集まって、こうしてアッラーとの繋がりを確かめるのだ。さて、この中で一際熱心に祈りを捧げる青年がいた。青年の衣服は他の者と同様の見た目で、他のムスリムと何ら変わりないような印象であるが、其の礼法、祈りに掛ける想いの熱さは、明らかに周囲の物とは一線を画していた。青年は街でも評判の、敬虔な信徒であり、若くして町の者から尊敬を集めていた。軽犯罪の横行する彼の地域でも、彼が狙われることはまずありえない程であった。
突然、青年が白目を剥き、首をはち切れんばかりにのけ反らせ「ああっ!」と叫び、ばたりと倒れこんだ。ほんの一秒程で意識を取り戻した青年は、その一瞬に頭に流れ込んできた恐ろしい予言を想起し、されど礼拝は行い続けた。周りの者たちも心配はあれど、その時は敬虔たる青年の信仰を尊重し一旦は滞りなく礼拝を遂行することとしたのであった。そして礼拝が終わり、モスクに集まっていたムスリムは全員、弾かれる様に青年に注目した。誰もがそうするのが当然だと信じてそうした。ムスリムは皆礼拝から身を起こしたままの姿勢で、身体を青年に向け黙り込んでいた。青年もまた、そうするのが当然と思うよりも先に、自らの喉が声を発するのを感じた。
「私は今。予言を受けました。ここからずっと東の島国に、神が空から大地を叩き、揺らし、その島を消し去る決断をされたとのことです。これは神の慈悲であります。世界に病床のように在る罪を、神ご自身が御自らの手で浄化して下さるというのであります。アスル(遅い午後の礼拝)ではこちらも留意しながら、アッラーに祈りを捧げましょう。」
青年は話しながら、自分の様なものが、偉大なるムハンマドやノアのように大義ある予言などをしてよいなど到底思えなかった。それに、遠く離れた島国の破滅以外の予言を賜ることはできなかった。しかし青年は一方で、偉大なる予言者たちの、其の光輝のほんのひとつまみが自分に赦されたことを光栄に思った。だからこそ謹んで、今この時この場所だけでは、予言者として言葉を発したのであった。
その日から青年はモスクで集団礼拝を指揮する導師、イマームとなった。
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雪下は、神棚に向かって立ち尽くしていた。普段の彼の、居丈高に張った胸と反り返った背筋は、共にその平常の様相を失い、無用に勢いよく振り回される両腕はだらりと垂れていた。ただすとんと、そこに居る、というより在る、ただそれだけの様に、呆然と立ち尽くした。とある山奥の、小さな神社の宮司である雪下は、この日の朝の神事の折、脳裏に女の声が聞こえた。どこか、先立った妻の声に聞こえた。また、過去に犯した過ちと同じ数の、それぞれの女の声にも聞こえた。その声は、唯声であり、言葉ではなかった。しかしそれは絶大な怒りと怨嗟であった。統治の腐敗、子孫達の責任の放棄、人間的な活動の至らなさ等、一心に神社を守り、伝統に従って自らを律し、身の回りの者たちを律し、常に姿勢を正している、自分をそう評していた雪下にとっては全く身に覚えのない怒りと怨嗟であった。物音どころか、一切の生気すら失われた様に静まった神前の様子にぞっとした禰宜が、様子を見に入ってきた。明らかに平常と違う雪下の様子は、その威厳、高圧的な雰囲気は消えているが、それ以上に禰宜を震え上がらせた。
「この島国は、直に沈められる。」
それが唯一聞き取れた、雪下のうわ言であった。その日の夕方のニュース番組の途中、九月三日の日本時間十時五十分前後、伊豆半島から六百メートルほどの海上に巨大な隕石が落下するという速報が全国に周知された。その余波による津波で、日本列島の殆ど、少なくとも本州の九割五分は海に沈むであろう、との見立てであった。
日本全土は激震した。ヴァチカンの有力者と、イスラムのとある予言と、国内の山奥の神社とが、ほぼ同時期に同じ事、すなわち日本の消滅を示唆していた。そしてそれらを事実とした巨大隕石接近の報。初めは信じるものと信じないもので別れたのだが、実質的な報道があってそうもいかなくなった。少なくとも日本は消滅することが確定してしまったわけである。敬虔な宗教家たちは祈った。報道は、敢えてその話題を避けた。道徳の欠如した者たちは、どうせ死ぬならと強姦、窃盗、器物破損等やりたい放題であった。そして、守る意味の疑わしい治安を、警官たちは躍起になって守り続けていた。雪下は、娘である星那《星那》に早急に婿を付けようと奔走した。何の意味もない、しかしこうした無益にでも大真面目に向き合っていなくては、狂気に身を焼かれそうなのであった。
星那は二十二であった。母は早くに死に、厳格な父と無気力な兄と三人で育った。兄は何物にも無気力で、結婚すらも父の連れてきたどこぞの女を言われるがままに娶った。星那も基本的には父に逆らうことはせず、お行儀のよい美しい娘に育った。恋愛すら許されていなかった星那に、強いてそれに反することはなかった。ただ一度の恋情を除いては、星那は実に、家と父に従順な娘なのだった。
ただ一度の恋情。高校二年の頃蓮という女とそういった関係になった。新学期の初めの日。始業式の後にホームルームがあり、星那が蓮を始めて認識したのはその時である。始業の初日その日に遅刻して、校則ぎりぎりのぼさぼさ頭でホームルーム中に教室に駆け込んできた。担任の叱責に対し、いかにも反省した態度で「寝坊しました。すいません。」という声は、低いとも高いとも言えない特徴のない声だった。クラスの同級生全員が彼女をおかしなやつと判定した。星那はと言うとその日家に帰って、家の手伝いをする為巫女服に着替えている時も、竹箒で落ち葉を掃いている時も、数十段の石段の下を走り回っている小学生に手を振っている時も、食事中も風呂の中でもずっと蓮が頭を離れないのだった。一度目の席替えで蓮が隣の席に着いた。蓮はよく居眠りをしていた。一年からこの調子だったようで、教師たちは何も言わない。ある日の英語の時間、教科書を忘れたので見せてくれと、星那の席に蓮の席を合わせてきた。英語の教師は昔気質な人間で、寝ている生徒に対して執拗に怒鳴る。それが面倒で、流石の蓮も寝ないようにしているのだが、如何せんこの教師の授業がつまらないもので、特に睡眠常習犯のこの女にとって英語の授業は睡魔との激闘らしかった。いつも眠そうに目をこすって、耳を引っ張ったり軽く体を伸ばしていたり、そういった様子は横目で見ていた。その日は特に睡魔が強力だったらしく、既に限界寸前だった。こくりこくりとどうにか耐えている。その様子が何とも可愛らしい。わき腹をペンで突くとガタっと音を立てて跳ね上がった。クラス全員からちらと視線を向けられた蓮は恨めしそうにこちらを見てから、ふわりと人懐こい笑みを、星那にだけ見えるように浮かべた。
八月二十九日。父に連れられて隣町の旅館に来た。星那の前には正装の見知らぬ男がいた。黒縁の角ばった眼鏡。中肉中背。特段体が大きいわけではなく、にも関わらず弾け飛びそうなボタンのジャケットを着ている。顎の下だけ肉が弛んでいる。東京の、神道に深い大学の出だそうで、大学内に神社の境内があってここで実習を積んだそうだ。いくら何でもこれはないだろうと父を見ると、満足そうな顔で頷いているではないか。星那はぞっとした。別にこれまで素直に父に「従っていた」訳ではない自分を改めて実感した。果たして、日本がなくなる、つまり自分が死ぬという目前になって、面倒ないざこざを避けて父親の御機嫌を取る必要などあるだろうか。目の前の男に対し、相応の礼を考え誰も損をしない方法で縁談をなくす必要があるだろうか。無論否である。自分の死の直前でありながらこれほどまでに達観している自分を、星那は誇りに思った。そしてその誇りを以て言い放った。
「お父さん。こんな不細工とはたとえ数日で在ろうと結婚などしたくありません。」
家に帰りつくまで父は無言だった。家に着くなり父は泣いて謝りだした。「済まなかった」と繰り返すばかりで、何を誤りたいのかわからなかった。次第に、情に訴えて星那の身をさっさとどこかの男に嫁がせたいだけだと気付いた。たかだか小さな神社の神主ごときが、死ぬ前に体裁を整えようと躍起になっている姿は滑稽だった。そうまでして整えた体裁が何の役に立つのかわからなかった。
その夜床に就いた星那はぼんやりと物思いにふけっていた。自分の余命があと四日になった。自分の最後にしたい事とは何だろう。父の場合それは、無駄な体裁を整えることだ。そもそも「最後にしたい事」をしたところで何になるのか。それをした満足なんてすぐに消えてしまうのに。あの何を考えているのかわからない彼女ならどうだろうか。いつもアンニュイな顔で、自分と接する時だけ普段とは打って変わって甘えて来る。かと思えば途端にスンとした表情でじっと黙っている。かろうじて容姿がすこぶる良いという訳ではない。髪は常にぼさぼさで、制服はずっとよれていていた蓮。不器用に顔を近づけ触れるだけのキスをしてきた蓮。おかしなことに、物思いは連との唯一のキスの思い出に移っていた。それは蓮と恋人になった二日後の事だった。例の英語の授業の一件で会話が始まり、そのまま話し込んで行く内に星那の方から申し出た。承諾されるとは露ほども思わなかったが、蓮は何とも嬉しそうに星那の手を握ったのだった。
それから二日後の昼休み。連と二人で昼食を摂りながら、彼女の家の事を知った。蓮が小学生の頃に両親が離婚し、蓮は母親と二人で生活していた。連日夜遅くまでアルバイトをしているらしい。いつも眠そうなのはそのせいなのかと聞くと、「唯朝が弱いだけだよ」と笑っていた。今日も眠いのかと聞くと、多少は眠いと帰ってきた。
「星那さんといるとね、なんだか安心して眠くなるんだ。よくネットでは、相性がいい相手と一緒にいると心が落ち着いて眠くなるなんて言うよね。」
普段は無表情で、教室内の限られた数人としか話していない彼女だが、数日で分かった。連は一度心を許した相手には大分甘い。そのハードルが常人より高いのだが、その中で「恋人」に抜擢された星那はそこまで自分に魅力があるものかと考えることがあった。
星那はこの愛おしい不思議な少女に向けて、両の腿を軽く叩いて見せながら言った。
「眠いなら、もしよかったらどうぞ。」
「じゃあお言葉に甘えて。」
と、蓮の頭が星那の膝の上に置かれる。すると星那の中の愛おしさは更に込みあがった。猫の様に頭を星那の腹に擦り付ける連の、この日は整えられた艶やかなショートヘアを撫でていると、星那の中には興奮とは別種の幸福があった。五分ほどそうしていた。急に起き上がった蓮の手が星那の頬に触れた。心臓が高鳴るという状態を初めて理解した。蓮の顔が徐々に近づく。星那にとって初めての覚悟だった。お互いの唇が微かに触れる。狙いの場所を理解した蓮の唇が強く押し当てられる。その辺りから、ゆっくりと名残惜しそうな蓮の顔が眼に映るまで、星那の意識はぼんやりしていた。少し固まった後、気恥ずかしそうに星那の膝に顔をうずめた蓮を撫でながら、先程の幸福がさらに大きくなっているのを感じた。それは落ち着いた、ゆっくりと流れる川のせせらぎの様な安定と持続の確証がはっきりした幸福だった。蓮がネットから拾ってきた情報もあながち間違いではなかった。最後にしたい事はよくわからなかったが、自分のいま求めることはこれであると思った。自分が相手を愛し、相手もまた自分を愛しているという確証が持てるような安定して落ち着いた愛。静かで安らかな幸福がずっとそこに在ると思える事。星那は初めて、残り数日の自分の命を歯がゆく思った。
九月一日。星那は境内の掃除をしながらここ数日を振り返っていた。父の持ってきたいくつかの見合い話は、すべて断った。小学校の卒業証書が挟まれている様な仰々しい装幀に、見目おぞましい男の写真が、その略歴と共に挟み込まれたものが目の前に持ってこられる度、その無様な物体そのものの皮肉と、父の焦燥が現れていた。そして、よくもまあこれ程までに外れの縁談を生産できるものだと、父に感心した。ここ数日で、父に従うことの馬鹿々々しさを軽蔑することに何の抵抗も無くなった星那は、今は唯真っ直ぐに蓮の事を想っていた。父に従いながら頭の隅にしまい込んでいた恋情に素直に従うことの悦びを感じていた。少し前から違和感のある右手の人差し指を見ると、その白い指先に一点だけ黒っぽい点とも線ともいえない異色があった。ささくれだった竹箒の破片が指に刺さったらしい。社務所に戻って救急箱からピンセットを取り出しささくれを引き抜くうちに、もしもこれを蓮に伝えたらどんな反応をするだろうと思った。気のない返事でピンセットを渡してくるのか、それとも唯星那の様子を眺めているだけであろうか。いや、蓮に最も似つかわしい反応は憤慨だろう。愛する星那の美しい指先を竹箒如きが傷付けたと憤り、その常に温い手で星那の手を包むことだろう。そして自身がピンセットを、意外な物がたまたま出て来るごちゃごちゃなバッグから取り出して丹念に竹の破片を抜き取ってくれることだろう。平常のスンとした態度からは想像もできないが、意外と子供っぽいところもある蓮が、破片が取り除かれた後の指先に口づけでもしたら…。きっと日常的に蓮が隣にいるのが当たり前の生活なのだとしたら、こんなことも一つの冗談として二人で笑えるのだろう。しかも蓮がそんな風に冗談を言うのは自分以外にはいないと、恋人の特権ともいえるその冗談の甘味に至上の幸福を感じる事すら出来ただろう。まだ少し掃くところの残っている境内に戻ることなく自室に戻った星那は、自分の最も気に入っている服に着替えて布団の枕もとのスマートフォンと財布を取り上げ自宅もとい神社を飛び出した。
蓮は隣の県に住んでいると言っていた。最寄りの駅の名も聞いたことがあった。兎に角そこに向かう為に、星那は駅を目指していた。凡そ電車で二時間ほどかかるだろうか。自分も蓮も、その他有象無象もあと二日やそこらで死滅するという状況に当たって、遠くにいる最愛の人間に逢いに行くのにもかかわらず、星那の胸に焦りや急ぎは微塵もなかった。示し合わせたように自分の向かったそこに蓮がいる。そう信じることに一切の弊害はなかった。
駅についてホームで電車を待っている間、一応のアポは必要と思って蓮に電話を掛けた。数年も触れていなかった、メッセージアプリの「蓮」という連絡先の文字を探すのは、屋根裏で埃を被っているアルバムをめくるような感傷があった。そういう時は総じて、懐かしさと共に過ぎ去ったものへの名残惜しさが出てくるものだ。星那としては、あの可愛らしい恋人を自ら手放してしまった後悔があるから、それはより一層大きかった。幾度にもわたるコール音は儚く終わった。しかし、真面目だが抜けている彼女のことだ。慌てて家を飛び出して、スマートフォンを家に置き忘れたのだろうと、気にもしなかった。丁度ホームに入ってきた電車に飛び乗って、星那は初めて、自分の欲望のためにその他すべてを切り捨てた。
電車に揺られながらも、やはり考えるのは蓮の事だった。彼女との記憶の中の唯一の後悔が、蓮に対して言ってしまった一言だった。
「将来は親の決めた男と結婚して神社を続けないといけない。何時までもこの関係を続けられる訳じゃないんだ。」
ほんの世間話の合間の一言だった。別に蓮に飽きたとか嫌いになったとかで、体よく別れる口実の為に言ったわけではない。しかし彼女はそう捉えたらしい。最後に話した時、それを聞いた彼女はぶっきらぼうで、少し威圧的な文体だった。たまたまその時多忙だった星那は、話したいという蓮の申し出をメッセージアプリで完結させてしまった。だから、彼女の別れると決断したときの顔も、星那は知らなかった。蓮はきっと、この件に関して自分を責めているだろうと思っていた。蓮には、少々自己肯定というものが欠落しているきらいがあった。その欠落を補えるのはこの世の森羅万象の中で星那だけであると云う事もわかっていた。わかっていたからこそ、多少の事では別れたりなどしないだろうと思っていた。まさかほんの一言が、それほど蓮を苦悩させるとは思っていなかった。蓮がそこまで、一言一言の意味を深く考え、考えすぎてしまうことを予測できなかった。しかし蓮は、そんな自分の性格すらも欠点として、自分にそんな点があるから星那に愛想をつかされたに違いない。つまり自分のせいであの関係は破局したのだと、そうして自分を責めているに違いないと、星那は思っていた。
電車に揺られて二時間と十六分。蓮の住む町の駅までたどり着いた時、既に二十時を回っていた。蓮の家の最寄り駅の改札を出た時、そこに蓮の姿はなかった。当然のことであるが、星那の落胆は小さくなかった。それでも最寄りの駅に居れば偶然居合わせた蓮に逢えるのではないか。そんな楽観から駅の広場に在るベンチに座って待ち続けた。近くのコンビニで軽食と飲み物を買った。財布にはもう、家に帰る電車賃しかない。しかし蓮に逢えればそんなものも必要ない。星那はひたすらに待った。しかしそれらしい人は通らなかった。爆音でエンジンをふかすバイク集団。日本滅亡を回避できると信じるカルト教団のビラ配り。絶望を隠す気もなくだらだら歩く人々。そのどれも蓮ではなかった。目につくガラスの三分の一は破壊され、段ボールで応急処置がしてあった。最も、これから死ぬ人間の擦り傷を処置したところで何の意味も無いように、この応急処置もむなしいものに見えた。充電を忘れたスマートフォンは既にバッテリー切れで動作しない。駅前に備え付けられている時計を見るともう二十四時半を超えている。最終電車も無くなってしまった。これで偶然目の前を、片時も頭を離れることの無かった元恋人が通りかかる確率は絶望的になってしまった。
九月二日。始発電車が出るまで近くのネットカフェで時間を潰し、朝の七時半になるかならないかの頃星那は家に帰った。がっくりと肩を落とした星那に飛んできたのは、父の怒声と平手だった。もう二十歳を優に超えているのに、星那には父から門限が課せられていた。あの木偶の様な兄には無いのに、と思いながらも一度も口に出したことの無い事を、父に言った。もはや自分は何もかも捨て去って一人の女を求めていたにもかかわらずその唯一の望みが達せられなかった落胆は、ここで決壊した。自分でも何を言ったか覚えていないが、どうにか厳粛を保とうと奮闘している父の顔に向かって、星那は喚くだけ喚いた。そうして自室に駆け込み、充電の切れたスマートフォンを充電器に繋ぎ、無造作に布団に放り投げた。そしてその後を追うように、星那自身も布団に倒れこんだ。涙は出なかった。泣きたいほど辛くても、涙は出なかった。
数十分ほど経って、腹が減った星那はよろよろと台所に向かった。先程の一件は既に噂になっているらしく、廊下の陰から出仕たちの声が聞こえてきた。
「おしとやかで良い娘だと思っていたのに、本性があれとはね。」
「あと一日や二日なんだから、もう少し孝行娘を演じられなかったかね。」
「昨日の、譲さんの恋人だか何だかいう女と言い、死に直面すると理性を保てなくなるのか。そういう人種はあらかた取り締まられたと思ってたんだけどね。」
噂や陰口など意に返さない星那だったが、そこまで聞いて跳ね返った。割って出仕の間に入り、その胸ぐらをつかみ上げて問いただした。
「おい、どう云う事だ。何時の事だ、その女の特徴はどんなだった。全て教えろ!」
二十二年間決してあげられることの無かった星那の怒声は、出仕を震え上がらせた。出仕は、二十二年分の怒りを一挙にぶつけられたような感覚に陥った。
「星那さんが家を飛び出した一時間ほど後に、一人女が訪ねてきたんです。雪下星那に取り次いでほしいと言われて、しかしお見えにならなかったので丈司さんに取り次いだんです。私は星那さんの元恋人で、死ぬ前に一目会わせてくれと。丈司さんはひどくお怒りになってこっぴどく追い返したんです。三十分程食い下がりましたが、その女も諦めて帰ったんです。電話を忘れたらしく、社務所の電話でタクシーを呼んでやって、帰っていきました。」
更に問いただすと、その女の特徴は明らかに蓮である。やはり蓮も私を求めていた!私をまだ愛していた!蓮は唯待っていてくれればよかったのに、それでも自分から私に逢おうとしていた。その健気さが愛おしかった。それはそうと、蓮を侮辱したこの出仕は許せない。星那はひそかに鍛えていた拳を出仕の鼻頭めがけて力いっぱい飛ばした。出仕の鼻からは鮮血が噴出した。
次第にこみあげてきた父、雪下丈司への怒りが、次の星那の動力源だった。父は神前にはいなかった。父の自室に乗り込むと、デスクに座って書類を睨んでいた。
「丁度良かった。見合いの話が一つあるんだ。さっきのことは気にするな。俺も気にせん。」
そう言って丈司は、例の仰々しい見合い相手の写真を放ってきた。星那はそれをはねつけ、丈司に問いただした。今度は怒声は出なかった。唯落ち着いて、聞きたい事を問うた。
「昨日私を訪ねてきた女の子。なんで追い返したの。」
「出仕の誰かから聞いたか。うちは恋愛は禁止だと言ってあった筈だ。まして女など。そのことはもういい。さっさとその資料に目を通せ。今度こそは突っぱねることは許さんぞ。」
「答えになってないよね。なんで追い返したのか聞いてるんだけど。」
「やかましい!あのようなみすぼらしい女などどうでもいい。俺はお前の為に…」
そこまで聞いて、星那の中で何かが切れた。するとそこを起点としてぴきぴきと音を立てて亀裂が走り、大きく何かが崩れ去った。丈司が最後まで喋るよりも先に、部屋に飾ってあった大幣に手を伸ばし、丈司を殴りつけた。丈司は声を発さなかった。というより発せなかった。星那は何度も大幣を振り下ろした。何代も前から、重要な儀式にのみ使われていた神聖な大幣が、何度も丈司の頭を切り裂いた。鮮血が噴き出る。
「私のッ…蓮をッ…侮辱するなッ!」
むきになって腕を振り回す星那は、恋人を侮辱された怒りそのままに、更にそこに苦渋二十二年分の怒りを付与していた。大幣に込められた神聖の重さは、そのまま星那の怒りの重さだった。愛するものを汚されたことへの聖なる怒り、裁きだった。純白の大幣は、じわじわとどす黒い赤に染まった。そのどす黒さは、丈司の罪、丈司の悪であった。
丈司の眼に最後に映ったのは、大幣を握りしめた星那の右手についた、自分以外の者のわずかな赤であった。
肩で息をする星那の前には、もう動かなくなった元父親があった。無造作に大幣を放り投げ、くるりと後ろを振り返ると、ポケットの中で金属の当たる音がした。それはこの家の鍵と、神社の裏門の鍵だった。これを見つめ、その不快とともに背後の肉塊に投げつけた。星那はそのままの足で風呂場に向かい、身についた血を洗い流した。これが最後の、この家との決別だった。自分に纏わりついた雪下の血をすべて拭い去った。自室に戻り、そこらの手近な服を着て、また少しの金とスマートフォンを持って家を出た。家を出る直前、禰宜の、自分を呼ぶ声と廊下を走り回る音が聞こえたが、面倒なので放っておいた。
駅のホームについてメッセージアプリを見ると、蓮からメッセージが届いていた。
『君の家に行ったけど会えなかった。スマホを持っていなくて電話にも気付けなかった。こんな不甲斐ない自分を許してくれるなら○○駅に来てほしい。』
今日の深夜三時のメッセージだった。彼女が指定した駅は、星那の知っている最寄りの駅ではなかった。時計を見ると、もうすぐ九時になる。ホームに到着した電車に乗り、空いていた椅子に座った。これから蓮に逢える。数年を超えてやっと蓮に心からの想いを伝えるのだ。蓮からの想いはその数年を優に超えて私を愛してくれていた。それに応えるのも報いるのも違う。ただお互いのありったけの愛をぶつけあって、二人で一緒に居たい。その一心だった。思えばここ数日の見合いへの不快も、無計画に電車を乗り継いで時間を浪費したのも、先程の怒りという動力源が生じたのも、すべては蓮への愛を根拠としていた。それらすべてが過ぎ去った今、星那の中に在るのは蓮への愛だけだった。果たして、元々初めから、そこに在ったのは愛だけであったのかもしれない。
十一時半を回って、ようやく星那は、指定された駅に着いた。改札を出るとき、星那には興奮も高揚も無かった。ただそこに蓮がいて、「二人でいる」というただそれだけの行為が唯々幸福なだけであった。駅前広場の真ん中の一本の木を囲んで、石膏のベンチがあった。そこにレザーのジャケットを羽織った女が座っていた。記憶の中よりも少し髪が長くなっているが、それは紛れもなく蓮だった。一本の至極どうでもよい木の下に、静かに愛が座っていた。蓮はこちらに気付くと、その表情をぱっと明るくさせて駆け寄ってきた。近くに来て立ち止まると、今度は困ったように、しかし抑えきれない悦びを感じさせながらこちらを見つめていた。二人はどちらからともなく手を握り合って、ゆっくりと歩き始めた。
「久しぶり」という挨拶はなかった。最近あった事を喋りながら、二人で昼食を摂った。その後は近くのコーヒーショップで揃いの甘いフラペチーノを頼み、それぞれ繋いでいるのとは逆の手に持って蓮の家に行った。蓮は少し前から一人暮らしをしているらしかった。その部屋は狭く、必要最低限の物しか置かれていなかった。蓮の家で少し休んだ後、急に色っぽい表情の蓮からキスをされた。そのキスはいつかのそれと全く同じ、脈絡のない、技術もない、不器用で押し付けるだけのものだった。星那はそれが堪らなくうれしく、今度は自分から唇を押し付けるに至った。流れで互いに身体をまさぐり合って、疲れ果てて裸のまま床に寝転んだ。起き上がるまで常に密着していた蓮の身体は、かつてと同じく高い温度を持っていた。体力が戻って起き上がると、まだ半分程残っていたフラペチーノはすっかり溶け切っていた。冷房の音がうるさかったので切ると、蓮の呼吸が矢鱈はっきりと聞こえた。その後は二人で風呂に入り、上がるともう時刻は二十一時であった。出前を取って遅めの晩飯を摂って、また二人でもたれ合って時間を過ごした。二十二時五十分になった。
「あと十二時間だね」
蓮が言った。二人して感傷に浸って、「最期にどうのこうの」等と言い合うのは、どちらも望むことではなかったので、その一言で終わった。蓮がふとスマートフォンを取り上げ、暫く触っていた。そして急に放り投げると、星那に抱き着いた。胸にうずめられた蓮の頭をじっと見つめると少し震えているのがわかった。いくら何でも死は怖いか、と思いその頭を撫でると、涙ぐんだ目でじっと見つめてきた。そして
「愛してるよ」
と一言だけ言った。ふと、蓮が投げ出したスマートフォンの画面が眼に入った。ニュースサイトの一画面のようだった。小さくてよく見えなかったが、「神社」「雪下」という文字と共に、見慣れた境内の写真が見えた。星那は、蓮の突然の抱擁と涙目の本当の訳を悟った。蓮は、自分への愛がすべての根源となったことまで一挙に理解したのだ。そしてそこまで深い星那の愛を叩き付けられ、抱きしめる以外の行動が浮かばなかったのだ。蓮の眼に浮かぶ涙はうれし涙なのだ!やはり蓮は愛おしい。その愛おしさのままに蓮の頭を抱きしめる。そのまま蓮の布団に倒れこむと、目を閉じて二人とも寝入ってしまった。もう目覚めることは無いとしても、その寝つきは幸福であった。
⁂
九月四日。自室のベッドで星那は目を覚ました。先程まで何か夢を見ていた気がするが、あまり良く覚えていなかった。隣を見ると、恋人の佐宮蓮斗《佐宮蓮斗》が規則正しい寝息を立てて眠っている。半裸の蓮斗の、寝息と共に規則正しく上下する胸板はそれほど熱いわけでもなく、その寝顔は二十を超えた男にしては随分と幼く可愛らしかった、時計を見ると十一時三十四分である。互いに休みだからと、昼近くまで寝ていたようだ。あまりにも愛おしい寝顔の額に軽く口づけをする。目を覚ましたら蓮人は、必ず「お腹が空いた」というはずだ。何か作っておこう。ベッドから出ようとすると、無性に胸が痛んだ。この、普段はスンとしたアンニュイな青年の、幼く甘えたがりな本質から片時も離れたくなかった。もう一度寝姿勢をとり、蓮斗を強く抱いて眠ろうと思ったが、上手く寝付けなかった。もう一度、今度は唇にキスをして、この世で最も尊い恋人を抱く幸福を胸に充満させて、その寝顔を眺めていることにした。蓮斗が起きたら、出前でも頼もうと思った。
(終)
「大地震が起こればいいんだ。そうすれば僕はあの人を助けに行くだろう。」
三島由紀夫『春の雪』の中の一節である。私は、この一説が忘れられなかった。その他の何物が許さなかったとしても、自分の愛する人ただ一人が、その罪、その愛を許してくれること。それが人間における最上の幸福ではないか。しかし果たして、その人はを許してくれるだろうか。この考えがずっと脳裏に在るのだ。
この小説はそこから着想を得た。自分の愛する人ただ一人が自分を愛し、また自分がその人を愛する事を許してくれている。そんな様相を描きたかった。




