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第9話

 気付けば家はもう目の前だった。店を出てから30分ほど経っていたが、喋ったり、黙ったりを繰り返しながらの夜の散歩は、あっという間に過ぎていた。電気の消えた家は静かに、家主の帰宅を待っている。ヒールで坂を歩いていたため、紫野の脚はじんわりと疲れていた。無意識のうちに紫野がふくらはぎに手をやると、隆之介がめざとく声をかける。

「脚、大丈夫? なんか結構歩いたよね」

「私は大丈夫です。お兄さんこそ、明日も仕事なのに、遅くなっちゃって」

 紫野が首を振ると、隆之介は微笑んだ。

「いや、歩いたおかげで酔いがさめてよかった。それに、今夜はたくさん話せて楽しかったよ。いろいろ思い出して、懐かしくなった」

「うん……」

「ありがとうね、紫野ちゃん」

 隆之介がお礼を言いながら玄関ポーチの段をあがろうとしたとき、ポケットから何かが震える音が響いた。立ち止まった彼が「おっと」と言いながら、スリムなデザインの携帯電話を取り出して開く。薄暗い夜道に慣れ切っていた紫野は、飛び込んできた液晶の光に目を細めた。

「あ、産まれたって! よかったよかった」

 メールを読んでいた隆之介が喜びの声を上げ、液晶画面を紫野に差しだしてくる。そこには、産まれたばかりと思しき、赤くてふにゃふにゃした赤ちゃんの写真があった。やわらかそうな産着にくるまれて眠っている。隆之介が画面下にスクロールすると、もう1枚、今度は赤ちゃんの身体に顔を寄せ、短髪の男が満面の笑みでピースしている写真が出てきた。後ろにベッドのパイプが写っていて、病室だということがすぐわかる。

「よく話してる先輩だよ。そろそろ産まれるって聞いてたんだけど、無事女の子が産まれたって。よかったあ」

「へえ……。なんだか、赤ちゃんなのに顔、似てますね」

「うん、確かに目のあたりとかがよく似てる。血のつながりってわかるもんだね。『娘だったら、頼むから俺だけには似てくれるな』って言ってたのに、やっぱり女の子は父親に似るのかな」

 奥さんは綺麗な人なんだけどねえ、とニコニコしながら、隆之介がその場でメールで返事を打ち始めた。紫野は少し後ろに立ったまま、今しがた見せられた写真を反芻する。

 白く清潔そうな部屋。やわらかそうな赤ちゃん。満面の笑顔の親。まさに、しあわせな家族の姿そのものだ。望まれ、祝福されながら産まれてき子ども。

「女の子は父親に似る、って本当ですよね」

 紫野の言葉に、メール画面に集中していた隆之介は、そうだねー、と生返事をする。紫野が言った。

「私もそうだから」

 隆之介の指が、送信ボタンを押した。「送信完了」の文字が表示されたのを見届けると、手の中で携帯電話を折りたたむ。ポケットにそれを滑り込ませ、隆之介が腰の高さほどのポーチの門に手を懸けようとした、そのときだった。

「お互い父親似だから、私とお姉ちゃんは似てないんです」

 隆之介が顔を上げるのと同時に、センサー付きのポーチライトが反応して、あたりがパッと明るくなる。オレンジ色の灯りは、暗闇の中に立つ紫野の表情をくっきりと映し出していた。紫野は微笑んでいた。しかしそれは、長い時間が張りついたような、能面のような不思議な笑顔だった。何故か隆之介は瞬間的に、紫野がこのときに備えて、この表情をずっと準備してきたんじゃないだろうかという気がした。

 隆之介は紫野の言葉の意味を咀嚼しようと頭をフル回転させたが、考えれば考えるほど答えが逃げていくようだった。紫野の言葉を証明する、正しい方程式がみつからない。ごちゃ混ぜになり続ける思考に矢が刺さるように、紫野の声が隆之介の耳に飛び込んできた。それは実に明快な答えだった。

「私とお姉ちゃんは、父親が違うの。私、母が不倫してできた子どもだから」

 隆之介はぽかんと口をあけたままだ。それを見た紫野はすっと頬の筋肉をゆるめ、今度はきわめて無邪気に、いたずらそうに“ネタばらし”を続ける。

「名前も、顔も、性格も違うのは、こういうわけだったのです」

「……はじめて聞いた」

 開きっぱなしの隆之介の口から、力の抜けた返事が漏れる。他にもっと言うべきことがある気がするのに、それ以上気のきいた言葉は出てこなかった。

「だって、はじめて言ったもの」

 目の前の妹は、やはりいたずらそうに、さりげないことのように話した。こんなに重大な話なのに、まるで口ずさむように語るものだと、隆之介は思った。

 紫野が手を後ろに組んで、隆之介の顔を見上げながらささやいた。

「言ってなかったことがもうひとつあるの。お姉ちゃんが失踪した理由」

 隆之介の目が見開かれる。もう一度ブー、ブーという携帯電話のバイブ音が響いたが、彼がポケットを探ることはなかった。その重低音は10秒ほど鳴ったあと、途端に静かになった。再び夜の静けさが住宅街を包み込む。暗闇の中で紫野の口の動きだけが、たったひとつ、命を持つ生き物のようだった。

「最後にもうちょっとだけ、話してもいい? これで本当に、最後だから」


 紫野は幼いときから、ほとんど泣かない子供だった。理由は簡単で、母親がよく泣いていたからだ。食事中や、風呂に入れてもらっているとき、スーパーからの帰り道など、母は所構わず、思い出したように泣いた。今思えば、もうずっと情緒不安定だったのだろう。もともと保育園でも物静かなほうではあったが、母が泣けば泣くほど、紫野は自分の泣く機会を逸した。そのうちだんだん、涙自体が出なくなった。

 先に寝かしつけられた紫野が夜更けに目を覚ますと、ふすまの向こう側で母が泣いていることもしょっちゅうだった。そんなとき、中学生だった遼子が母を抱きしめて、だいじょうぶだいじょうぶと、まるで子供をあやすように慰めているのだった。そこでは、母と娘が逆転していた。そうされて母は、「迷惑かけてごめんね」と更に泣いた。

 その「迷惑」の原因が自分にあることを、紫野は本能的に理解していた。一度、母に連れられ、母の実家を訪ねたことがある。金の援助を頼むためだ。母は元はそれなりのお嬢様だったらしいが、己の不貞が原因で夫に離婚されたことで、体面を大事にする実家からも縁を切られていた。母の父らしき人物は、紫野を見て一言、吐き捨てるように言った。「その子か」と。

 母に愛されていなかったわけではない、と紫野は思う。家族3人で笑いあった、しあわせな思い出もちゃんとある。ただ、母は困惑していたのだ。自分のしたことの大きさにいつまでも後悔していた。その結晶が、紫野だった。



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