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第8話

 桜がはらはらと散っていた。空にはぼんやりとかすんだ月が出ていて、歩き続ける兄妹を淡く照らしている。家から最も近いコンビニを通り過ぎてしまうと、街灯以外には脇の住宅の灯りがわずかに漏れる程度で、坂道はいっそう静かだった。生きているものは自分たちふたりだけのようだ――紫野がそんな奇妙な錯覚にとらわれていると、隆之介の意外すぎる一言が、彼女を現実に引き戻した。

「そういえば、背の高い男の子とはどうなったの? あれ、彼氏?」

「はあ!?」

 思わず素っ頓狂な声が出て、足を止めた。隆之介が腕組みをして、してやったりという顔で紫野を眺めている。いったいこの男は何を言い出すのだろう。

「見ちゃったんだよねー……。夏に新宿で。伊勢丹の裏あたりを、ふたりで並んで歩いていたでしょう。それから映画館に入らなかった?」

「うそ、見てたなら、声かけてくださいよ!」

「デート中の妹を邪魔するなんて、無粋でしょう」

「デートっていうか……」

 紫野が口ごもって、少し怒ったような、困ったような表情を見せた。普段冷静沈着な彼女の、こんな姿は珍しい。隆之介がさらに続ける。

「割とイケメンだったよね。結構、お似合いだと思ったんだけど」

「だから、そういうんじゃないですから」

 紫野がぷいと横を向き、隆之介を置いて歩き始める。隆之介は苦笑しながら後を追った。


 お兄さんだって、とは言えなかった。紫野は知っている。2年前の秋から冬にかけて、隆之介が妙にいそいそとしていた時期があった。結果から言えば、大したことにならなかったようだが、その相手とは何度かデートくらいしただろう。いつも愛用している柔軟剤の、清潔でやわらかい香りを漂わせている兄から、そのときだけは湿った、色恋の匂いがした。

 ある日紫野がダイニングに入ると、隆之介が窓のほうを向いて、携帯電話でなにやら喋っている。女の声が聞こえるなと紫野が思ったとき、振り返った隆之介が紫野の存在に気付いた。そのときの表情といったら、母親に悪さがバレた子どものようだった。慌てた様子で電話を切ると、「紫野ちゃん、足音がしないからびっくりした」と無理して笑ってみせたものだ。首筋にじっとりと汗をかいている。

「……会社の人ですか?」

「うん、まあ、そんなところ」

 その言葉は間違いではなかった。それからしばらくした土曜の午後、「忘年会の打ち合わせをする」と、隆之介の会社の同僚がやって来たことがある。ちょうど出かけるところだった紫野は、玄関前で挨拶しただけだったが、その中のひとりの女性に妙に見られた気がした。他の人たちは「これが噂の紫野ちゃんね」「おー、美人じゃん、香田」と、好奇心や、無邪気なからかいの目で紫野を見ていたが、彼女だけは別だった。ファー付きの白いコートに茶色いブーツを合わせ、いかにもOLといった可愛らしい外見の、小柄な女性。口こそ笑みの形に開いていたが、そんな戯れはいかにもつまらないと言わんばかりに、目はじっと据わっていた。そのくせ、紫野の全身を上から下まで一瞬で見回し、目に焼きつけようとしているようだった。視線の正体を一言で表すなら、それは敵意だった。

 なるほど、こいつか。

 バス停に向かって坂をくだりながら、紫野は納得した。彼女にしてみれば、狙っている男にくっついているワケありの妹など、目ざわり以外のなんでもないだろう。紫野が隆之介のしあわせを阻む足かせ、くらいに思っているかもしれない。今日の集まりも、彼女が隆之介の家に行くことをさりげなく提案したのではないかと、紫野は思った。恋に夢中な女は、そういうことをしたりする。結局、嫌な思いをするのは自分なのに。

 不思議なことにショックや焦りは湧いてこなかった。いつかこんなことも起こるだろう。漠然と予想してきたことだ。紫野はむしろ、妙な安堵すら感じた。

 若いんだもの、すぐ別のいい人をみつける――。遼子がいなくなったとき、外野はそんなふうに囁き合ったものだ。紫野ですら、それも当然なのだろうと思っていた。だが隆之介は実に忍耐強く、恋や性といった要素を寄せ付けなかった。そんなふうで大丈夫なのだろうかと、紫野が心配するほどに。

 最寄りのバス停に着いたが、紫野はベンチに座ることなく、じっと立っていた。丘の上なので風が強い。枯れ葉がカサカサと足元を舞って、力なく吹き飛ばされていく。

「ふっ」

 いつの間にか、紫野の口から笑い声がこぼれていた。皮肉でねじれた、兄と妹の関係を思う。隆之介はいつだって、自分によくしてくれた。充分すぎる庇護を受けてきたことは、紫野が一番よくわかっている。やさしくてお人好しな兄は、報われて当然の存在だ。しかしその一方で、隆之介がもし本当に誰かと恋におちたら、紫野の居場所はなくなってしまう。彼のやさしさはきっと、そんな事態を避けようとするだろう。それが紫野への裏切りだとでもいうように。目ざわり、しあわせを阻む足かせ。まったくそのとおりだと、紫野は思った。私はいつだってそうだ。

 

 口元の自虐的な笑みが消え、紫野の黒い瞳が静かに翳る。横顔を張りつめさせながら、彼女は一点をみつめた。頭の中で、紫野は数字を数え始める。5年と9か月。残り1年3か月。あともう少しで、否が応にもこの矛盾は終わる。そのときが来るのが恐ろしいようで、不思議と待ち遠しくもあった。そのとき、北風がバス停を襲い、ベンチがガタガタと震え、紫野の身体が小さくおののいた。バスはまだ来なかった。


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