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第7話

 駅から丘の上へのびていくゆるやかな坂道を、紫野と隆之介は並んで歩いていた。進むにつれ、すれ違う人の数も少なくなっていく。春の夜風が、坂の下から吹いてきて、ふたりに追いつき、追い越していく。隆之介のスーツの裾がはためき、パタパタと楽しげな音を立てる。

 紫野がかつて暮らしていた下町は、家も店も人も、基本的にぎゅうぎゅうに詰まっていた。一方、このあたりは明治時代から続く古い高級住宅地で、街全体に独特の余裕と静けさがあった。大通りから一歩入れば、昔の面影を残した街並みが姿を現す。そこかしこに小道や坂があって、長く暮らしている隆之介でも、知らない場所に迷い込んだような印象を受けることがある。

 石畳の階段の前を通り過ぎた。ここを上って少し行くと、小さな神社がある。祀られている神様は学問をつかさどるといい、地元ではちょっと有名なスポットだった。紫野のセンター試験当日、隆之介は出勤前に立ちよって、お参りしたことがある。このことは、紫野には内緒にしてあった。当時の紫野は見るからに気を張っていて、とてもじゃないが、こちらから受験に関する話などできなかったのだ。


「やっぱり、反抗期ですかね……」

 右手に豚トロの串、左手に柚子梅酒のソーダ割を持ったまま、隆之介が遠い目をしてつぶやいた。複合ビルの地下にあるチェーンの居酒屋は、外の寒さに反比例して、スーツ姿の男たちの熱気でにぎわっていた。

「香田、それ26の男が発する言葉じゃないぞ」

 向かいの席に座っている別部署の同期が、呆れ気味に言う。その隣には、いつぞや隆之介を遼子のクラブに連れて行った、件の先輩。ねぎまを串から引き抜きながら、うんうんうなずいている。

「だって、最近本当にしゃべってくれないんですよ! ようやくちょっとは懐いてくれたかなと思ってたのに、食事以外はずーっと部屋で勉強してるし、休みの日も図書館で勉強してるし、顔を合わせてもなんかこう、ピリピリしてて」

 再び隆之介が嘆いた。分厚い参考書をどっさり抱え、そそくさと部屋に戻る紫野が思い浮かぶ。以前はダイニングで宿題したり読書したりすることもあったのに、最近は丸一日顔を合わせないこともザラだ。

「でもよー、その子、高3だろ? 年が明けたらすぐセンター試験じゃん。真面目に勉強してることに、むしろ安心すべきじゃね?」

 食べ終わった串で、先輩が隆之介のほうを指してきた。同期も「俺もそう思うっす」と同調する。隆之介は小首をかしげ、「大学受験って、そこまでするものですか……」とつぶやいた。

 それがいけなかった。地方から関東の大学に進学した同期と、1浪・1留を経験している先輩から、ブーイングの集中砲火を受ける。

「うわっ、これだから内部進学組ってムカつくわ! 俺だって当時は必死こいて勉強してたよ。母親が『必勝』って書いたハチマキとか買ってきてさあ、肉体的にも精神的にも追い詰められてたっていうのに」

「反抗期以前の問題だな。お前と違って、その子は普通に公立に通ってるんだろ? 俺が妹だったらぶん殴りたくなると思うぜ?」

「す、すみません……」

 自分では気をつけているつもりなのだが、ときどき他人から見たら“抜けている”発言をしてしまうらしい。

「じゃあ、僕には見守るしかできないんですかね」

「そういうことだ。受験は自分との闘いだ」

「ネガティブなことは言うなよ。安心させるのが家族の役割だ。母親にプレッシャーかけられまくった俺が言うんだから、間違いない」

 同期はこの話を始めるといつも長くなる。改めて、受験とはすごいものなのだなあと、やはり他人事のように隆之介は思った。

「それにしても」

 先輩が急に真面目な顔つきになる。

「俺もちょっと、責任感じたりしたもんだけどさ。正直、こんな生活長く続くとは思わなかったよ? 血の繋がってない女子高生を引き取って面倒みるなんてさあ、いくらお前がぼっちゃんだからって、そう簡単なことじゃないだろ」

 社内でも、隆之介と紫野のことはすっかり知れ渡っていた。当初はいろんな人に同情されたり、質問攻めにされたりしたものだ。あまり面識のない上司に、いきなり「困ったことがあったらいつでも言え」と肩を叩かれたこともある。もちろん好意的な人たちばかりではなく、陰口やあらぬ噂を立てられたこともあったらしい。同じ会社の専務でもある父は息子の状況に頭を抱えていたようだが、3年も経ってしまえば、もはや大して話題にも上らなくなっていた。と、隆之介は思っていたのだが……。

「まあ、学費は僕の貯金から出したりしてますけど、二人暮らしなんで、それほど大変でもないですよ。家事は妹が率先してやってくれますし、助かっているくらいです」

「だから、そういうことじゃなくてなぁ」

「いいんすよ先輩、こいつのことはほっときましょう」

 わかってない、という顔をする先輩を、同期がフォローする。心配されているのが伝わって、隆之介は少し照れた。

「確かに、自分でも何やってるんだろう?って急に不安になったりもするんですけど」

 隆之介は手元のグラスを眺めた。底で生まれた泡が、切れ目なく立ちあがってくる。

「でもふとした瞬間に、ずっと昔から一緒に暮らしてたように感じることがあるんですよ。不思議ですよね。妹にとってはいい迷惑かもしれないけど、僕個人は、ちょっと感慨深くなったりするんです」

 向かいの席のふたりが顔を見合わせた。先輩が力なく言った。

「お前って、なんつーか、やっぱりいいヤツだよな……」


 先輩たちの言うとおり、受験が無事終わると、それまでが嘘のように紫野はリラックスした。正直なところ、受験の前と後では、少し性格まで変わったんじゃないかと思えるほどだった。彼女が合格したのは難関の国立大学で、隆之介の父親の出身校だった。それを父に告げたとき、なんと向こうからこちらの家に出向いて、祝い金をくれたことがある。「うちの息子3人は私立にやってラクさせてしまったから、君が後輩になってくれて嬉しい」とまで言ったのだ。かつてあれだけ紫野のことを反対していたくせに現金なものだと隆之介は思ったが、兄としての自分も認められたような気がして、少し誇らしかった。このときは紫野も、遠慮しながらも笑顔をつくった。


 大学に入ってから、ますます紫野は変わった。表面的には相変わらず冷静だし、一定の距離を保っていたが、以前の緊張感のようなものが徐々に消えていったのだ。ちょっとした冗談も言いあえるようになった。大学生というある程度自由がきく立場になったことが、彼女をラクにしているように見えた。それは隆之介にとっても、単純に喜ばしかった。

 そしていつの間にか、遼子について話すことが、お互いなくなっていた。


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