第6話
しばらくそうしていただろうか、ふと身体が楽になって、視界が開ける。目の前にあった麦茶のグラスに気付き、手に取る。ゴクゴクゴクと一息に飲んだ。透明な茶色の液体が、喉や食道を通るのが見える気がした。ひんやりした感触に、脳が潤う。
部屋に戻ろう。戻らなくては。紫野は手早く本を片付け、グラスを台所の流しに置いた。そろそろと、ダイニングから脱出する。静かに開けたはずなのに、扉がギイと音を立てた。階段を昇りながら、いまだ履きなれないスリッパが、パタン、パタンと空気を押しつぶしていく。
部屋のドアを開けたら、窓を開けっ放しにしていたらしく、風が吹き込んできた。昼は穏やかな日差しだったが、夜風は意外と冷たい。部屋はすっかり冷え切っていた。10月も下旬。これから、どんどん寒くなる。
紫野は小さく舌打ちして、がばっとクローゼットを開けた。下段に収納してあった薄手のブランケットを手に取ると、担ぐようにして部屋を出た。もう一度階下に向かう。面倒くさいので、スリッパは部屋の前で置き去りにしていった。
相変わらず隆之介はソファの上で、健康的な寝息を立てながら眠っていた。紫野は息をひそめながら、そろり、そろりとソファの表側に回り込んだ。
ソファに投げ出された、隆之介の身体。義兄をこんなにじっくり見るのははじめて会ったとき以来かもしれない。人の好さそうなやわらかい頬は、酔ったせいかいつもより赤みを増している。口角の上がった薄いくちびる。上品なペールグリーンのネクタイを着けた胸が、寝息に合わせて小さく上下している。何か、しあわせな夢を見ているのだろうか。赤子のように顔に手を添えている姿は、24歳という年齢よりも幼く見えた。ただ、最初に会ったときよりも少し痩せた気がした。よく見れば目元にもほんのかすかに、皺がよったような感じもする。
隆之介にかけようと、紫野はブランケットの端と端を持ち、腕を上げてはためかせた。
そのときだった。隆之介が目を開いたのだ。
紫野の動きが止まる。見上げた隆之介と目が合った。
雷に打たれたように、隆之介が上半身を起こす。紫野が言い訳しようと口を開くよりはやく、乾いた声で、隆之介がうわごとのように叫んだ。
「りょ……っ」
だが、その名前は最後まで呼ばれることなく、夜の空気に消えていく。視線をつなげたままの隆之介の瞳に、みるみるうちに失望が広がっていくのが、紫野にははっきりと見て取れた。それはどんな言葉よりも雄弁だった。紫野はブランケットを広げたまま、何も言えずに突っ立っていた。この状況にとるべき言動が何一つ浮かんでこない。遠くで時計の針が鳴らす音だけが、左耳から入って、右耳から出ていった。その間も、ブランケット1枚を隔てて、兄と妹はみつめあっていた。
ごめんなさい、と言いかけたそのとき、唐突に隆之介の目から涙があふれ出た。最初の一滴がまっすぐ細長い筋を描いて顎まで到達すると、そこからはもう止まらなかった。あっという間に涙腺が決壊して、次から次から涙があふれてくる。雨乞い後に神が降らせた僥倖かのように、その光景はどこか芸術的ですらあった。
「ご、ごめ……」
自分でも信じられないといった表情をして、隆之介は頬を濡らし続ける。そのうち顔がゆがみ始め、ずっ、と鼻をすすったかと思うと、「ごめん、ごめん、ごめん」と繰り返しながら、手のひらを顔に当てて崩れ落ちた。
ああ、可哀想なひと。
こんな若い身で、結婚直前の婚約者を失って、関係ない妹を引き取って。何ひとつ進展しないなかで、ニコニコと他人の結婚式に出席して、さらには自分の家なのに、泣くことすら遠慮しなくてはならないなんて。
思わず紫野はブランケットを頭の高さに引き上げて、向こう側の隆之介に呼びかけた。
「見てません」
バカみたいだ。自分でも思う。でも、そうせずにはいられなかった。
「見てませんから」
隆之介の嗚咽が一回り大きくなった。大の男が発する濁音の洪水を、紫野はその姿勢のまま耐え続けた。
「はーー」隆之介がため息をつく。「もう大丈夫です、すみません」
ソファに浅く腰かけ、隆之介が頭を垂れていた。ローテーブルの上には、空になったティッシュの箱が転がっている。
紫野はソファの端にちょこんと腰かけていた。さっきまでの緊張感が解けて空気がゆるみ始めると、途端に居心地が悪くなってきた。顔を合わせないように、意味もなく自分の足の爪先を眺める。
「本当に面目ない。ごめんね」
「別に謝ることじゃないです。私こそ起こしてしまってすみません」
「今日は飲みすぎました。申し訳ない。以後気をつけます」
「私は別に……。じゃあ、部屋に戻ります」
言い逃げするようにして立ちあがると、紫野はダイニングを出ようと歩き始めた。その後ろ姿を、隆之介が立ちあがって呼びとめる。
「ありがとう」
紫野はなぜだか、振り返りたくなかった。横顔だけ、隆之介のほうに傾ける。
「紫野ちゃんは泣かなくてえらいのに、こんな頼りない兄でごめんね」
「そういうんじゃありません」
思わず隆之介の言葉を打ち消して、紫野は強い口調で言った。
「他人の世話になっているのに、泣くのは、おこがましい気がするんです」
それを聞いた隆之介は小さく目を見開いて、それから、照れたような、困ったような、いつもの笑顔を浮かべた。
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
紫野が静かに部屋を出ていった。しばらくして隆之介も、電気を消して続く。ブランケットが残されたまま、部屋はようやく秋の眠りを迎えようとしていた。