第5話
「他人の世話になっているのに、泣くのは、おこがましい気がする」
私がそう言ったとき、義兄はどう思っただろう。小さく目を見開いて、それから、照れたような、困ったような、いつもの笑顔を浮かべた。笑っているのに、さみしそうだった。それとも私は同情されただろうか。強情な娘だと、憐れまれたのだろうか。
「ああ、だいぶ酔った……」
隆之介は力尽きたようにテーブルに両腕を置き、かくっと頭を落とした。先ほどの鴨のコンフィはもちろんのこと、最後に出てきたオマール海老とクリームチーズのパイ包み焼きまですっかり平らげてしまうと、さすがに食べ疲れてぐったりした。
「フランス料理って、まさに肉食!って感じよね。ワイン以外の飲み物じゃ、なかなかつり合いが取れなくて、ついつい飲みすぎちゃう……。あ、お水ふたつください」
グラスに残っていた赤ワインを素早く飲みほし、紫野が手を上げて店員に合図する。隆之介は怠惰な動きで両腕のカフスボタンを外しながら、恨めしそうに紫野を見上げた。
「といっても紫野ちゃん、全然酔ってるように見えないよ。顔、真っ白ですけど」
「まあ、お兄さんよりはアルコール耐性あるかもね。はい、お水」
ぶつくさ言いつつも、隆之介は素直に水を受け取る。紫野はふふっと笑いながら、膝に敷いていたナフキンを取り上げ、口元を押さえた。隆之介が独り言のようにつぶやく。
「まったく、誰に似たんだか……」
それは、何も考えずに口から出た言葉のようだった。証拠に、彼は「あー、美味しい」と言いながら、水を飲むことに集中している。紫野は動きを止め、その無邪気な横顔を眺めた。ナフキンに隠された口元が、知らないうちにゆるんでいた。
「突然変異かもね」
「え、なに?」
「ううん、なんでもない。会計してくるから、お兄さんは水飲んで待ってて」
時刻は22時半。予定より長居をしてしまった。紫野が財布を持って立ち上がる。慌てて追いかけようとした隆之介を、紫野が制した。
「いいの、今日は私のおごりって決めてたから。たまにはいいでしょ、ね?」
じゃあ次は僕が、という言葉が、背中から聞こえてきた。紫野はレジに向かいながら、右手をあげてそれに応えた。
このあたりは閑静な住宅街だが、今の時期は桜が見ごろになるだけに、夜道はまだまだにぎわっていた。特に駅から丘の上へとあがっていく道には、等間隔に桜が植えられ、いい名所となっている。ふたりの住む白い家も、その途中を入ったところにあった。
駅から家まで少し距離がある。普段ならバスかタクシーを使って帰るところだが、「酔い覚ましに歩いて帰ろう」と提案したのは紫野だった。春の夜の天候は気まぐれだが、今夜は過ごしやすく、風の勢いもちょうどいい。頬をなでていく風が、酔った身体には気持ちよかった。ゆるやかな坂道を、ふたりは並んで歩き始めた。
* * * * *
家の前に車の停まる音がして、紫野は読みかけの本から目を離し、ダイニングの壁にかかっている時計を見上げた。深夜1時を回ったところだった。思っていたよりも隆之介の帰りが早い。今夜は友人の結婚式に出席して、そのまま仲間うちで飲むから、帰りは朝になると言っていたのに。
土曜の夜だった。紫野は図書室で借りた分厚い本を読破しようと、夜更かしを試みていた。やっと最終章まで読み進めて、いよいよクライマックスを迎えようとしている。不本意なところで中断せざるを得なかったことに、紫野は少なからず失望した。
自分の部屋として与えられたのは、2階右奥の8畳の部屋。カーテンから机から棚から、すべて引越しのときに新調されたものだ。普通の15歳の女の子にとっては、新しい部屋というのは、それ自体が格好の娯楽に違いない。ポスターを貼ったり、雑貨を飾ったり、友だちと長電話したり。しかし半年暮らしてみても、紫野は、自分の部屋というものに慣れなかった。部屋を使いこなせない、という言い方が正しいか――。姉と暮らしたアパートには和室が二部屋あるだけで、勉強も食事も肘をついてテレビを見るのも、いつもちゃぶ台だった。奥の部屋では姉と布団を並べて寝た。こんなに正確に、明確に区切られたスペースを、自分で支配することができなかった。まるで舞台装置の上に、エキストラとして存在しているような錯覚を覚える。
それでも普段なら、夜は用がない限り部屋にいる。理由は簡単で、隆之介となるべく顔を合わせないためだ。義兄がなんとか話題を探そうとして、毎回いらぬ苦心をさせるのも面倒だったし、あまり何も考えずにいたかった。静かに日々をやり過ごしたかった。
だから、学校から帰ってきて夕食の準備をするまでの時間や、今日のように隆之介が確実に家を空けているときだけ、何も気にせずダイニングにいられる。もちろん、そこにあるのは折りたたみのちゃぶ台ではなく、立派なウォールナットの6人掛けテーブルだが、自分の部屋に追い込まれたような気分でいるよりは、数倍の開放感があった。
玄関に人の気配がして、紫野は耳に意識を集中させた。やや間がある。どうやら、隆之介は鍵を探していたらしかった。ガチャガチャという音がする。特段大きな音ではないはずなのに、寝静まった住宅街に響いた気がして、紫野はなぜか決まりの悪さを覚えた。
「ただいまぁ~」
義兄が呑気な声を発しながら、廊下を歩いてくる。バンと扉が開き、隆之介と目が合った。
普段ならここで隆之介が一瞬背筋を伸ばすのだが、今日は違った。「あれぇ、紫野ちゃんまだ起きてたの?」。いつも以上にニコニコしてダイニングを横切りながら「これ、おみやげ。お菓子食べていいよ」と、テーブルの上に白い紙袋をどんと置いた。そのまままっすぐにソファへと向かい、片腕で上着を脱いだかと思うと、それを丸めてまくら代わりにし、ごろんと横になってしまった。ソファの背に隠れて、隆之介が見えなくなる。
あっという間の展開に、紫野は立ち上がるタイミングを失い、最初から最後まで座ったまま、ぽかんとしていた。思い出したように「あの」と、遠慮がちに、ソファの向こう側にいる人に呼び掛けてみる。
「ジャケット、皺になると思いますけど」
ふぁ~と、あけっぴろげな欠伸が聞こえた。
「いーのいーの。今もうれつにきもちいいんで、またにして……」
意味不明なつぶやきを最後に、物音が途絶えた。
こんなに酔っている隆之介ははじめて見た。未成年の紫野に気を使っているのか、家で飲むときはいつも缶ビール1本程度だったし、飲み会があったとしても、手洗いうがいをするくらいの余裕はなくさない人なのに。
テーブルに置かれた紙袋に目をやる。中には、白地に金の模様がプリントされた包装紙に包まれた箱がいくつかと、日本酒の小瓶と、メニューのようなものと、可愛くラッピングされたフィナンシェが入っていた。これが引き出物というやつらしい。
音をたてないように立ち上がって、もう一度ソファのほうを見る。紫野の場所からは、だらしなくはみ出した右足が見えた。その足が、一定のリズムで小さく揺れている。なんだろうと思ったら、同じリズムで、いつの間にか寝息が聞こえていた。
それが寝息だと気付いた瞬間、紫野は身体の芯から手足の先へ、言いようのない感情が噴出するのを感じた。おののきと安堵。相反するふたつの感覚が、猛スピードで心体を襲った。思わずテーブルに手をつく。深呼吸せずにはいられなかった。
自分以外の誰かの寝息。
本当に久しぶりに聞いた気がした。身近なものであったはずなのに、今この瞬間まで、ずっと忘れていた気がした。
たったそれだけのことで、なぜ……。
こんなにも動揺してしまうのだろう。